第56話 始まりの日Ⅱ
次の日の朝、緋色はいつものように走っていた。丘の上の公園まであと少し。
「緋色ちゃん。おはよう」
後ろから声をかけられた。
なんとなく聞き覚えのある声に立ち止まり振り向くと、裕幸だった。
「おはようございます」
先輩だ。
よく声をかけてくるし、色んな所で会うので、顔は覚えてしまった。
でもなぜここにいるのだろう?
初めて会う。
裕幸は緋色と同じようにTシャツに半パン姿で汗もかいている。だから、ジョギングの途中なのだろう。
「いつもここ走ってるの?」
「はい」
走り始めたのは、全国を目指すようになってから。亮が亡くなってからだ。 それから雨の時以外はほとんど走っている。
「そうなんだ。俺、前もここを走ったことがあって、実は緋色ちゃんに会っているんだよ」
緋色には覚えがない。? という顔をしていると、
「入学式あたりかな。三日間ここを走ったんだよ。会ったといってもすれ違っただけだけどね」
今まで別のコースを走っていたが、心機一転と思い変えたとき。
でもあえなく撃沈した。距離が長すぎた。だが、夏休みのように時間の余裕がある時には、走ることができる。それにもしかしたら、緋色に会えるかもしれないという期待もあったのだ。
緋色はその言葉を聞いてようやく理解した。
たった一日しか身に着けなかった真紅のウエアの事を、なぜ知っていたのか。
見られていた。道理で知っているはずだ。
「でも、よく覚えていましたね」
ただすれ違っただけなのに。亮以外、目に入らない緋色からすると感心ものだ。
「だって、かわいかったから。一目ぼれだったんだよね。だからよく覚えている」
サラリとてらいもなくいわれて緋色はびっくりして、目を瞬かせた。
(かわいい? 一目ぼれ?)
そんなことを言われたのは初めてだった。今まで告白されたことのない緋色は、驚いてしまった。
正確には、告白されるための手紙とか呼び出しとは知らなかったから、男子が告白する前に、顔や名前を知らないことを理由に断っていたからだ。
ちなみに、このことも里花の忠告。しかも告白の大半は里花が断っている。藤と佐々がそばにいるようになってからは随分と減ったのだが。そんな裏事情があるとは緋色は知らない。
だから不意打ちのように言われた言葉に、なんと答えていいのかわからなかった。緋色にとって初めての告白の相手だとは、裕幸は夢にも思ってもいないだろう。
びっくりしたように自分を見ている緋色に気づいた裕幸は、自分が何を言ったのか理解した。あまりにもすんなりと出てきた、言うつもりもなかった言葉に、
(これじゃあ、まるで告白みたいじゃん)
自覚すると、とたんに顔に朱をのぼらせ、恥ずかしさを紛らわせるように頭をかいた。
緋色は黙ったままで、ただ裕幸を見つめるばかりだ。
「えっと……」
あまりにも、まじまじと見つめる緋色から視線をそらせると、裕幸は次の言葉を探す。一目ぼれは本当の事だし、仲よくなりたいと思うし、つきあえれば最高なんだけど。
頭の中でぐるぐる考える。でも、彼女はおれのことなんて眼中にないんだろうなってことは、薄々感じる。というか、ほぼないだろうなあというのは日々の反応から窺える。普段、ノー天気な裕幸も何も考えていないようで、実は考えていたりする。
(待てよ。一番重大なことを思いだした)
「俺の名前知ってる? 名前呼ばれた記憶ないんだよね」
これだった。校内の女子たちから、ユッキーとかユッキー先輩とか呼ばれても、緋色からは呼ばれたことはなかったことに思い至った。
「知りません」
あっけなく即答。これはへこむ。
それなりに人気があって一応ファンクラブなるものもある。何度も告白されたことはあるし、モテないわけではないと思っている裕幸だが、緋色はまるで興味がなさそうだった。
男の範疇に入っていないのだろうか?
告白以前の問題だ。まずは名前から覚えてもらわないと。気持ちを切り替えて言ってみた。
「やっぱり。じゃあ、今度から裕幸って呼んでよ」
「……」
緋色は目を大きく見開いて、ますます裕幸を見つめる。
沈黙がイタイ。
呆れられているのだろうか。いきなり名前呼びは図々しかっただろうか。
でも、彼女にはユッキーとか松嶋とかじゃなく名前で呼んでほしかった。
この人はいつも突然だ。
緋色は、一目ぼれと名前の事とどうつながるのだろうかと考えていたが、結局はよくわからなかった。
でも、なんだか憎めない人だなぁとも思う。あまりにも天真爛漫すぎて。思わずくすっと笑った。
「裕幸……先輩?」
呼んでみて、呼び捨てにはできなかった。
妙な感じ。
今まで誰にも、そんな風に呼んだことはなかったからだ。
「先輩かぁ」
ちょっと残念そうだったが、すぐに気を取り直した。
「いっか。それで。ねっ、呼んでみてよ」
「……裕幸先輩」
ちょっとためらいがちに、おずおずと口にした緋色がかわいい。心なしか顔も赤くなっているような……
「いいねぇ」
裕幸は両手を握りしめて感激している。目もうるうるしている。嬉しかったらしい。
とにかくここからだ。
いつかは彼女になってくれるといいな、期待に胸をふくらませつつ言った。
「今からそう呼んでね。一緒に走ろ」
邪気のない笑顔で誘われた緋色は自然と後を追うように走り出していた。
お兄ちゃんに見せるはずだった真紅のウエアを一番に見たのは、この人だった。
高校生になれば着られるようになるかと思い、ずっとクローゼットのひきだしにしまっておいたのだ。
もう大丈夫だろうと、いざ着てみたら、まだ昨日のことのように亮との会話を思い出してしまい、次の日からは着られなかった。
たった一日の出来事をこの人だけは知っている。
不思議な気がした。
裕幸の横顔を見る。
この人はひまわりのような人だなと思った。明るくて前向きで、いつも光に顔を向けている人。
以前のわたしもそうだった。お兄ちゃんがいれば幸せだった。お兄ちゃんがわたしのすべてだった。 わたしはいつも光の中にいたのだ。
でも、お兄ちゃんはいない。
お兄ちゃんを亡くしてしまった悲しみは、すぐには消えないけれど。
これからも思い出しては泣くかもしれない。それでもいい、少しずつでも変わりたい。
朝日が緋色たちを照らす。夏の日差しは暑いけれど、太陽が応援してくれているようで心地よかった。
光に向かって、一歩、一歩、進んでいく。
そして、緋色は決心する。
強くなろう。




