第36話 在りし日の……夢
ちょうど本屋の前だった。いつもの雑誌を買って店を出たところで、亮を見つけた。
『お兄ちゃん』
整った顔立ちの笑顔が似合う遠野亮は、隣に住む幼なじみの一人、小さい頃からずっと「お兄ちゃん」と呼び、慕ってきた大好きな人だった。
『緋色』
亮も気づくと、はじけるような笑顔で駆け寄ってくる。
『こんな所で会うなんて、びっくりー』
緋色は偶然の出会いを喜んだ。
『ホントだな。今日練習は?』
『午後から。二時からだよ』
『うわぁ。一番暑いときじゃん。中学生って元気だな』
今は七月下旬。夏の真っただ中。
バドミントンは風が厳禁だ。シャトルは風の影響受けやすいため、体育館を閉め切るのだ。定期的に風を入れるが、それでも室内はかなり暑くなる。
『もう、やる前から死んでるよ』
『ハハハ』
状況がわかるだけに、それを想像して亮が笑う。
『お兄ちゃんは?』
『今日は休み。だから、買い物に来たんだ。もうすぐ、出発だからね』
『いつ?』
『二十九日』
『じゃあ、もうすぐだね』
『ああ、なんか飲む?』
亮が本屋の前の自販機を指さす。
『コーラ』
『OK!』
亮がコーラを二本抱えてきた。
『時間ある?そこの公園で、ちょっと涼んでいこうか』
通りの向こう側に、小さな公園がある。緑が生い茂って木陰ができている。二人はちょうど陰ができているベンチに座って、コーラを飲んだ。
『はあ。生き返るー。ちょうど何か飲みたかったの。ありがとう。お兄ちゃん』
『よかった』
幸せそうな緋色の笑顔に亮は目を細めた。
『お兄ちゃんは、大学に行くんだよね』
緋色はふと思い出したように亮に尋ねる。
『そうだよ。取りたい資格もあるし、そのあとは実業団に入る』
『そうなんだ。うーん』
緋色は腕組みをして、なにやら考えている様子だ。
しばらくすると、亮の方に向きを変えて真面目な顔になった。
『わたしね。全然、お兄ちゃんとかぶらないの』
『なにが?』
『学校』
『ああ』
『だって、中学も高校も大学だって一緒にならないんだよ。お兄ちゃんと行きたいのに』
緋色はいつもそれが不満だった。
年が四つ違うせいで、小学校でさえ、一緒に通ったのは二年間だ。いつもお兄ちゃんは先にいってしまう。いつまでたっても追いつけない。当たり前のことなのだが、やっぱり寂しい。
亮はそんな緋色の頭をなでながら、にっこりする。
『学校は無理だけど、ひとつだけ重なるところがあるんだよ』
『えっ。どこ?』
緋色の顔がパっと明るくなった。
『実業団だよ』
『?』
そう言われてもピンとこない。想像もつかない。
『おれは大学を卒業したら実業団に入る。緋色は高校を卒業したら実業団に入る。そうすると、同じ年に入れるんだよ』
(そんなこと思ってもみなかった。でも)
『そりゃ。お兄ちゃんは、全国大会に出て優勝もしているし、すごく強いからいいけど。わたしは、だめだもん』
最後のほうはうつむいて、声が小さくなっている。
(二回戦だって、なかなか勝てないのに)
『ばか。自分で可能性をつぶしてどうする。緋色はね、これからだよ。まだ自分の力知らないから。それに、誰が教えていると思ってるの?おれのこと信じられない?』
緋色はあわてて亮にしがみつく。
『ううん。ごめんなさい。お兄ちゃんのこと信じてる』
亮は優しく肩を抱いた。
『それでね。もう一つ、いいことがあるんだよ』
(いいこと?なに?)
思わず顔をあげて亮を見た。
『緋色とね、ペアが組める。混合ダブルス』
『お兄ちゃんと?』
信じられないという顔で、亮をまじまじと見つめる。
(お兄ちゃんとダブルス。同じコートに立てる)
衝撃的だった。お兄ちゃんからバドミントンを教わって、いつもいつも背中を見てきた。手を伸ばしても届かない存在。それはずっと、続くんだと思っていた。それなのに、お兄ちゃんのとなりに立てる。
初めて希望が見えた気がした。
うれしさのあまり首に手をまわして思い切り抱きついた。
『そう。だからおれ、頑張っているんだよ。緋色のとなりに立てるように』
『違うよ。わたしがお兄ちゃんのとなりに立てるようにだよ。言葉間違ってるよ』
『元気でた?』
『うん』
亮は様子を窺うように緋色の顔をじっと見る。
『それからもうひとつ、これからは何も考えずシャトルに集中して、おれが教えたことを思い出して、自信を持って試合をすること』
『それって……そうしたらお兄ちゃん、わたしとダブルスを組んでくれるの?』
『もちろん。四年後になるかな。きちんと緋色に申し込むよ。おれのパートナーになってほしいって』
『ほんとうに? うれしい。だったらわたし頑張るよ』
緋色は涙声だ。
亮は素直に喜んで笑顔を向けた緋色をぎゅっと抱きしめた。
『よし。じゃ、そろそろ行こっか』
もう温くなってしまったコーラを一気に飲み干し、ゴミ箱の中に入れた。
二人は手をつないで歩いていく。
『おれはインターハイ三冠。今年最後だから、これは絶対達成する。緋色は全中優勝』
『うん。頑張って優勝する』
『そして二人で、オリンピック金メダル』
二人は見つめ合うと、お互いの手を握りしめた。
お兄ちゃんと一緒ならどんな夢だってきっと叶う。未来は薔薇色。二人が夢見た未来はきらきらと煌めき輝いていた。
そうして、別れたのだった。
このまま時間が止まってしまえばよかったのに。ううん、もう一度、この日に帰ることが出来たなら……何度も、何度も思う。何度も、何度も願う。
その数時間後のことだった。
気づいた時には病院だった。
兄貴が会いたがっていると、翔と晃希に連れてこられたのだ。
病室に入った時、信じられなかった。
亮がベッドに横たわっている。
おじちゃんと祥子さんが泣いている。
『お兄ちゃん』
なぜ? さっきまで元気だったのに。
また明日って、笑顔で別れたのに。
なんで、ここにいるの?
『来てくれたのね。亮、緋色ちゃんよ』
祥子さんの涙でかすれた声。
翔と晃希に支えられてベッドに近づく。
いくつもの機器に囲まれ、酸素吸入と体には包帯が巻かれ所々血が滲んでいる。
(うそっ……)
交通事故だった。
横断歩道で、信号無視の車にはねられたのだ。
意識不明の重体。息があるのが不思議だと言われた。
亮は目を閉じたまま、動かない。
『お兄ちゃん。お兄ちゃん。目を開けて』
ベッドにしがみついて、緋色が叫ぶ。
ピクッと手が動いた。その手を握る。
さっきまでつないでいた手には、力がない。
『お兄ちゃん』
亮の指に自分の指を絡ませて、緋色は精一杯握りしめる。
『お兄ちゃん、笑って。いつもみたいにぎゅってして、お兄ちゃん』
うっすらと目があいた。でも、見えてはいないだろう。
亮の目じりから、つぅと涙が一筋零れ落ちた。
『お兄ちゃん、聞こえる? 緋色だよ。お兄ちゃん』
口が微かに動く。でも、声にはならない。
目が閉じて、やがて、呼吸が止まった。ピーと電子音が虚しく室内に響く。
(うそ、うそ、うそっ……)
『いやだ。お兄ちゃん。お兄ちゃん』
動かなくなった亮を揺さぶる。
『起きて。お兄ちゃん。起きて。起きて。緋色をひとりにしないで。お兄ちゃん』
何度も、何度も、泣き叫んだ。
けれど亮は、二度と目を覚まさなかった。
『お兄ちゃん』
遠くなっていく亮を掴まえようと、せいっぱい手を伸ばした。けれど、姿は闇に紛れ、声さえも聞こえなくなった。それでも、何度も叫んで、探して、探して……探し回って……
*****
「お兄ちゃん」
目を覚ました時は、自分のベッドの中だった。見慣れた天井。
ふっ、と正気にかえる。
夢だ。でも……一番見たくない夢。
この頃は大丈夫だったのに。夢も見なくなっていたのに。
ゆっくりと起き上がる。
体が重い。
頬には涙の跡。
首すじには、べったりと汗。
シャワーを浴びよう。
それから……学校行かなきゃ。




