第31話 波乱の芽
「それがさ、遠野亮って人なんだって」
その言葉に藤と佐々が息を飲むのがわかった。緋色は目を見開いて氷の如く固まった。里花の表情は変わらなかったが。
一瞬で空気が変わった。
そこにはあったはずの和気藹々としたムードは、どこにもなかった。弦を極限まで張りつめたような、触れると今にも切れそうな危うい雰囲気が伝わってくる。美佑は緊張しながら、息を殺して成り行きを見ていた。
「びっくりだよー。密かに憧れてたんだよね。何たってバド部の人だし、超イケメンだし。一度会ってみたかったなあ」
思いを馳せるように瞳をキラキラさせて話をする菜々。
「でも……亡くなっちゃたんだよね。残念だよね」
自分の世界に入っている彼女は気づかない。目の前の緋色たちの変化に。
藤と佐々が心配そうに緋色を見る。紙コップに添えられた緋色の手が小刻みに震えていた。明らかに動揺している。俯いて目を伏せ何かに耐えるように、唇を噛みしめていた。やがて耐え切れなくなったのか、緋色が立ち上がった。
いきなりの行動に、
「どうしたの?」
何も知らない菜々が怪訝そうに緋色に声をかけた。
「え……あっ」
緋色は言葉にならない声をあげると、逃げ出すように後ろ姿を見せる。それを見た里花が藤と佐々を見て、彼らは素早く立ち上がると緋色の後を追った。
「何? 何があったの?」
菜々だけは訳が分からず、キョトンと目を丸くさせていた。
「ちょっと、気分が悪くなったんじゃないのかな? この天気だし」
美佑が空を見上げた。今日は雲一つない快晴、太陽も眩しいくらいに照り付けている。こんな日は熱中症にもなりやすい。気分だって悪くなるのもおかしくない。
菜々も眩しい太陽に掌をかざして、目を覆いながら空を見上げた。
「大丈夫かな?」
何も知らない菜々は突然いなくなってしまった緋色たちの姿を遠くに見つめ、気遣うように言った。
「そうだよ。里花、緋色のところに行ってあげて。藤井くんと佐々田くんだけじゃ手が届かないところもあるんじゃない? ここは菜々と片付けとくから、ね?」
冷静な顔を崩さない里花に美佑は助け舟を出した。
「そうね。じゃ、あとはお願いね」
美佑の言葉に里花は三人の後を追った。
(びっくりしたってものじゃないわね。ここで亮さんの話題が出るなんて、思いもしないじゃない。誰に聞いたか知らないけれど、事情を知らないっていうことは、時にはこんな爆弾もあるってことよね。それにしても、美佑には……ばれてしまったかもしれない)
里花はこれからのことを考えながら歩いていった。
居たたまれなくなってあの場から逃げ出してきた緋色は、突然足を止めた。
「緋色」
あとを追いかけてきた藤と佐々の声に緋色はそっと振り返る。
「ごめんなさい」
緋色は青白い顔で震えていた。
「謝る必要なんてないし……」
後に続く言葉が見つからなくて、藤はそのまま黙ってしまった。佐々も同じだった。
「うん。びっくりして……」
緋色もそれから先は続かなかった。突然出された亮の名前に、息が止まるかと思った。やっとの思いで封じ込めてきた悲しみは、まだ癒されないまま、心の中に新たな傷を作る。
言葉にすれば涙が溢れてきそうで……泣きたくはなかった。泣けば楽なのかもしれないが、みんなに心配をかけてしまう。やっと、笑えるようになったのだ。緋色は唇を噛みしめた。
藤と佐々はそばにいることしかできない。こんな時、気の利いた慰めの言葉も行動も思い浮かばない。悲しみを無理やり閉じ込めようとする緋色が痛々しくて、思いは充分わかり過ぎているのに、何もできない自分たちが歯痒かった。
その時里花が現れた。
「もうすぐ、昼休み終わるわよ。緋色、どうする?」
里花の何の感情も含まない声に、緋色はゆっくりと顔を向けた。
「……帰りたい」
囁くような緋色の声。
今日は授業どころでも、部活どころでもない。未だ顔色悪く震える緋色には、学校にいることの方が酷だろう。
「そうね。早退しましょうか。緋色を送っていくから、ついでにわたしも帰るわ。それから、美佑が気分が悪くなったってことにしてくれたからね」
里花は肩を抱いて緋色を促した。
言葉とかではなく、今、緋色が望むことをしてあげる。鮮やかに去っていく里花に敵わないなと彼らは思った。




