5 そうやってキミはいつも逃げる
昨日よりも少し早いけれど、夜会に向けてお母さんを迎えに行くことにした僕ら。リズはどうして怒ったのかな、なんて考えていると、日暮れになって来た雨の村。ボンヤリと遠景に緑の豊かな山の起伏を見ていると、やがて無骨な石の壁が視界に入って来た。すると悲惨な姿となった鶏の姿が脳裏に蘇る。
「あの壁の向こうには、もう死の霧が立ち込めているんだ」
スノウは答えるでもなく長いまつ毛を伏せると、しばらく僕と並んで歩きながら、道に沿う様に咲き並んだ、雨粒を乗せたブーゲンビリアの薄赤色の頭を指で弾いた。飛散する水が僕の背中を濡らす。
「イルベルトの話しは、やっぱりあてにならないかい?」
――彼は死の霧なんて無いと言っていた……。
心に残る微かな突っ掛かりはきっと、希望の無い未来に、道化師の言葉を信じたかったからだろう。だけどどう考えたって彼の話す内容は……
「彼はペテン師だよ……スノウ」
ハッキリとそうとだけ答えて、視界の悪い裏通りを過ぎていこうとした時だった――
「ふぅむ、ペテン師か……」
何気なく通り過ぎた背中に、そんな男の声が投じられた。眉をひそめた僕が足を止めると、背後から、何かを注ぎ込むかの様な物音がある事に気付く――
「――――わっ!」
温かで芳醇な香りに振り返ると、屋根だけになった吹き抜け小屋の中心、床から突き出た赤と紫のフクシアの花弁に囲まれながら、小さな丸テーブルの側の木の椅子に腰を据えたイルベルトが居た。彼の足下に広げられた赤いクロースには、どれも見たことの無い品物が陳列されているけれど、屋根からの雨漏りでどれもこれも水滴が付着している。
「ペテンはどっちかな、少年よ」
イルベルトは夕暮れの下で優雅に足を組んで、ティーポットからトポトポと紅茶を注いでいる所だった。しっかり色付いた黄金色の液体は湯気を上げて、華やかな香りを解き放っている。
「繰り返すが、死の霧なんてものは無いよ」
上品にティーソーサーを胸の前に上げながら、右手でカップの取手をつまむ様に持ち上げ、顎を上げずに口を付けるイルベルト。仮面の口元だけを覗かせて、芳しい湯気に微笑する口元が見える。
僕の背中に隠れたスノウ。僕は勇気を出して怪しい仮面に言葉を返す。
「死の霧が無いだって? 僕らは確かにこの目で見たんだ、石の壁の向こうには、もう魔女の霧が蔓延しているんだ!」
「井の中の蛙、大海を知らず……未だ、空の青ささえも。閉ざされた世界で生きるキミには、見えていないものがある」
意味深なことを呟き、クッと紅茶を飲み下していくイルベルト。僕には彼の言っている言葉の意味がわからない。だけれど彼の品位ある言葉使いが、その妄言にややばかりの現実味を持たせてくる。……するとイルベルトは仮面の奥からくぐもった声を出した。
「少しわかって来た。この村について……」
そう言ってイルベルトは足元に下ろした大きなカバンから、一組のティーセットを取り出して新たに紅茶を注ぎ始めた。少し煮詰まって色の濃いお茶が香りを広がらせると、彼はティーソーサーに乗せたカップを一つ、僕の胸に突き出した。
「さぁ、取るがいい少年よ」
仮面の向こうから覗く未知なる眼光が僕を試しているような気がして、僕は一歩後退る。鼻で息を吐いたイルベルトは、表情も見えぬ仮面姿のまま、椅子に背もたげ、客人に断られた紅茶を丸テーブルに置いた。
「見ていくか? 私の扱う魔道具の数々だ。どれもこれも、キミたちにとっては物珍しいものだろう」
彼が手で示した赤いクロースの上には、小瓶に入った輝く砂、不気味な二枚の舌ベロ、中に不思議な光景の広がる水晶卵、背景を歪ませている透明な何かに、巨大な羽で編み込まれた赤いブーツ、植木鉢に入った銀色の植物、生臭いウロコ付きのボロ布……まさかこれが、魔導商人としての彼が扱う魔導具だと言うのだろうか。……というか、こんな所で勝手に商いなどして随分と図太い所があるらしい。
奇妙な品物に少しの興味も覚えながらも、僕は意を決して仮面を見上げる。
「ねぇイルベルト、僕らはキミに聞いてみたい事があるんだ」
動揺したスノウが僕の背中を掴む。けれど僕らの置かれた状況はどん詰まり以外の何者でもない。藁にもすがる思いで、一度道化師の言葉に耳を貸したっていいかも知れない。
「ふぅむ、私としても新たなる未知と出会えるかも知れない……か」
唸ったイルベルトは頭上のハットを整えると、顎に手をやり長い足を組み直した。彼の腰元で揺れた曲刀の鞘が鈍く光る……
「私の知る事で良ければ」
前屈みになってズイと顔を近づけて来たイルベルト。漂い始めた挑戦的な雰囲気に、僕は本能的に仰け反ってしまっていた。
「じゃあ……死の霧が無いって、どうしてわかるの?」
「村人たちの話しからすると、その霧は東から来るのであろう? 私はここより遥かな東、フォルト領アリオールの都から馬で旅をして来たが、そんなものを目にする事は疎か、話しすらも聞いた事がない」
「フォルト領? アリオール? 僕は地理には詳しいつもりだけれど、そんな都はこの大陸で聞いたことも無いよ」
「私も聞いてはいない。このような地に霧隠れする、スノードームの村がある事など」
「スノードーム……?」
「スノードームの境界は透明だ。一度侵入してしまえば、ガラスに遮られて外には戻れない。あらゆる環境はその球体の中で完結し、降りしきる雪も、この中でだけ起こる現象に過ぎない」
スノウと顔を見合わせながら眉を下げる。そうして怪訝な表情のままイルベルトに振り返って首を振って見せた。
「キミの言っている事がわからない……」
「だろうな、キミたちにとってはここが真相の全てなのだから」
含みを持たせる様な妙な言い回しを続けるイルベルト。彼の話しをこのまま黙って聞いていたら、終いにおとぎ話しでも読み聞かされているのかも知れない。なんて思った僕は話題を変える事にする。
「イルベルト、キミは昨日、霧の魔女が死んだ事は知っているのかい?」
「……霧の魔女は死んではいない。ただひどく弱っている」
「待って、死んでないなんてそんな筈が無いじゃないか。アルスーン王国の騎士たちは、魔女に確かにトドメを刺したんだ。でなきゃ戦争は終わらないじゃないか!」
「懐かしい名だ……しかし残酷な事を伝えよう。キミたちの王国はもう消滅した。人類と魔族による闘争は――」
――彼の話しを最後まで聞く事もなく、僕はスノウの手を引いてその場を離れていく。
「どうしたんだよレイン、まだ彼の話しの途中じゃないか」
「キミは、彼のあんな話しが信じられるとでも言うのかい? あんなふざけた世迷言を」
怒りまなこで振り返ると、揺れる白銀の髪の隙間に、僕の残したティーカップを持ち上げていくペテン師の姿が見えた。
「そうやってキミは、真実から目を背ける」
肩を怒らせたままその場を立ち去っていく。
――彼の語った言葉の全てはデタラメだ。出なきゃ辻褄が合わないんだ。
僕らが今宵、死に絶えることに……辻褄が。




