第41話 回想
ある日、応援に行った地元の大会で緋色は二回戦で負けて、励ましてあげようと思って声をかけたのに、
『二回戦まで行けたから充分だし、満足しているし、試合に負けても悔しくもない、何ともないよ。楽しかった』
と満足そうな顔で答えた緋色の言葉に、おれは一瞬固まってしまった。
兄貴は中三の時シングルスで全国優勝し、その後、紫杏高校に入り、全国の高校生の中で活躍していた。将来を期待されてもいた。勉強との両立で大変なはずなのに、時間を見ては緋色に教えていたのは知っていたから、てっきり兄貴のようになりたいと、肩を並べられるように強くなりたいと思って頑張っているのだと思っていた。
少なくともおれはそう思っていたから。ただ、楽しくしたいだけなら中学の部活でも事足りる。
それじゃ、わざわざ一緒に練習する意味がないじゃないのかと思ったのだ。
だからだったのかもしれない。
緋色にとってバドミントンはただの趣味、楽しみでしかないもの。だったらいつもいつも一緒にいる必要はないと、少しはおれの方も見てほしいとそう思ってしまったから、あんな言葉が出たのかもしれない。
『もういいんじゃねえの、バドミントンは緋色には必要だとは思わない』と険を込めて兄貴に言った。
兄貴の部屋に入り、いきなり言った言葉がそれだった。
兄貴は机に向かっていたが、おれの声に何事かと振り返った。怪訝そうな顔でおれを見ていた。だから同じことをもう一度いった。すると、驚いたように目を開き、真意でも探るようにじっと俺を見ていた兄貴が「ああ」」とつぶやいた。
やがて、柔らかな笑顔でくすくすと笑いだした。ちっとも危機感を抱かない余裕の態度がむかついた。
『何がおかしいんだよ。こっちは真剣に言っているのに』
『ごめん。ごめん』
軽くいなすような口ぶりで、肩をすくめた。その態度もなんか癪に障る。兄貴はいつもこうだ。穏やかでにこやかで人当たりがよくて、非の打ちどころがない。だからよけいに腹が立つ。
しばらく沈黙が続き、おれの言葉の意味を訪ねてきた。夕方のできごとを話すと思案するようにしばらく宙に視線を走らせた。やがて、
『緋色にとってバドが必要かなんて本人が決めることだけど』
そう前置きして、さきほどのにこやかな表情から一転して、真剣な目でおれを見据えた。そして予想もしなかったことを言った。
『緋色は、あの子は天才だよ』
言われた意味がすぐには理解できなかった。ぽかんと口を開けてしばらく声が出せなかった。
(天才? 緋色が?)
信じられなくて兄貴をじっと睨んだ。
『だったら、なぜ勝てないんだよ』
『時期がくれば必ず。きっともうすぐだよ。例えば来年とか』
『……来年?』
『そう。中三の全中で優勝する』
『はぁ? そんな簡単に』
兄貴の自信に満ちた言葉に呆れた。
せいぜいよくて二回戦の緋色がそんな簡単に全国に行けるはずがない。ましてや優勝などと。ずいぶんな過大評価だと思った。
去年おれもサッカーで全国へ行き、ベスト8になったが、今年もそうだとは限らない。大会で常に上位に入っていれば可能性はあるかもしれないが、それでも全国への道は簡単ではないはずだ。
『信じられないのはわかるけど。でも本当だよ。緋色にはそれだけの実力がある。あと一年あるから、そのための練習をしていくつもりだよ』
兄貴は揺るぎのない目でおれをまっすぐに見た。自分が教えている緋色に対しての自信なのか? どこにそんなものがあるのかはわからない。おれにはバドミントンのことはわからない。
『なんでそこまで』
『せっかく見つけた才能だからね。伸ばしてあげたいし』
『それは兄貴がやらなきゃいけないことなのか?』
『……そうだよ。今はね。自分の手の届くうちは関わりたいと思っている。緋色が高校生になればまた違ってくるだろうから』
兄貴が真剣に緋色の将来を考えていることがわかってくると、だんだんと絶望感に似た気持ちが心の中に広がってくる。
おれが思うよりずっと兄貴は緋色のことを想っている。
『それに、おれも実績を作らないとね』
『実績?今でも十分……』
全国で優勝し、将来だって期待されているのに、兄貴は首を横に振ると、
『世界に出ていないからね。どんなに国内で優勝してもね、たいした実績にはならない。だから、今度はインターハイで三冠とって、世界に出ていく。それがおれの目標だよ』
兄貴は自分の将来も視野に入れて考えている。それじゃあ、兄貴と緋色の将来は?
『翔、お前には言っておく』
心を見透かしたように、兄貴は決意に満ちた真剣な表情で、挑むように、おれの目を見てはっきりと宣言した。
『おれはこれからもずっと、緋色と共に生きていくよ』
なぜ、兄貴がこのときそんなことを言ったのかはわからない。はっきりと言葉にした緋色への気持ち。緋色の事が好きで誰にも渡す気はないのだと決心していることだけはわかった。
おれには一縷の望みもないのだと痛感させられた。
その時がとうとうやってきたのだと、これから緋色への思いをどうすればいいのか、現実に打ちのめされて、しばらくは立ち直れなかった。
それが真剣に交わした兄貴の最後の言葉になった。
今から思えば、この日の出来事がなければ、緋色にバドミントンは続けさせなかっただろうと思う。
わざわざ兄貴の思い出につながるものをやらせたくはなかった。悲しむ姿を苦しむ姿を見たくなかったからだ。いつまでも兄貴に囚われてほしくなかったから。
それに緋色も望んではいなかった。あのままだったらきっとやめていただろう。それでよかったはずだった。
ただ……あの日、緋色を全中で優勝させたいと願った兄貴の思いが、いつまでも心の中に残っていた。揺るぎのない自信。天才だといわせた緋色の実力がどこまでのものなのか。
もしも叶うものなら見てみたい。そう思ってしまった自分もいた。
果たして、本当に全国優勝してしまったのだ。
そして、今もバドミントンを続けている。この先どうなるのかはわからない。
道を指し示すはずの兄貴はいない。これからは、緋色が自分自身で決断していかなければならない。
いつまで。
緋色はおれの手の届くところにいるのだろう。




