1 予期せぬ来訪者
七日目
卵の運搬を終えた昼過ぎにイルベルトの元を訪れると、複製された“ズーのウロコ衣”が赤いクロースの上に陳列されていた。
――僕らは昨日イルベルトに隠し通したエメラルドグリーンの方の指輪で、二枚目となる“ズーのウロコ衣”と、こちらが要求した通り、履いた者の重量を羽のように軽くする、“羽靴”を寄越した。
*
「それで? キミは一体何をしようとしているんだい?」
屋根裏に溢れ返った雑多に深く鼻息を吐いてから、首を振ったスノウは僕に訝しげな瞳を向けた。あれから数日が経過して、今の時刻はイルベルトが裏通りで店を開き始める十五時位だった。
「正直少し、予想は付くけれどね」
スノウは部屋の隅に立て掛けてある細長い板から、リズが滑り落ちて来てガラクタを舞い上げる光景にウンザリしてた。そうして腕を組み、二度こめかみを指先で小突いてから言う。
「じゃあ懸念すべきは突然のリセットだけだね」
スノウが無数のロープで組み上げた縄梯子を手元で遊ばせる僕に向かって頷いた。
そう――僕らの記憶を突如と忘却させてしまう突然のリセット。その原因不明の災厄だけが僕らの唯一の懸念材料という事に以依然変わりは無かった。
何とも言えないミステリアスな表情を見せ始めたスノウに、僕は得意になった。胸を張りながら、鼻の下を指先で擦って答える。
「だけど、その心配も明日までだ」
「明日だって?」
「そうだよスノウ、リズも聞いて。――僕らは明日、村のみんなを連れて、この呪いから脱出する」
目を丸くしたリズが、生唾を飲み込んだ音がこっちまで聞こえた。
「それって、明日壁を越えるって事……なの?」
微笑んだ僕は、二人の神妙な顔付きを見渡してから頷いた。
「決行は明朝六時三十分、場所は村の東南、つまりイルベルトの現れると言う、風穴の場所だ」
――準備は整った、僕らは明日、このスノードームを抜け出して見せる。
「……」
頷き合った僕とリズの隣で、スノウが何かを言おうとして口を開き掛けたけれど、結局その口から何かが発せられる事は無かった。彼の長いまつ毛が伏せられていくのだけを、僕は見ていた。
*
夜会を終えて後、スノウと二人きりになった屋根裏で、僕らはこれまでの日々を振り返っていた。散らかった屋根裏はなんだか落ち着かないけれど、八年越しの決戦前夜――今日という夜は感慨に耽る以外に無いだろう。これまでの日々を逡巡しながら、屋根裏に一つ灯ったランプの揺らめきに心を投じる。
「いよいよ明日。僕らの戦いが終わるんだ」
「……うん」
僕らの本能にそう刻まれているのか、得も言えない火の魅力に心吸い寄せられているスノウは、ランプを挟んで対面となった形で灰の瞳を猛火に揺らめかせていた。そんな彼の気のない返事に僕は首を傾げる。
「どうしたんだスノウ、浮かない顔をして」
「キミは感じないのかい、この嫌な予感を……」
柔和な笑みを携えた僕を、灰の視線が切り付ける様に一瞥していった――
「なにか根本的な所を間違えているみたいな……それにまだ解き明かせていない謎も沢山ある」
――確かにスノウの言う様に、僕らにはまだ分かっていない謎がある。
・石の壁の向こうに吹き荒れる死の霧の実態。
・世界を巻き戻すリセットのトリガー。
・過去の僕らを忘却させた突然のリセットとは。
・居なくなった村の人たちが何処に行ってしまったのか。
・呪いの影響を受けないセーフティゾーンが何故存在するのか。
・イルベルトの言う風穴とは。
・〇時十一分に東南の方角の石の壁で起こる壁の崩壊音の真相。
・僕らが八年前の十二月二十四日をループし続けるその理由。
・僕らにこんな呪いを施した、霧の魔女の思惑とは――
そうしてスノウは毅然と僕の目を見返して言い放って来たのだった。
「何か妙だレイン、壁越えの決行は考え直すべきだ。一歩間違えればキミは、本当に死んでしまうかもしれないんだよ?」
僕の肩を力強く掴んだスノウの剣幕に、驚きを隠せずに狼狽する。それでも思い詰めた表情をして、スノウは譲らない。それが僕には異様に思えたんだ。
けれどスノウはやがて思い直した様に下を向くと、シーツに沈み込みながらこう囁いた。
「いや、忘れてくれ……キミにわからない事を言ってごめんね」
沈黙の中、スノウは背けた顔の前で、床を鍵盤に見立てて指先を立てた。そうして彼の夢であるあの楽想のメロディを口ずさみながら、憧れに向かってその指を這い回らせるのだった。
得も言えない不安に襲われた僕は、彼の丸まった背中に微笑み掛ける。
「心配する事なんて無いよ。今に僕らは奪い去られた刻も取り返して、人生をやり直す事が出来る。キミの弾きたがってるその曲だって、時間を取り戻せばきっと届かなかった鍵盤にも指が届く様になって、完璧に弾きこなせる様になる。キミの夢が叶うんだよスノウ!」
すると彼は、雪が溶け出すかの様に微かな声でこう残すのだった。
「それは、僕の夢なんかじゃない……」
「え……?」
――そこで、二十二時を告げる消灯の鐘が響いた。
「少し、外の空気を吸って来る」
気まずい空気の中、必死に捻り出した言葉はそれだけだった。俯いたまま屋根裏を降りると、お母さんを起こさないようにそっと玄関の扉を開けて、肌寒い夜気に身を晒した。
「――――っ」
そこにはただ、茫漠とした闇が、行く先の見えぬ混沌だけが広がっていた。雨音に支配された世界がじっとりと僕を侵蝕し、やがては僕だけじゃなく、この世界の全てを呑み込んでしまいそうな程に、それは虚空だった。
すぐ隣に潜んで居ながら、すっかりと失念していた闇の奥深さ、その壮大さに圧巻されながら、この繰り返しの村に立ち向かうという事の恐ろしさを痛感する。
「待って……何か、聞こえる?」
空寒い心象の狭間に覚えるは、びゅうびゅうとなる風の隙間で起こっている誰かの呼吸音。僕はそれに気付いて、月明かりを頼りに音の在処に近付いていった。
「誰……っ、そこの干草の中で眠っているのは」
その音の発生源が、どうやらうちの軒下に積み上げられた枯れ草の中から起こっていると言う事に気が付く。けれどもその姿形は何処にも見当たらない。
「なんで、確かに誰かが寝息を立てているのに」
眼下に広がる干草の光景の中に、僅かな景色の歪みを覚えた僕は、そろそろと手を差し伸ばして何も無い筈の中空に何かを掴むと、勢い良く引っ張り込んだ――
「イルベル……ト?」
空間に突如と現れた布らしき感覚を引っ張り上げると、そこに見えていた景色がズレて、見覚えのある細長い四肢が姿を現した。寝息の主は、隠しようのない手足を枯草から垂らしたまま、ムクリと起き上がって斜めになった仮面を僕に向ける。……余談だけれど、彼は眠る時にも仮面とハットをしたままらしい。(変なの)
「おやおや誠に妙だねぇ、私の姿が見えている? すなわち“姿隠しのマント”が剥ぎ取られたと言う事であるが……この仕掛けを見破るとは、とんだ慧眼だね少年。人様の敷地で無断で雨宿りと……これは紳士として気恥ずかしい所を見られてしまったものだ」
イルベルトの言っているのは、無断でうちの軒下を寝床にしていた事に対してなのだろうが、同じ日々を繰り返し続ける僕にとってはそれ以上の驚きがあった。
「イルベルト、キミはずっとここで、うちの軒下で夜を明かしていたのかい?」
「ん? 何故私の名を知っている……それに、ずっとだと? 何をいうのか少年よ。私はこの村に来たのは今日が初めてなんだがな」
今日はイルベルトの元を訪ねていないので、彼の認識では僕らは初対面という事になるのだろう。だから仮面を真っ直ぐに直しながら彼は首を振っていた。望んだ返答は返って来なかったけれど、イルベルトは毎夜うちの軒下で過ごしていたのに違いないと思った。……いつかの夕刻、彼はこの雨風を凌げる寝床を探すと言っていた。そのお眼鏡に、枯れ草を積み上げたうちの軒下が適ったという事らしい。
「……っ、そうだイルベルト、こっちに来て!」
閃いた僕は、枯草まみれの彼の手を引いて引き起こす。大仰に驚いた彼は混乱するまま不満を垂れ始めた。
「少年よ、遊びならまた明日にでも付き合おう。私は疲れているのだ、キミらに言っても分からぬだろうが、私は本日、誠に信じ難い経験をして――」
「壁に空いた風穴を覗いたら、全然違う世界に紛れ込んだんでしょう?」
「ん……何故それを?」
彼の発する緊迫した空気の中で、僕はあっさりと言ってみせる。
「イルベルト、キミは僕らの言う繰り返しの世界を信じられないって、そう言ったよね」
「……? ふぅむ、もしやと思うが、キミはこの奇怪な現象を繰り返しと……刻に分断されていると定義していると言うのか?」
「ご明察だよ。僕の名はレイン。それと僕らが出会うのはこれが初めてなんかじゃない」
「ふぅむ成る程。そう仮定すれば確かに、本日私が遭遇した現象との筋も通る……クック、だが悪いな、繰り返しなどはあり得ない」
「その証拠を、今見せると言ったら?」
「は……?」
仮面からはみ出した細長い顎が、シワを刻んで震え出したのに僕は気付いた。
「ふっふっふ……それは実に未知で、面白い」
リセットの時刻までまだ時間があるけれど、僕はイルベルトを連れて、お母さんを起こさない様に、そろりそろりと屋根裏まで彼を連れ出す事にした。




