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転生令嬢の巡情 義弟の呪婚 前編

別題で本サイト他サイトに掲載していたものの改稿版です。


「さて、今日で夏季休暇で終わるが、気分はどうだいフィリーゼ。名残惜しいのなら、あと七日ほど休暇を伸ばしてしまおうか。なんならお前の婚約者も呼んだっていいんだからな」

「いえ」


 クレイノーツ公爵家の大広間にて、公爵からの問いかけに、その娘でもあるフィリーゼは静かに首を横に振った。クレイノーツ家はこの国でも名家とされる家柄であり、王家との血の通いもある。王家は代々翠の瞳を受け継いでいるが、その娘であるフィリーゼもその名残が見受けられた。


 しかし色素の薄い橄欖石を模した瞳は伏せられ、どこか気怠ささえ感じさせる。上質な金糸の髪は結い上げることも装飾を纏うこともなく、ただただ整えられたまま、彼女はただ静かに赤いどろりとした液体の入ったグラスに口をつけていた。


 公爵はフィリーゼの返答にやや残念そうにしながらも、笑みを浮かべてテーブルの肉料理にナイフを入れた。フィリーゼはその様子を見つめ、静かに心の中で公爵に――父に謝罪をする。


(ごめんなさい、お父様)


 フィリーゼは謝りながら、父の隣の空席に視線を移した。そこにはフィリーゼと父である公爵と同じ料理の皿がならび、カトラリーも準備されているのにも関わらず誰も座っていない。


 元は、公爵の妻であり、フィリーゼの母であったその席は、フィリーゼが七つの頃に空席へと変わった。突然の母の死に彼女は混乱したが、彼女の父である公爵だけは「いつかその日は来るものだよ」と言って、悲しく笑った。


 それから十日が経った頃だ。フィリーゼが吸血鬼の血を受け継いでいることを知ったのは。


「お前の母さんの死の真相を話そう」


 その日の晩、フィリーゼは父に書斎へと招かれた。そこでこの国と吸血鬼にまつわる書物を読み、七日に一度両親が自分に飲ませる赤い薬は、人間の亡骸から得た血であることを伝えられたのだ。


 吸血鬼は人間と異なり定期的に人間の血液を飲まなければ、深い眠りにつき活動が出来なくなってしまうこと。深手を負っても再生してしまうこと。おおよそ一定の年月で老いが止まること。そして、人間よりも長く生き、そしてその死は突然であること。


 さらに、この国は吸血鬼の存在を公にはせずとも認めてはいるものの、自分が何であるかを同族以外に周知させないよう過ごし、静かに血を増やすことを考えることを、父はフィリーゼに話をしたのだ。


 フィリーゼは当初突拍子もない話であると考えたが、父は正直者であり、母の死は吸血鬼の寿命が訪れたことで灰化し、その瞬間を見たことで信じざるをえなかった。


 そうして父から吸血鬼として生きる手ほどきを受け、父の指南の元、クレイノーツ家に伝わる史実書に触れたとき、彼女は自分の中に眠る、もう一人の自分。前世の記憶を思い出したのだ。


 フィリーゼ・クレイノーツの中に眠る、フォーリア・ジニアスという哀れな女の記憶を。



 フォーリア・ジニアスは、その命尽きる最期の一瞬まで、地獄の苦しみを受けた女だ。


 フィリーゼが産まれる遥か数百年前、この国の中でも権力と伝統を持つ公爵家として生まれた彼女は、見目麗しいとされる王太子と婚約を果たした。


 気位が高くありながらも努力家で慈善活動に熱心な令嬢と、類稀なる武術の才を持ち、端麗な容姿を持つ王太子の婚約は国中から祝福を受けたという。


 しかし、婚約から六年後、双方が満十八を迎え、国民の前で婚姻の儀を行う前夜、令嬢は王太子に首を落とされたのだ。


 王太子が、婚約者であり後の妃となる娘の首をはねるに値する理由、それは彼が、婚約者ではない娘を求めたからであった。


 かねてから王太子には婚約者のほかに、いっとう愛した女がいた。その女は同じ学院に通う男爵家の令嬢であり、叶わぬ恋と秘めていたが、フォーリア・ジニアスは平民の娘を苛烈に虐げ、挙句息子と平民の娘との結婚を勧めようとする王太子の母を毒殺したのだ。


 当時は、まだ王太子は王位を継承しその玉座に座ることはなかった。つまり、退位すらしていない国母を毒殺したことでフォーリア・ジニアスは王家に剣を抜いた罪で処刑された。


 そこで奇妙な出来事が起きたのだ。


 断頭台に上がり刑を執行されたはずの彼女の首は落ちても、すぐに塞がってしまった。彼女は吸血鬼であり、人間の殺し方では死ぬことが出来なかったのだ。


 それからは彼女に対して拷問に近い行為が行われ、様々な手法が試されたのち、最初の死刑執行から一年を経て殺されたという。


 しかし、凄惨の限りを尽くされたフォーリア・ジニアスの身は、潔白であった。彼女は確かに男爵令嬢を疎みはしたが決して手を出すことはしなかった。


 王太子の母が毒殺された日も、彼女は会ってすらいなかった。


 にも関わらず、誰もフォーリア・ジニアスを信じなかった。


 平民たちは、自分たちに味方をしてくれたことを忘れ立場の強い者の味方をした。


 学院の者たちは、努力家で聡明な彼女の裏の顔があったのだと面白おかしく吹聴した初めこそ将来の王太子妃である彼女を表立って糾弾することはなかったが、彼女の立場が悪くなると皆手のひらを返したようにつらく当たった。


 王家の者たちも、皆見て見ぬふりをした。家族は、我が身可愛さに彼女を置いて隣国に発ち、出国前に捕らえられた。


 よってフォーリア・ジニアスは悪女とされ、王太子は母を殺害した冷酷で無慈悲な女に対して正義の鉄槌を下し、運命の相手と結ばれて晴れて幸せに暮らしたという。


 同時に、吸血鬼は悪であると、人を誑かし人間の領域を脅かそうとしていると幾度か吸血鬼と人間による内乱が起きた。


 しかし時間の流れ、そして吸血鬼の人ならざる力は有益であること、隣国との開戦が行われたことで人々の中で迫害の意識が薄くなっていった。


 そして数百年経った今、かつての悪鬼の名前なんてものは、誰も口にしない。口にしたくないからではなく、忘れてしまっているからだ。


 しかしフィリーゼだけは内なる心に彼女の記憶を宿し、虐げられ裏切られ、奪われた光景を何度も何度も鮮やかに思い返す。


 それほどまでに、フィリーゼの魂の中にはフォーリア・ジニアスの悲しみ、苦しみが途方もないほどに色濃く残っていたのだ。


 前世を思い出して、七年。十七歳になったフィリーゼは、処刑の光景を、拷問の苦しみを今なお夢に見ていた。そんな記憶もあってか、彼女は恋愛に興味なんて欠片も持てていなかった。


 だが、フィリーゼは男児ではないために当主にはなれない。彼女の母は男児を産むことなく儚くなった。そして公爵である彼女の父は後妻を設けることはせず、フィリーゼの婿に継がせるか、養子をとると宣言している。


 それほどまでにフィリーゼの父は自分の妻を愛していた。そんな愛を見て育った彼女は、愛に焦がれることはなく、別世界のものであり自分には無縁のものだとより一層自分の世界から愛を遠ざけたのだ。


 そんな彼女にも、適齢期ということで十五歳の頃から婚約者が宛がわれている。名をクレイス・シャイニング。南の辺境を守るシャイニング領当主の令息であり、同じ吸血鬼――つまり同族。


 双方あまり干渉しあわない、恋人らしい戯れもない関係性であり、フィリーゼは彼への期待と愛を向け、向けられることを一切放棄していた。それはクレイスも同じで、フィリーゼに対して構うことはあっても強く求めはしない。互いに適度な距離感を持ち、婚約者として接する、ただそれだけの関係。


 当初フィリーゼは、クレイスと出会う前、彼を警戒していた。


 もしかしたら何かの運命の巡りあわせで、かつての婚約者が生まれ変わり、現れてくるのではないかと。もしかして、もしかしたらを繰り返し、婚約を解消できないか考えたときもあった。 


 しかし彼と会い、かつて愛した男ではないと認識した現在、フィリーゼはクレイスと適切に接している。生まれ変わりの因果なんてあるわけがなかったと、自嘲しながら。


 だからこそ、フィリーゼはたった今、自分の父がさりげなく扉のほうを見やり、おずおずと口元をナプキンで拭い、咳ばらいをしたことに何の警戒も抱かなかった。


「フィリーゼ。お前がシャイニングに嫁ぐことになり、お前の産んだ子を一人後継者としてこのクレイノーツ家に養子として入れる話は前からしていただろう」

「はい。お父様」

「しかし、それだとお前に負担が大きすぎると思ってな。実は、我が家に養子を迎え入れることにしたのだ。人の子であるが、吸血鬼の内情にも詳しく、さらに人間であることで我が家が吸血鬼の血族であることを攪乱出来ることを見込んで……」


 父の言葉に、フィリーゼは頷いた。彼女は自分がシャイニング家の令息との婚約を果たしたとき、なんとなくそうなるだろうと予見していたからだ。シャイニング家とクレイノーツ家、比べるならばシャイニング家の血を繋げることのほうが重要だ。すると今度はクレイノーツ家に穴が開く。想像できないことではなかった。


「では、紹介する。今日からお前の弟として、そしてクレイノーツの次期当主として迎える、ヴェインだ。姉として、しっかりと面倒を見てほしい……とはいえ、年は半年ほどしか変わらないがな」


 クレイノーツ公爵が合図をし、家令が扉を開く。そこから現れたのはフィリーゼよりもやや背の高い青年だ。濃い群青の髪から覗く涼やかな金の瞳や、薄い唇。通った鼻筋。上質な岸服に身を包んだ青年、ヴェインの姿を見たとき、フィリーゼの中で、時間が止まった。


「えっと、よろしくお願いいたします。姉さま」


 そう言って人好きのする笑みを浮かべ、ヴェインは初めて会う姉へと近づいていく。そして握手をすべく、左手を差し出した。その手を見つめ、愕然としながらフィリーゼは息をのんだ。彼女の頭に思い浮かぶ言葉は、何故と、どうして、そして――


(ああ、目の前に立つこの青年は、私を最も憎み、嫌悪した末に殺したかつての婚約者だ)


 かつての婚約者を今世で再び目にした、深い絶望であった。



 学院に向け、クレイノーツ家の紋付馬車が揺れていく。その中には、学院の制服である深い海色のワンピースに身を包んだフィリーゼと、同じ色のフロックコートを身に纏ったヴェインが向かい合わせに座っていた。


 フィリーゼが、ヴェインが学院に通うと知ったのは昨晩のことだ。フィリーゼの父はヴェインを跡継ぎにしたいと考えていることとともに、当主教育の一環としてフィリーゼと同じ学院に通わせることも話をした。


 ヴェインは元より侯爵家の子の次男であったが、そこで不当な扱いを受けていた。その家の夫人は吸血鬼であったが、侯爵は人間であった。長子は吸血鬼の血を引く――つまりは夫人の子であったが、ヴェインは人間の子。要するに侯爵の不貞の子であった。表向きそれを公にすることは出来ず、家に迎え入れたものの、夫人はヴェインに辛く当たり、侯爵に相談されたフィリーゼの父が、ヴェインを家に引き取るのことにしたのだ。


 その話を聞いてフィリーゼは、そんな因果なこともあるのかと考えた。かつて自分を醜い獣だと、人ならざる吸血鬼だと罵った王太子が、生まれ変わった先で吸血鬼でないことを理由に虐げられてしまうなんて、と。今は季節は夏だというのに、ヴェインは冬服の制服を着ている。かつて彼と同じように夏に冬の服を着ていたフィリーゼは、ざまあみろと思うこともなく、ただただ皮肉に感じた。


「姉さま。えっと、学院で分からないことがあると思うんです。そ、その時は姉さまに聞いてもよろしいですか?」

「どうぞ。ただ授業の内容は教師に聞いたほうが効率がいいと思うわ」


 ヴェインの母親は、卒業が義務付けられている学院にも通わせないほどだった。万が一自分の実子よりも優秀で、最愛の息子から家を継ぐ権利を奪われてしまうことも彼女は恐ろしいと感じていたが、何より日々の虐待の発覚を恐れていた。よってヴェインは今日が初めての登校日であり、入学の日であるといっても過言ではなかった。フィリーゼもそれは分かっていながらも、優しく労わりたいという気持ちより突然日常に侵食し始めた遺物から離れたいという気持ちが強かった。


 ヴェインは、昨夜会った時から、ずっとフィリーゼににこやかに接していた。笑みを浮かべ、慕うような、ひな鳥が親を見つけたような素振りを見せる。そのことをフィリーゼは冷ややかな目で見ていたが、もとより感情を殺したような振る舞いが常である彼女を見て、クレイノーツ公爵は突然現れた義弟の存在に戸惑っている以外の事象を考えはしなかった。


 フィリーゼは、窓辺を見やるふりをしながら義理姉にすげない返事をされ気落ちしたような表情をする義弟の横顔を見つめる。


(貴女は……一体どんな気持ちで私の前に現れたの)


 かつての王太子は、フィリーゼにとっても敵だ。それはまさしく王太子がフォーリアに対して抱いた憎悪と同じといっても過言ではない。面立ちこそ違いはあるものの、ヴェインの目はまさしく過去の王太子のものである。


 だからこそ、フィリーゼは今後について考えあぐねていた。相手は自分の破滅を狙い公爵家に紛れ込んだのか。それとも運命の巡りあわせでたまたま自分の義弟として現れたのか。どちらの理由にせよ信じてはいけない、ヴェインが公爵家に会ってはならない存在であることは彼女の中では確かで、どうにかして追い出さなくてはならない。しかしその手段が見当たらなかった。


 フィリーゼがため息を吐きたくなるのを堪えながら外の景色をみやると、木々の隙間から学院が見えてきた。クレイノーツ家の馬車も徐々に減速をはじめ、フィリーゼは手元の鞄を掴むと、やがて馬車は学院の正門の前で停止し御者が扉を開けた。


 フィリーゼは速やかに馬車を降りる。そしてヴェインに「職員室の場所は、入ってすぐの右手よ」とだけ伝え、そのまま歩いて行った。朝から父とヴェインと三人で、そして着替えた後すぐに出発したことで今日、フィリーゼのそばには、ずっとヴェインの顔があった。そのことに彼女は我慢ならなかった。しかし、ヴェインは無邪気な声色で「待ってください姉さま」と彼女に声をかけていく。


「なにかしら」

「僕、姉さまと一緒に教室へ向かいたいです。駄目ですか……?」


 フィリーゼは、いっそ走ってしまいたくなった。しかしクレイノーツ公爵家の令嬢である以上それは許されない。誰にも悟られないよう手のひらを握りしめる彼女の視界に、ふとくせのついた潤色の髪を靡かせた背中が視界に入った。


「クレイス様」


 フィリーゼが静かに呼びかけると、呼び止められた青年――クレイス・シャイニングは驚いたように振り返った。青みがかった紫水晶の瞳はその驚きを隠すことなく見開かれ、彼女をただただ見つめている。


「おはようございます。良ければ教室まで、一緒に行ってもよろしいでしょうか」

「別に構わないが……どうした?」


 クレイス・シャイニングは、フィリーゼの婚約者だ。シャイニング領を統べる当主の息子で、次期宰相候補とも名高い優秀さを持っている。剣術にも秀でており、学年の男子生徒による剣術大会でも例年一位の成績を収めている男だった。そんなクレイスが、フィリーゼの声掛けによって驚いているのは、婚約者が外で自分に声をかけ、教室に行くことを提案することが初めてだからである。


 フィリーゼは、七つの時に自分の前世を思い出した。それから八年の月日が流れた頃に婚約者としてクレイスと出会ったが、婚約者という存在に情が持てるほど彼女の前世からの心の傷は浅くはなかった。よってフィリーゼは婚約者に対して距離を取り、社交界に出るときだけはエスコートを受け、周囲が婚約者という関係に対して淡い想いを抱き色恋をかわす中、表面上親しく見せるだけの冷めた関係を築いていた。


 一方のクレイスはといえば、彼も自分の地位を築き、吸血鬼の地位を強固なものにするという目的があり結婚に対して思うこともなければ恋愛に関心を持つこともなかったため、互いに相手を求めないというのが、この八年の二人の関係であった。


 だからこそ、特に社交の場でもないのに声をかけ、さらに教室に行こうと誘うフィリーゼに、クレイスは只ならぬ事情を察知した。そして彼女の背後に立つ見慣れない黒髪の青年を視界に入れながらも、「ああ」と頷いた。


「で、だ。フィリーゼ嬢。君の後ろを追おうとしている男はなんだ? 見慣れない生徒だが、どこの家の者だ?」

「私の義弟です」

「ああ……。確かにシャイニング跡継ぎが優先になってしまうだろうからな。しかし何故避ける必要がある? 俺を呼び止めてまで」

「……お父様が侯爵家から人間の子を跡取りとして引き取って……。侯爵家は私たちと同じですが、その……」

「なるほど」


 声を潜めながらフィリーゼがヴェインについて説明をする。ここまでの説明をすれば、きっと人間の子だから扱い辛く避けていると思われるだろうとフィリーゼは予め計算していた。そしてその計算は正しく、クレイスは瞬時に彼女の話を理解して頷いた。


「では、俺の役目は扱い辛い人の子を避けるための壁となればいいわけか」

「……はい。お願いしても」

「構わない。たまにはこういった姿を見せて周囲に円満な関係性をアピールすることも必要であるし、俺に不都合はないからな」

「ありがとうございます」


 フィリーゼは、クレイスとそのまま歩みを進めていく。二人で並ぶフィリーゼとクレイスを見て、校舎へと向かっていく生徒たちは静かに注目しはじめた。二人は婚約者同士であるだけではなく、学年の成績もクレイスが一番、フィリーゼが二番と学院の成績優秀者として名を連ねており、さらにその容姿も整ったものを持っているからだ。


 婚約者がいることは知っているといえど、一度愛を伝えることはさせてほしいと、二人はこれまで幾度となく詩を送られ、その度に婚約者がいると断ってきた。


「こうして注目されて登校するのも悪くないな」


 クレイスは満足げに笑う。彼にとって、注目を受けることはある種自分という存在を周知させる為の一手であった。人に好まれることも、自分に箔がつくと考えている。そしてどんな誘いであっても恋の色が混ざったときには断りを入れることで、当然であるはずの拒絶により簡単に周囲の信頼が得られ、手頃であると笑う。しかしそうではないフィリーゼにとって、人々の関心が自分に集まることは不都合なことであり、ましてや尊敬され、好意を向けられるということは苦痛以外の何物でもなかった。


(好きだと言われても、信じられない)


 かつて、フィリーゼがフォーリアとして生きた頃、努力家で勤勉である素質は変わらず、フォーリアも今のフィリーゼと同じように学院の成績優秀者として名を残していた。しかし、フォーリアの良くない噂が広まるとその成績ですら何か不正をしたのだと疑いを向けられ、挙句の果てにそれまで彼女を慕っていた友人たちは皆手のひらを返し、彼女を糾弾したのだ。毎年誕生日を祝い、贈り物をしていた友ですら、彼女が虐げられる姿を嘲笑い、「なんでも余裕であるようなその顔が気に入らなかったの」と、雨上がりの水たまりに彼女を突き飛ばした。


 よって今世でフィリーゼが信じられる者は、実の父、そして亡くなった母しかいない。クレイスに対しても、信じる心を向けることができない。フィリーゼにとって、それは絶対であり、例外はない。フィリーゼに対して向けられる両親以外からの好意の声は全て雑音でしかなく、さらに適切な対応を取らなければ悪意を向けられてしまうという面倒で耳障りなものでしかなかった。


「そろそろ教室だが、どうする?」

「彼は、貴方とも私とも同じ歳なので、このままで。おそらく彼は今日一度職員室に寄るとは思うのですが、念のため……」


 ヴェインは、フィリーゼの義弟として現れたがその年齢はフィリーゼと同じ年であった。ただ、生まれた月がフィリーゼは春、ヴェインは冬で、半年程フィリーゼが先に産まれていたことから義姉となった。彼女はそのことを父から聞かされたとき、自分が前世で先に死んだ分、早く生まれたのかと漠然と思った。


「では俺は席を動かず、君と次のシーズンの夜会のドレスの相談に乗る装飾にあまり興味がない男でも演じようか」

「ええ。お願いします」


 クレイスは、「任された」と笑い、フィリーゼを伴い教室の中へと入っていく。二人の席は隣同士で、窓側の最後列。フィリーゼが窓側で、クレイスが守るような配置だ。フィリーゼはそのまま席に着こうとして、ふいに教室の中の違和感に気が付いた。


 どうして、席が二つ追加されているのかしら。


 今まで、フィリーゼとクレイスの教室の座席は、きちんと過不足なく並べられていた。しかし今日は、廊下側。フィリーゼとは反対の方向に、余るように二つの机が並べられていた。


(ひとつはヴェインの分……よね)


 フィリーゼは誰にも悟られぬよう余った机を見やる。ヴェインが途中入学することは予め分かっていたことで、さらにほかのクラスの人数よりも自分のクラスの人数が一人少ないことから、フィリーゼは自分のクラスにヴェインが入ることをなんとなく察していた。


「フィリーゼ嬢?」

「……何でもないわ」


 フィリーゼは、疑問を頭の中で払いながら、笑みを浮かべクレイスと話を始める。次のシーズンのドレス選びを楽しむ令嬢の顔を演じながら。


 前世のフォーリアでは、愛想を振りまくということをしなかった。目の前のことを必死に片づけ、全てを完璧にこなすことに精いっぱいだったからだ。しかしそれらは全て無駄で、何一つ頑張ったところで、完璧に仕上げたところで、笑顔一つ見せないだけで余裕そうな顔に腹が立つ、可愛げがない、人間味身がないと糾弾する隙を与えてしまうと、フィリーゼは考えた。


 今世では、そんな隙は誰にも与えない。誰も信じない。誰の前でも、笑みを絶やさない。


 フィリーゼは、そんな決意を胸に心から楽しそうにクレイスとの会話に興じる。はたから見れば婚約者との会話を心から楽しむ令嬢であるが、彼女の心は冷え切っている。そうしてしばらく二人がドレス選びについて話を終え、徐々に次のシーズンの旅行について話し始めた頃、学院の始業を知らせる鐘がなった。


 二人の教室の担当教諭が見計らったかのように入室し、席を立っていたものはみないそいそと着席を始める。生徒が全員座ったのを見計らい、教諭は口を開いた。


「今日は授業を開始する前に、新しくこのクラスの一員になるものを紹介する。一人は転入生、一人は隣国の留学生――ヴェイン・クレイノーツ、そしてロレイン・ヴェレッタだ」


 そう話す教師の後ろには、黒髪の青年、ヴェインが並んでいた。そしてそのさらに後ろに、白銀の長い髪をなびかせ、澄んだ空の色をした瞳をじっと伏せた娘が立っていた。爛漫とした花を彷彿とさせる面立ちの娘は、やや緊張した様子でフィリーゼに視線を合わせる。その瞬間、フィリーゼの心臓が激しく脈打った。


(もしかして、あの、女は)


 フィリーゼの脳裏に、フォーリアの記憶がよみがえっていく。かつての婚約者の、愛おしそうな眼差しを一心に受けていた女。自分が断頭台に挙げられていくさまを、婚約者の隣で見ていた女。自分を指さし、化け物と罵った女――かつて婚約者を奪った女の顔が、義弟の隣に立つ娘の顔と徐々に重なっていった。


「フィリーゼ嬢?」


 隣に座るクレイスの言葉に、フィリーゼは静かに首を横に振った。何でもないと伝えなければならない。あの女の前で、弱ったところを見せるものかと、フィリーゼは気丈に前を見据える。


 しかし、そんな彼女の気を知ってか知らずか、ヴェインの隣に立つ娘は、その空の瞳を僅かに伏せながら声なく「クレイス様」と呟いたのだった。



「どうした、浮かない顔をして。気分が悪いのか」

「いえ」


 教室に二人の転入生が現れ五日。朝の授業を終え、昼まで後ニ回の授業を残した休憩中、暗い顔をするフィリーゼにクレイスは問いかけた。その問いかけに彼女は静かに廊下側の席に座り、人に囲まれる娘――ロレイン・ヴェレッタを見つめる。


 ヴェレッタ侯爵家は侯爵家でありながら商家であり、歴史はあるものの王家に近いわけでも、戦で武功をあげることも、貢献をしたこともない家である。物を安く仕入れ、高く売る。投資をして、利益を上げる。ただそうした商いを繰り返し財と歴史だけはある家で、成金とも揶揄され侯爵家の中でもその地位は低いとされている。むしろ伝統があり王家の息がかかる伯爵家のほうが力を持っていると言われるほどだ。


 そんなヴェレッタ家の一人娘であるロレインは、幼いころから国立図書館の司書を目指し、その夢の実現に向け、学院の入学時期とともに隣国へ留学した。そこまでを、フィリーゼは知っていた。顔は会ったことが無かった為に判断できていなかったが、その名前と隣国に留学するまでの来歴は把握していた。それは何故かと言えば、もとよりロレインはクレイスの婚約者の候補として名を連ねていたからだ。


 クレイスとの婚約が内定したとき、フィリーゼは自分以外の婚約者の候補であっただろう令嬢の名前を調べ上げた。それは嫉妬や束縛的な感情ではなく、いずれ敵になりこちらを殺しにかかる相手を知ろうとする脅迫的観念からのもので、フォーリアの記憶から、自分を陥れる可能性のある者は全て調べ上げるというのがフィリーゼの信条であった。


 そして、その調べ上げた候補の中に、自分の次点として名前があったのがロレインの名前だ。彼女はクレイスの幼馴染であり、ヴェレッタ家の娘といえど聡明であった。ヴェレッタ家でさえ無ければフィリーゼとの能力差はなかったのだ。ヴェレッタ家は、吸血鬼の血が流れた家ではない。王家との距離も遠く、吸血鬼の存在を完全には知りえない家だ。よって婚約者に選ばれたのはフィリーゼだった。


 フィリーゼはロレインが隣国に発つまでは、その動向を注視していた。しかし留学を始めてからは気に留めることはなかった。隣国の学院に入学したことで、もうこの国の学院に入ることはないと監視の手を緩めてしまったからだ。しかしフィリーゼの思惑とは裏腹に、ロレインはこの学院に現れ、挙句の果てにクレイスを見つめた。そのことに対してフィリーゼは嫉妬はしないまでも強い危機感を感じていた。


「ヴェレッタ嬢がどうかしたか?」

「……不思議な時期に、転入されたと思いまして」

「確かに。君の義弟と同じで何かわけがありそうだな」


 そう言ってロレインのほうを見るクレイスの瞳は特に何の感情も纏っていない。平坦なものだ。


(クレイスはロレインに想いを向けてはいない。けれど、信用はできないわ)


 かつて、フィリーゼの婚約者は王という立場を捨て去ってもいいと、国を揺るがしても構わないと言って平民の女と恋に落ちた。それまで王太子を理知的で王たる素質を持つとされており、フォーリアを通してフィリーゼは恋というものは人を愚かにし堕落させるものであると捉えた。恋というものは病のようなもので、患えば最後、待っているのは死であると。


 だからこそフィリーゼはクレイスに悟られないよう彼と、そしてロレインを冷ややかな目で見る。ロレインの席の周りには早速とでも言うように男女問わず生徒たちが集まって、彼女を質問攻めにしていた。すでに五日経ってもなお、彼女に向けられる好奇の目は減る気配がない。それどころか和気あいあいと教室の人間の輪の中に入り、今では以前からいたのではと錯覚するほどに周りと溶け込んでいた。ただかろうじて、周囲の隣国はどんなところか。勉強はどう違うのか。食べ物はどうだったのか。という矢継ぎ早に飛ばす質問によって、彼女が隣国から転入してきたと知覚するほどだ。


 そしてそんな質問に、ロレインはやや戸惑う素振りを見せながらも答えていく。しどろもどろでありながら、酷く間を開けたりはしない。


 聡明な人間であり、そして裏が読めない。警戒すべき人間。それがこの五日間でフィリーゼがロレインに対して下した評価だ。


「どれ、しばし探りを入れてみるか。もう二年は会っていない。あれこれ訪ねても不審には思われないだろう」


 そう言ってクレイスは席を立った。ロレインへと近づいていくその背中をフィリーゼは静かに見据える。クレイスという男は、基本的に損得勘定でしか動かず、合理主義な面を持ち合わせている。そしてこの国の宰相を目指し、吸血鬼の復権を願っているということを以前フィリーゼは茶会の席で彼から聞いた。


 当時、クレイスは母の形見の時計を自分より高位の貴族――要するに王家に関わる子息に壊されたことがあったが、怒りや悲しみの感情を見せず周囲の大人たちに自分のことを知らしめアピ―ルまでしてみせたのだ。フィリーゼにとってクレイスは自分の目的の為だけに動く男であり、そこに自分自身の感情すら存在させない。切り捨てる男だ。けれどフィリーゼはクレイスを微塵も信用できていなかった。


(誰も、信じない)


 フィリーゼは心の中で確かめるように呟いて、静かに目を伏せたのだった。



 午前後半の授業が終わると、フィリーゼは速やかに席を立った。教室の中の生徒はまだ授業で使った教科書を片付けていたり伸びをしようとしているものが多い中、荷物を手に取り、颯爽と教室を去る。彼女がこうして急いでいるのは、一刻も早くヴェインと同じ空間から逃れたいからだ。


 ロレインが転入してきて、ヴェインも同じように教室の一員へと溶け込んでいった。本来ならば、突然現れたクレイノーツ家の義弟という立場で人々は萎縮を示す。クレイノーツ家は由緒正しき名家であり、王家の後ろ盾もある。媚びて損はない家であり、現にフィリーゼと同じクラスの女子学生は彼女に取り入ろと言明されているということは、フィリーゼ本人ですら容易く想像できるほどだ。かといって、突然そこに現れたヴェインに媚びを売るほど周囲は軽率ではない。フィリーゼがヴェインにどんな感情を抱いているか分からない以上、ヴェインは触れてはならぬ存在のはずだった。


 しかしそんな周囲の壁を、ヴェインはこの五日間で見事に壊し、懐に入り込んで見せたのであった。どうやったかを、フィリーゼは知らない。なるべく関わらないよう、見ないようにしていたからだ。ただ見ないようにしても日ごとヴェインは周囲に侵食するように馴染んでいき、今や教室で中心となる男子生徒たちに名前で呼ばれるほどの地位を確立していた。


 そんなヴェインであるが、馴染もうとしていたのは何もクラスだけではなく、義姉のフィリーゼに対しても積極的に行動を起こしていた。


 朝の通学を一緒に行きたいと申し出てみたり、一緒に帰ることをお願いしてみたり。授業の終わりには内容について質問しに行き、屋敷でもことあるごとにヴェインはフィリーゼに対して話しかけていった。


 学院にいる時は、フィリーゼはクレイスをヴェイン除けに使用していた。クレイスもヴェインに対してその内情がどんなものか、自分の益になるか判断するため、自分を盾に用いられることについて積極的であった。しかし、昼食時はそうはいかない。クレイスは昼食は他の貴族の令息と交流を深め、人脈を広げる場に用いており、ヴェイン除けにははならないのだ。だからこそフィリーゼは一人、教室から一番に去っていく。


 フィリーゼは、学院に入学してから一度も誰かと食事を取ったことはない。学院内には食堂が併設されており、皆そこで食事をする。しかしフィリーゼは一度もそこを利用したことがなかった。クレイスに一度誘われても断り、彼女は学院内で誰かとともに食事を取ったことは一度もない。それはフォーリアが食堂で辱められたことに深く起因している。


 フォーリアが、まだ王太子に婚約を破棄されなかったころ。ただ学院内の悪意を向けられ、一人戦っていた頃。彼女は食堂で食事をしていたが、ある時王太子が想いを向ける令嬢とその取り巻きがやってきて、彼女の食事を床に晒したのだ。片づけをする彼女を取り巻きたちは突き飛ばし、無残な姿になった彼女を詰った。


 そして次の日、王太子からはフォーリアがされた行いを、彼女こそがした行いだと決めつけひどい暴言を吐いたのだ。


 その声が、フィリーゼの耳には強く残っており、彼女は食堂に足を向けられず、さらに強迫観念にもよく似た用心深さにより学院内では気配を殺し過ごしており、人の集まる場所に彼女は近づくことはなかった。


 さらに、フィリーゼは、食事の時間を嫌っている。両手が塞がり、無防備になるからだ。本を読むことも、楽器を演奏していることも、彼女は好まない。彼女が好むことは、ただ閉鎖的な自分で施錠と開錠が出来る空間で、両手が開いた状態で立っている。そんなことであった。


「姉さまっ」


 そんな、人として生きることすら捨てているような背中に、声がかかった。フィリーゼは鞄を握りしめる力を強めながら足を止め、静かに振り返る。


「どうしたのかしら、ヴェイン」

「えっと、今日は姉さまと、お、お食事がしたくてっ!」


 教室からフィリーゼを追ってきたヴェインは、息を乱しながらランチボックスの入った包みを差し出した。朗らかな笑みを浮かべて「今ちょっと開きますね」と包みを開き始める。フィリーゼは目の前の義弟の意図が掴めずただただ懐疑的な目を向けていると、その中身に言葉を失った。


「サンドイッチです。肉を挟んだものと、後レモンカードを塗ったもので……」


 ランチボックスが開かれた瞬間、甘やかで酸味のあるレモンの香りがふわりと広がる。その香りをフィリーゼが感じた瞬間、彼女は「いらない」と無意識のまま、ひどく冷たい声色で言い放った。


「え……?」


 ヴェインはそんなフィリーゼの言葉に、幼子にも似た瞳を大きく見開く。ハッとしたフィリーゼは、さきほどまで自分たち以外存在していなかったような廊下に、昼食へ向かう生徒たちが行きかい始め、自分たちを見ていることに気付いた。


「ごめんなさい。ぼーっとしてたの……頂こうかしら。本当にごめんなさいね……最近疲れていて……」

「いえ! このレモンカード、とびきり甘くしたので疲れには丁度いいと思います! えっと、中庭で食べましょうか?」


 ヴェインはそう言って、遠慮がちに歩きだした。人の目がある手前、無下には出来ない。ひりつく心臓に見ないふりをしながらフィリーゼはゆっくりと中庭へ歩いていく。


「どうぞ、座ってください」


 ベンチにかけられたハンカチを見て、フィリーゼの動きは止まった。彼女のスカートが汚れないようにとヴェインの配慮に、苦々しい気持ちがわいてくる。かつて王太子もフォーリアに同じことをした。


 さりげないヴェインの行動に、心がかき乱されていく自分を、フィリーゼは苦々しく思う。一度は死ぬほど愛した。そして殺され、その想いは憎悪へと完全に作り変わったはずなのに、ずきずきと心ばかり痛む心を押さえるように、フィリーゼは笑みを浮かべた。


「ありがとう。でも、かしずかなくていいのよ。貴方はクレイノーツ家の令息なのだから、堂々としていて」

「でも、僕にとって公爵は命の恩人です。姉さまは公爵の大切なお嬢様ですから」

「何言ってるの、貴方は弟なのよ」


 優しい笑みを浮かべ、フィリーゼは自分の隣に、自分のハンカチをしいた。あたかも穏やかな姉を装い、ヴェインを隣に座らせる。その瞬間ふわりと陽だまりの香りがして、不自然に動きを止めそうになった。


「姉さま?」

「なんでも無いわ。サンドイッチをいただけるかしら?」

「あっはい! どうぞ!」


 ヴェインはランチボックスを開き、ばっとフィリーゼに差し出した。彼女はレモンカードを避け、ベーコンやサラダの挟まったものを手にとった。何気なく食べてみると、いつもクレイノーツ家の料理人が作るものと味付けが異なっていることに気付いた。


「これ……」

「ぼ、僕が作りました……! 姉さまの為に何か出来ないかなと思って……な、仲良くなりたいですし……!」


 顔を真っ赤にする義弟に、フィリーゼは視線を落とした。毒でも入れられてるかと噛み締めても、豊かなチーズクリームの香りや、よく炒められたオリーブしか感じない。


「……大変だったでしょう。ありがとう」

「いえ……あっ」


 ヴェインはフィリーゼの顔をまじまじと見た。あまりに注視されたことで黙ると、ヴェインが首をぶんぶん横に振って、「失礼しますね……」と、フィリーゼの髪を耳にかけた。


「な、なに」

「サンドイッチがついてしまいそうだったので、びっくりさせちゃってごめんなさい」


 えへへ。そう付け足す笑い声はどう見ても幼いもので、信頼を築いたり油断させるにはやや過剰な演技に見える。フィリーゼは心のなかでヴェインを精査していくが、行き着く先は疑問だった。


(友好的にも程がある。信頼を得てから裏切り私を傷つけたいのなら、こんなにも愚かさを出す必要はないのに。なぜ?)


 人を騙したいのにも、限度がある。信頼関係を構築するにあたっては、まず相手がしっかりした人間であるとの認識が必要だ。しかしヴェインは年相応ではない幼いふるまいで、何かを任せられる気がしない。フィリーゼがじっと見つめたことで、よりヴェインは頬を赤らめた。


「み、見ないでください。は、恥ずかしいです。あ、姉さま綺麗だから……」

「綺麗?」

「はい。絵本に出てくるひとみたいです……」


 絵本なんて、学園の人間が聞いたら鼻で笑うような言葉だ。かつての王太子は聡明で理知的な人物だった。間違いなくかつての王太子の生まれ変わりのはずなのに、なぜこうも愚かの芝居をするのだろうか。義弟を観察するフィリーゼは、ヴェインがサンドイッチに手をつけないことに気付いた。彼はずっとランチボックスを両手で抱えるばかりで、にこにこと自分を見ている。


「貴方はどうして食べないの?」

「ぼ、ぼく、実は自分の分を作るの、忘れちゃって……」

「私だけではこんなに食べ切れないわ」

「でも……」


 ヴェインはもじもじして、中々手を伸ばさない。毒でも入っているのかと疑いをもったフィリーゼは、レモンカードのサンドイッチを掴むと、そのままヴェインの口元へ運んだ。


「食べて」

「えっ、あ、姉さま!?」

「作った本人が食べないで、私が一人だけ食べるのはおかしいでしょう。ほら」


 ぐい、とフィリーゼがサンドイッチを近づけると、ヴェインはぎゅっと目をつぶりながらサンドイッチをかじった。噛み締め、飲み込むのを観察していると、ヴェインが涙目になりながら「恥ずかしいです……」とうつむく。その唇の端にはレモンカードがすこしついていて、彼女は指ですくった。


「ひゃっ、あ、姉さま……?」

「ついてたから」


 フィリーゼの指先には、レモンカードがついている。彼女は予備で持っていたハンカチでそれをぬぐって、またヴェインにサンドイッチを食べさせた。


「自分で食べれます……!」

「いいから」


 そう言ってフィリーゼは押し切るように、今度は肉の挟まったサンドイッチを食べさせる。


(何が入っているか、分かったものではない。半分以上はこの男に食べさせなければ)


 冷えた心を持って、周囲からは早速姉弟が打ち解けたのだと温かな視線を受けながら、フィリーゼはヴェインと昼休みを過ごしたのだった。



「明日は今日の続きから始める。では、今日はここまで」


 教卓に立つ教師が、先ほどまで板書をしていた黒板を乱雑に拭きながら生徒たちに目を向ける。その中には当然フィリーゼもいて、彼女は書き写した書面をじっと見つめていた。


 昼間、ヴェインとの出来事があったフィリーゼは、昼休みを終えると警戒しながら教室に戻った。


 義弟にどんな思惑があるにしろ、フィリーゼから何かをすれば、当然責められるのは彼女だ。周囲の視線があるうちは、仲のいい姉弟を演じる必要がある。


(いつまでこの茶番は続くのだろう)


 フィリーゼがヴェインに目を向けると、彼は丁度板書を書き終え、すっきりしたような表情をしていた。


(それにしても、どうしてあの男は愚かなふりをするのだろう。レモンカードのサンドイッチを作っておいて……)


 ヴェインがロレインに渡したレモンカードのサンドイッチは、かつてのフォーリアと王太子の思い出が重なり合ったものであり、ヴェインに前世の記憶があることを鮮やかに示していた。記憶が無いふりをして近づくのなら、絶対に避けるべき差し入れのはずだったのだ。


 フィリーゼは鞄の中に教科書を詰めていきながら、そっと隣にいるクレイスに声をかける。


「今日、少し話があるのですけれど」

「お、奇遇だな。俺も君に話があったんだ。だが少々用ができてしまってな。待っていてほしいと頼むところだった」

「なら、図書館でお待ちします」

「わかった」


 フィリーゼは礼をして、静かに教室を去っていく。ヴェインは慌てて追うようなそぶりを見せたが、口を開く直前、ロレインに声をかけられ振り返った。二人の様子を横目にフィリーゼは廊下を進み、自分の屋敷に帰ろうとする生徒たちの波に身を潜ませ、足を速めていく。


 貴族の子息、令嬢たちは皆社交の一環として香水をまとっており、その人波は様々な花や木々、香草の香りが混ざり合っている。にも関わらず、フィリーゼの鼻腔に残るのは、昼に嗅いだレモンの香りだ。


 フォーリアは、かつてあのレモンの香りを嗅ぐことが常であった。それはまだフォーリアと王太子二人が幼かった頃、レモンカードの塗られたパンを好む王太子のために、フォーリアは王室の料理長に頼み込み、レシピと作り方を教わって、王太子によく作っていたからである。


 レモンを絞り出し、鍋で砂糖とともに焦げ付かないよう煮詰めていく作業は常にその香りを纏うようなものであり、レモンの香りは王太子の笑顔、美味しいと笑う声、二人でした他愛もない話。それら全てをフォーリアを通しフィリーゼに色鮮やかに思い出させるものだ。


 フィリーゼは忌々しい気持ちを感じ、手のひらを握りしめながら廊下を進んでいく。するとあともう少しで図書館に辿り着くというところで後ろから声がかかった。


「クレイノーツ嬢!」


 フィリーゼが振り返ると、そこにいたのは同じ教室で授業を受けている男子学生だった。伯爵家の生まれであり、クレイノーツ家とは交流もなければ、特に目立った好評も不評もない。今まで話をしたことがない生徒に何故呼び止められるのか。フィリーゼは警戒をしながら「どうされましたか?」と男子生徒に体を向けた。


「先生が、クレイノーツ嬢に来月の論文発表について話があるらしくて……、準備室に来てほしいって伝言を頼まれたんです」

「そうですか……」


 フィリーゼには、思い当たることがあった。来月開かれる学校の代表が集められ全校生徒の前で論文を発表する行事は、その学年の最優秀成績者が選ばれる。そして夏季の試験順位はフィリーゼが一位であった。


「ありがとうございます。早速向かいます」

「えっと、俺はこれで」


 男子生徒は頭を下げて去る。フィリーゼはその背中が消えるのを見計らってから、図書館から準備室に行き先を変えて歩いていった。



 準備室は、普段生徒たちが教室で授業を受ける本校舎の隣に併設された、四階建ての特別棟の最上階にある。そしてその場所は普段教師が教材を置くための物置のように使用され、試験用紙などが保管されることもあり、生徒たちは不用意に近づかないよう言明されていた。


 だからか、放課後特別棟の最上階の、各部屋につながる大廊下を歩く者はフィリーゼしかいない。彼女が本校舎から特別棟に向かう渡り廊下を通り過ぎ、この場所に辿り着くまでに教師とすれ違うことはあっても、生徒とすれ違うことはついぞなかった。


 一方窓からは、正門へと自分の馬車に乗るために帰路を急ぐ生徒たちの姿が見受けられる。そんな光景を横目にフィリーゼは指定された準備室の扉を叩き、そしてドアノブに手をかけた。


「失礼します。フィリ……」


 礼をしようとして、準備室の中の空気がどうもおかしいことにフィリーゼは気が付いた。


 そこには、フィリーゼを自分を呼び出したはずの教師がいない。何か所用があり席を外している可能性は十分にあるものの、彼女は形容しがたい胸騒ぎを覚えた。とりあえず、今は部屋の外で待ったほうがいい。そう決め一歩退いた瞬間、その何倍の力で彼女は準備室内へと突き飛ばされた。


 フィリーゼはとっさに床に手をつき、倒れこみはしなかったものの手首に強い痛みを感じた。慌てて振り返ると、そこには先ほど彼女を呼び止めここに来るよう伝えてきた男子生徒の姿があった。


「あなたは――」


 フィリーゼが言い終える前に、男子生徒は扉を閉めた。そしてすぐに鍵が施錠されたことを知らせる無機質な音が部屋に響く。生徒はそのまま扉の窓の端へと消えていき、足音はすぐに小さくなっていった。


 突然のことに、フィリーゼは茫然とした。準備室の中は教員が試験作成を行いやすいよう、そしてその内容が漏れ出ないよう防音処理がされており、中の音は外へと伝わらないようになっている。しまったと彼女は自分の行動の浅はかさを呪った。


(あの男と、あの女、どちらの差し金――、いや、どちらもの可能性もあるわ)


 フィリーゼの中で、ロレインとヴェインの姿が思い描かれていく。ヴェインには、確実に記憶があると彼女は考えている。しかしロレインにどの程度記憶があるかは判断できずにいた。それはロレインが一切彼女に対して動きを見せないことや、ただただこの五日間、明るく無邪気で天真爛漫な転入生でしかなく、今日レモンカードのサンドイッチを持ってきたヴェインと異なり、何一つ前世の名残を感じさせなかったからだ。


(そういえば、同じように閉じ込められたことがあったわ……)


 フィリーゼの見ている景色が、徐々にフォーリアの見ていた景色に移ろいでいく。かつてフォーリアは、学院で物置部屋に閉じ込められたことがあった。季節は冬で、朝から晩まで閉じ込められ、最終的に放課後の下校時間を過ぎ教師たちも帰り、警備の者たちが校内を見回っていたところにようやく彼女は発見されたのだ。


 警備の者や登下校の馬車の御者は彼女を心配したが、次の日フォーリアは王太子に近づく令嬢を街で暴漢に襲わせる準備をしていたため学院を欠席した噂が立ち、彼女を救出したはずの警備の者たちは誰も証言をせず、そして御者らの言葉も「言わされている」と周囲は判断して信じなかった。


 その冷たさと寒さを、フィリーゼは強く覚えている。しかし今は夏の終わりであり、あの頃の寒さはない。


 それにフォーリアが閉じ込められたのは、生徒たちからの評判が地に落ちていたころだ。今ならばまだ救われる可能性は十分にあり、そしてクレイスと待ち合わせをしている。フィリーゼはそう考える一方で、明日何かしらの濡れ衣を着せられる警戒を十分にしていた。


(もしかしたら、準備室で盗みを働いたと言われるかもしれないわね。それとも、ロレインを襲おうとした、だとか)


 閉じ込められたあの冬の日。フォーリアは懸命に扉を叩き続け、そして声がかれるまで助けを呼んでいた。けれどフィリーゼは静かに壁を背にし、目を伏せる。


(警備の者が巡回を始めるのは夜と朝。夜が深まっても帰らなければ御父様が心配してくださるでしょうけど、でも、ここに来るのは朝を覚悟しておいたほうがいい)


 フィリーゼは誰に助けを求めることもなく、ただ時が過ぎていくのを待ち、窓に視線を向けていたのだった。



 フォーリアが王太子と婚約を果たしたのは、彼女が十四歳の頃であった。彼女は勤勉であり、公爵令嬢としてだけではなく一人の令嬢として正しくありたいと、何事にも前向きに取り組み、常に自分に厳しくあった。


 その姿は手本のようだと称えられる一方、子供らしくない、父親に操られた人形のようだという声も確かにあり、けれど非難の声が向けられる度に彼女は自分を磨く熱量を上げていった。


 そんなフォーリアでも、恋をすることが出来た。相手は国の王太子であり、将来国を統べる王。彼との出会いは二人が十二歳のころに開かれた王家主催の茶会だった。


 その日フォーリアは父に言われるがまま王太子の好む色のドレスに身を包み、茶会に参加した。挨拶も滞りなく済ませ、茶会の終盤に差し掛かったころ、庭園の片隅で彼女は自分の悪口を言う令嬢たちの話を聞いてしまったのだ。


「フォーリアは人形みたいで何を考えているかわからない」

「一緒にいると比べられて腹が立つ」

「なんでも涼しい顔をしてやってのけるせいで、私たちが努力をしていないと思われてしまう」


 そう口々に話す彼女たちは紛れもなくフォーリアの友人たちで、今まで彼女たちは自分についてそんな風に思っていたのかとフォーリアは愕然とした。


 しかし、そこに王太子が現れ、令嬢たちに意を唱えたのだ。


 フォーリアと話をしたことはないけれど、国で開かれた詩の読みあいの会や、楽器の演奏会、刺繍の発表会、絵画会で彼女の作品を見て、聞いたことがある。それらは全て努力によって生み出されたものであったと言ってのけたのだ。


 今までフォーリアは、誰かに成績を、優秀さを認められたことはあっても、努力を認められたことはなった。何一つをとっても、出来て当たり前。そんな世界にいた彼女にとって王太子の言葉は優しく、そして救いがあるものであった。


 この人の、隣に立ちたい。役に立てる存在でありたい。そう彼女は決めた。


 それからだ、フォーリアは王太子を一途に想い、自分が婚約者候補にあたることを知ってひたすら努力を続けた。全てにおいてトップであれば、きっと夢がかなうと信じて。そして結果的に彼女の夢は叶い、王太子の婚約者に選ばれた。


 王太子も王太子で、当時は勤勉で自分に厳しく努力家のフォーリアを気に入るそぶりを見せ、彼女に優しくあった。自分のためにサンドイッチを作ってきたときは喜び、毎週お互い王政教育、そして王妃教育のない午後の日にともに読書をして過ごした。


 当時、二人の仲は誰が見ても問題のないものだったと言えよう。王家と公爵家との婚姻は、国を治めるもの、王家の地位を盤石なものにし、乱さないためのものであり、愛は求めないものだ。しかし二人の距離が近いことで悪いことは起きない。聡明とされる王太子と、努力家な未来の王妃。そんな二人の未来を誰もが明るいものだと考えた一年後のことだ。


 二人の仲は、ある女の手によって、悉く乱されていった。



「あっ……殿下、実は授業で分からないところがあったのですが……」


 学院の食堂で、無垢な瞳でこの国の王太子を見上げる娘を、フォーリアは静かに見つめる。


「今行こう。フォーリア、すまないが行ってくる」

「分かりましたわ」


 王太子はレモンカードのサンドイッチに向けていた右手を戻し、立ち上がるとすぐに娘とともにフォーリアの元から去っていく。


 フォーリアと王太子が学院に入学して、およそ二回の春が巡り卒業と、王太子との婚儀まで一年。春の終わりを告げるのと同じくして、その娘は現れた。男爵令嬢である彼女は、平民として過ごしていたところある時男爵家の血を引くことが判明し、後継ぎがほかにいないことで男爵に引き取られた。


 卒業まで一年を切った中で不慣れなことも多いだろうとサポート役が付くこととなり、その役目を学級長であった王太子が担うこととなったのだ。


 それから季節は巡り、雨が多くなり夏が見えかけていた頃、フォーリアの心は不安とともにあった。それはこれまで王太子と過ごしていた時間が双方の王家による教育で減ったことに加え、王太子の言動に男爵令嬢の影が見え隠れするようになったからである。


「すまない、その日は彼女に試験の勉強を教えることになっている」

「ああ、これは彼女が礼にとくれたんだ」

「前に彼女に聞いたよ」


 少し話が出来ないか問えば断られ、見慣れぬものを持っていることを指摘されれば贈り物だと話す。それならせめてと新しく何かを伝えようとすれば、まるで先回りするかのように男爵令嬢の言葉がそこにはあったのだ。そして今日、とうとう二人の昼食時間までもが無くなってしまい、フォーリアは静かに心を痛めた。


 王太子に去られたフォーリアの様子を周囲は皆物珍しそうに注目していて、彼女は避けるように時間差で食堂を後にした。


「見て、フォーリア様、お一人で歩いているわ」

「先ほど殿下をお見かけしたわよ、ほらあの途中入学の娘と歩いていたわ」


 廊下を一人で歩くフォーリアを見て、道行く女子生徒たちは声を潜める。ここ最近、徐々にフォーリアに対しての周囲の印象が悪くなってきているのは、彼女自身がよく分かっていることであった。元々彼女は学生のうちから慈善事業に多く出資しており、そのことを大方の貴族は快く思っていない。一人がそういった行動をして目立つことで、自分たちも出資しなくてはならなくなると、出る杭は打たれるように不愉快に思われていた。そしてその娘、息子たちにも伝染し、嫌悪は抱かれないものの、良くも思われていなかった。


 しかし、その危うい薄氷のような悪意の均衡は、王太子が目に見えて男爵令嬢をフォーリアより丁重に扱いだしたことで崩壊したのである。


 王太子は、公爵令嬢との婚約を解消し、新たに婚約者を選ぼうとしているのかもしれない。


 新たにそんな噂が流れ始めたのだ。男爵令嬢との仲は火遊びにしろ、あれだけ目に見えて冷遇しているのだからおいおい解消はされるだろう。元々妃候補の中で飛びぬけた第一位ではなかったのだから、また新しく選別が行われるかもしれない。


 そして、妃候補選びが再度行われるのだから、フォーリアが選ばれることはもうないだろう。


 冷遇の原因について、男爵令嬢が現れたり、王太子に非があるというより、皆フォーリアに問題があると考えていた。目に見えた汚点があるわけでもなく彼女はただひたむきに努力していたが、婚約相手は非の打ちどころのないとされている王太子。王家の者に対して非を追及することは容易ではない。だから皆王妃教育が順調ではない、フォーリアに原因があると帰結したのだ。



「おい、お前。私に何か隠し事をしているだろう」


 夏が過ぎ、秋が始まったころ、フォーリアは授業の休憩時間。空き教室で王太子と対峙していた。


 王太子の隣には男爵令嬢の娘がおり、彼の腕を抱きしめ、怯えるようにフォーリアを見つめている。


 午前の二回目の授業が終わり、昼にかけて折り返す為の休憩が始まってすぐ、フォーリアはこの場所に呼び出された。初めは久しぶりの王太子の呼び出しに喜びを感じていたが、扉を開いてすぐ見えた彼の敵意を帯びた視線にフォーリアは愕然としたのである。


「お前は彼女を昨日、階段から突き落とそうとしたらしいな」


 王太子はフォーリアをきつく睨み付ける。その視線に委縮しながらも、彼女はすぐに首を横に振った。


「そんなことしておりません」

「嘘を吐くな!」


 王太子が右腕を振り上げ、高い音が教室に響く。フォーリアは左の頬に強い熱を感じ、今まさに彼に頬を張られたのだと気づいた。


 その勢いのままフォーリアは崩れ落ち、目の前の婚約者を見上げる。


「昨日、お前はこんな風に彼女を叩いたそうだな、階段の上で……!」

「私は決してそのようなことは――」

「そんな場所で暴力を振るえば、落ちてしまうに決まっているだろう! そんなことも分からなかったのかお前は!」


 怒鳴りつけるような勢いに、弁解を試みようとしていたフォーリアの言葉が止まった。それを見て王太子は忌々しそうに話を続ける。


「お前が彼女を疎ましく思っているのは周知の事実だ。彼女はその身分の低さゆえに王妃になることは出来ない。だから俺は彼女を側妃にし、お前を妃に迎え入れようと思っていたが、やめだ。妃は別にとる。嫉妬で人間を殺そうとする者など、王家には必要ない」


 そう言って、王太子は男爵令嬢を伴い教室から出ていく。フォーリアは「違います、違うんです!」と縋るように繰り返したが、王太子に左頬を平手で打たれ、崩れ落ちた。


「このことは父に進言する。公爵を経由してお前の処分は伝えられるだろう」


 フォーリアは、王太子を見上げる。彼の瞳は酷く冷たく、そしてその声色も氷のように凍てついたものであった。



「――あ……」


 準備室でしばらく目を閉じていたフィリーゼは、はっとして周囲を確認した。窓の外は暗く、空には月が浮かんでいる。季節は夏であるものの、日が沈めば気温は初冬とそう変わらない。気付けば指先は冷たくなっており、彼女はそっと息を吹きかけた。


(眠ってしまっていたのね。私は)


 フィリーゼはおよそ三日に一度、フォーリアの記憶をそのまま投映したかのような夢を見る。それは彼女が前世の記憶を取り戻していてからずっとのことで、初めこそ狼狽えていたが、学院に入学する頃には慣れきっていた。


 しかし、義弟――かつての婚約者の登場によって、今彼女の心は落ち着かず、平静さとはかけ離れていた。


 あの男さえ、現れなければ。


 フィリーゼは、ここにないはずのレモンの香りを感じ取っていた。あれから何度顔を洗い手を洗ってもその香りがこびりついている気がして、午後の休憩時間はすべて手洗いに費やした。そして先ほど夢を見て、ここが前に王太子との因縁の場所であることを思い出した彼女は、大きくため息を吐いた。そのまま彼女が窓の景色に目を向けていると、わずかに人の声が聞こえはじめる。


「――え、――姉さまっ」


 その声は忙しない足音とともに大きく、フィリーゼの元へと近づいていく。そしてその声の主が誰か分かったとき、彼女の目は大きく見開かれた。


「姉さまっ、姉さまどこですか! いたら返事をしてください!」


 そう叫ぶヴェインの声を聴き、フィリーゼは後ずさった。彼女の祈る気持ちも虚しく彼は教室内のフィリーゼを発見すると扉を強く叩く。


「姉さま、ご無事ですか! ……声が聞こえないようになっているのか? すみません! 姉さまはここです! 早く開けてください!」


 ヴェインがそう発すると、またぱたぱたと今度は複数の足音が大きく響き始める。やがて扉の窓の外に警備の者たちの姿が写り、扉が開かれた。


「姉さまっ!」


 扉が開かれた瞬間、ヴェインが飛び出すようにフィリーゼの元へ駆けていく。彼女が驚き愕然として動けずにいる間に、ヴェインはフィリーゼの右手を取り、そのまま抱きしめた。


「こんなに冷たくなって……早く屋敷に戻りましょう姉さま!」


 ヴェインはすぐにフィリーゼを準備室から出していく。準備室の外には警備の者のほかにクレイノーツ公爵も立っていた。公爵は娘であるフィリーゼの無事を喜び感極まった様子でヴェインごと彼女を抱きしめる。


「良かった……良かったフィリーゼ!」

「こ、公爵……」


 二人ごと抱きしめていることで、ヴェインが苦しそうに声を漏らした。フィリーゼはふと、ヴェインの肩と自分の肩が触れていることに気づき、触れているほうの腕をこわばらせる。するとそれを感じ取ったかのようにヴェインが少し傷ついたような顔をした後、優しく笑った。


「姉さまがご無事でよかったです」


 その声の優しさに、フィリーゼは静かに俯く。そうして二人はただただ公爵に強く抱きしめられ続けていた。



「今日はエーベルの十歳の誕生パーティーに来てくれてありがとう。とても嬉しいわ」


 フィリーゼが閉じ込められ、二日後。彼女は王家主催のパーティーに訪れていた。


 王妃が朗らかな顔で来賓客と話す姿を横目に、フィリーゼはグラスに入った果実水を傾ける。そんな彼女をクレイノーツ公爵は不安げに見つめながら、別の公爵たちと歓談をしていた。


 本来ならば、クレイノーツ公爵はフィリーゼをパーティーに出席させる気は当然なかった。それは二日前、校舎の一室に半日閉じ込められた娘への心配によるものだ。


 フィリーゼは、公爵に犯人について伝えていない。それどころか扉を閉じたとき勝手に鍵がかかり出られなくなってしまったと嘘まで吐いた。彼女がそんな嘘を吐いたのは、男子生徒を庇うためではない。理由は偏に、証拠が自分の目撃情報しかなかったからだ。


 フォーリアとして生きていた時、彼女はどんなに嫌がらせを受けたと伝えても、自作自演だと誰にも信じてもらえなかった。両親は初めこそ心配するそぶりを見せたものの、彼女が訴えうたびに周囲からの目が厳しいものへと変わっていくのを感じ、黙って耐えるよう命じた。


 よって彼女は今回、やみくもに被害を訴えるのではなく、確実な証拠を得るまでは黙秘に徹することを決めたのだ。


 だからこそ、フィリーゼは今日のパーティーにも参加をした。


 今日は王家主催のパーティーで、その会を欠席するということは少なからず王家との蟠りを残してしまう。さらに時期国王、王太子エーベルの誕生日会だ。たとえ一日中閉じ込められていた後だとしてもなお、欠席の選択肢は彼女に存在していなかった。


 にこやかに笑う王妃の傍らには、落ち着き払ったような少年エーベルの姿がある。どこか昔の自分に似ていると感じたフィリーゼは、遠くから二人の様子を窺っていると、隣にすっとクレイスが立った。


「どうしたんだ。そんなに未来の王太子を見つめて。話をしたことでもあるのか?」

「いえ、昔の自分に似ているな、と思いまして」


 今日のパーティーには、南の辺境の当主の息子であり、次期宰相とも名高いクレイスも当然参加をしていた。フィリーゼはさっとエーベルからクレイスに視線を移す。


「そうか。それにしてもたかだか誕生日パーティーというだけで異様な規模だな。生きていれば毎年訪れるものだというのに」


 クレイスはそう言って鼻を鳴らす。パーティーが開始される前、フィリーゼは先に会場に着いていた彼に二日前待ち合わせ場所に来なかった理由を問われていた。そこで彼女は準備室から出られなくなってしまったことだけを伝えていた。


「それで、君の義弟がさっきから俺をやや敵意混じりで見てくるんだが、一体どういうことか説明してもらえないか」

 クレイスは、そっと遠くでこちらの様子を窺うヴェインを示す。警護のような佇まいを一瞥して、フィリーゼはため息を吐いた。


「さぁ、分かりませんわ」


 王家主催のパーティーにフィリーゼが参加するにあたり、異を唱えた者は何もクレイノーツ公爵だけではない。養子ヴェインもまた彼女の参加に否定的な目を向けていた。


 というのも、フィリーゼが誤って閉じ込められたという嘘に対して、彼だけは懐疑的な目を向けたのだ。、狙われているのではと疑い、さらに自分が参加する形では駄目なのかと養父でもある公爵に対して伝えた。そのことに不信を感じ、フィリーゼの参加の意思は強固となったのだ。


(あの男は、自分がいない間に、何をする気なのかしら)


 フィリーゼは取り巻きの男が閉じ込めてきたことでロレインを疑っていたが、ヴェインが自分が王家主催のパーティーに参加すると言い出したことで疑いの目を彼にも向けた。


 本来、ヴェインも参加予定であったものの、自分を不参加にし、父であるクレイノーツ公爵と二人でパーティーに向かってそこで何かをする気ではないのかと。


 しかし、フィリーゼは未だ二人が接触しているところを見たことがない。転入生同士で授業中両者指名されたり、共に扱われる二人であるが、フィリーゼが暗に調べたところロレインとヴェインが親しくしている雰囲気もなければ、二人で会っている様子もなかったのである。


 よってフィリーゼは、二人が共謀をしているのか互いが互いの為にと自分を消そうとしているのか判断できないまま、今日一日いつになく張りつめた気持ちでこのパーティーに臨んでいた。


「まるで旦那に睨まれた間男の気分だな」


 クレイスは鼻を鳴らし、フィリーゼの冷ややかな視線に気付いてさらにおかしそうに笑った。そして「そういえば」と思い出したように口を開く。


「ヴェレッタ嬢が突然転入してきた理由についてだが、どうやらヴェレッタ夫人が無理やり引き戻したらしいんだ」

「夫人が……?」

「ああ。元々ロレイン以外の……、ヴェレッタ夫人と男爵、長男、そしてロレイン嬢と二つ離れた姉はこの国で暮らして、ロレイン嬢だけ留学の形をとっていたらしいんだが、冬に姉が亡くなって、ヴェレッタ夫人が呼び戻したらしい」

「姉が亡くなった?」

「元々ずっと床に伏していて……社交界にも出なければ学院へ通うこともままならないほどだったらしい。幼い頃、といってもロレイン嬢が隣国に発つまで共にいる機会が多かったが、姉がいるなんて初めて聞いた」


 幼少期、クレイスとロレインが親しい間柄であった。そのクレイスが亡き姉について知らないことに、フィリーゼは疑問を抱いた


「ロレイン様の口からも、何も聞いておりませんでしたの? お姉さまの話は」

「ああ」


 クレイスは頷いた。フィリーゼはその様子に目を細めてから手元のグラスに視線を落とした。


(さっき、クレイス様はロレイン様のことを一度だけロレイン、と言ったわ)


 フィリーゼは、先ほどクレイスがロレインを呼び捨てにした瞬間を聞き逃さなかった。クレイスはどこまでも打算的な男であり、その分人に弱みを見せたり、素を見せることを嫌う。そんな彼が咄嗟に令嬢を呼び捨てにした意味を考えながら周囲を見渡していると、フィリーゼの元に新緑色のドレスを身に纏った夫人が現れた。


「話をしていれば――、あれがヴェレッタ夫人だ」


 ぼそりとクレイスが呟く。ヴェレッタ夫人は一人で扇子を持ち二人に向かっていくと、にこやかに微笑んだ。その表情はロレインに似ている為なのか、ロレインと出会った時よりもより強く心臓を打ち、フィリーゼの心拍数は跳ね上がる。


「ごきげんようクレイスさん、そしてフィリーゼさん、はじめまして」

「お久しぶりです、ヴェレッタ夫人」


 クレイスが応えるように笑みを浮かべ、フィリーゼは頭を下げた。するとすかさずといった調子でヴェレッタ夫人はフィリーゼに話の矛先をむけた。


「ねえフィリーゼさん、突然で申し訳ないのだけれど、クレイスさんと少しお話がしたいの。いいかしら」

「どうぞ。私は席を外します」

「ありがとう。ロレインも来ているから、少し昔の話をしたくて……」


 ぱっと話を進めていくフィリーゼとヴェレッタ夫人に、クレイスはあっけにとられたような顔をした。しかしヴェレッタ家を探る好機と捉えた彼はフィリーゼに「後で迎えに行く」と彼女に声をかける。


 フィリーゼは二人に礼をして踵を返し歩いていくと、丁度向かいからロレインが歩いてきた。鮮やかなでふわりとした素材のドレスに身を包んだ彼女は、自信を持ち堂々と胸を張ってクレイスの元を目指している。


「三百年前の王妃の幼い頃の顔を、見たことはある?」

「……あなたっ」


 すれ違いざま向けられた言葉に、フィリーゼは突然のことで頭の中が真っ白になった。背後からはクレイスとロレインが再会を喜ぶ声が聞こえ始める。


 フィリーゼは顔が歪んでいくのを悟られないよう、俯きがちにその場を後にしたのだった。



 鬱蒼とアイビーが茂る庭園で、フィリーゼはベンチに座り静かに噴水を眺めていた。


 王宮の庭園は、大きく分けて三つで構成されている。


 一つ目は国内外問わず招待するために用いられる中央庭園だ。四季によりその様相はがらりと変わり、色合いも鮮やかで、形は華やかさや派手さなど見栄えが重視される。


 一方王族が日常的に散歩をする東庭園では、見ていて安らげる、落ち着く庭であるよう色合いも調整され、華美なものはほとんどない。


 そうして考え嗜好を凝らした二つの庭園とは対照的に、西庭園では、中央に噴水とベンチが一つ置かれ、後はアイビーで埋め尽くされているという簡素な仕上がりであった。


(そういえばここに来る前、前の王が咲いていた花を抜き、すべて植え替えるよう命じたのだとお父様は言っていたわ。ここのことだったのね)


 フィリーゼはクレイスらと別れた後、特にあの場で長居をすることもないと判断し庭園へと足を向けていた。幸い庭園への行き来の自由は東庭園以外制限はされていない。西庭園への行き来の自由は実質許可をされているも同然であったが、庭園にはフィリーゼ以外誰もいなかった。


 かつて、フォーリアとして生きたとき、彼女はこの場所に来たことがあった。当時は花々が咲き誇り、東庭園と対を為す様相であったこの庭は、今は見る影もない。


(王家の呪いというけれど、呪いなんて怖くない)


 彼女はため息を吐いて、瞳を閉じる。


 以前西庭園の殺風景さに意を唱えた庭師や他王家に使える有力貴族がいたが、皆不幸に見舞われたのだ。それからというもの西庭園に手を入れると事故に遭う、呪われると人々は口にして、西庭園は忌避される存在に変わった。


 その話をフィリーゼは聞いていたことで西庭園には誰も来ないだろうと踏み、ここにやってきたのだった。


 この場所は、周囲をアイビーに覆われている為か他と断絶するように音が響かない。人の声や物音が絶えないパーティー会場と異なり、誰かが近づいてきたときに、すぐに気づくことができる。フィリーゼは落ち着きを感じながらただ噴水を眺めていた。しかし彼女の安寧もつかの間、騒がしく走るような音が響き始め、眉をひそめた。


「姉さま! ここにいたのですね!」


 庭園の入り口からヴェインが息を切らしながらフィリーゼの元へ走っていく。彼女はその様子を見て心の中がさっと冷たいものに変わっていくのを感じながら義弟へ向き直った。


「どうしたの、お父様がお呼びかしら」

「いっいえ、あ、あの、今は大丈夫でしょうか?」


 ランチボックスよりも小ぶりな籠を持ちながらヴェインはフィリーゼの隣を窺った。彼女は頷いて「どうぞ、座って」と促す。


(ヴェインがここに来た以上、足音や気配を感じないといっても他に誰が見ているかわからないわ)


 フィリーゼは籠を持ち自分を探しに来たヴェインを見て何となく今後の展開を予想した。そして「どうしたの?」と問いかけると、彼はフィリーゼの予想通りの言葉を口にした。


「実は、姉さまにクッキーを焼いたのです。あと、紅茶も……。公爵から姉さまはこういったパーティーでは、食べ物や飲み物は口にしないと聞いたので……」


 フィリーゼは基本的に立食形式で出される食事は口にしない。誰が食べるかを予め定めてある食事会などのものは万が一毒物や昏睡するものが入っていれば、食事会の主催者が責を問われるが、摂取する者が定められていない、特定できない形式の場合自演すら疑われる。そのためパーティーで出された飲み物もただ唇に触れさせるだけで、一切飲むことはしなかった。


 こうしたフィリーゼの行動を父であるクレイノーツ公爵は以前食事会で何か悪いものにあたり言い出せなかったからと解釈していたが、実際は前世から得た万物への疑心によるものである。


「この間は……すみません。一方的にサンドイッチを食べさせてしまって……えっと、一応毒見の証明ということで、僕が先に飲みますね!」


 そう言ってヴェインは水筒のカップに紅茶を注ぎ入れ、飲むとフィリーゼに渡した。彼女がじっくりと見ると確かに水筒の中身は減っており、本当に飲んだと確認してからヴェインが飲んだ部分に唇を合わせて飲む。その様子を見てヴェインは「え」と顔を赤らめる。


 フィリーゼは、水筒の中に入ってるかもしれないという毒の存在がとにかく気がかりであった。ふちに毒を塗られているかもしれないと考えた彼女は、ヴェインの触れた個所以外触れてはいけないと、そう考えたのである。


「あ……っ、姉さま、そこは僕が口をつけて……っ」

「あら、そうだったの。ごめんなさい」

「いえ謝らないでください。その、こちらこそごめんなさい」


 へへへ、と照れるように笑う義弟を見て、フィリーゼはより一層冷ややかな気持ちになった。もしかしたら、紅茶で安心させ、クッキーに何かを仕込んでいるのかもしれない。サンドイッチは油断させるための撒き餌だった可能性もある。そう考えた彼女は、ヴェインがいそいそとクッキーを齧る挙動を注視していく。


「では、あの、姉さま、どうぞ」

「反対側からも齧って頂戴」

「えっ……」

「悪いけれど、量が多いの。全種類食べてみたいから、手伝ってくれないかしら」


 フィリーゼはクッキーの入ったボックスに目を落とす。そこにはシンプルな型抜きのほかにジャムをあしらったもの、果実が練りこまれたものなど様々な種類が詰められていて、彼女はそれを多様な種類を混ぜることで統一感を無くし、異物を入れたことを誤魔化すためであると疑ったのだ。


「わかりました、では、失礼します」


 ヴェインが恐る恐るというようにクッキーを齧る。そしてフィリーゼに差し出した。彼女は受け取るとまたヴェインの食べたところからクッキーに口をつける。


「あ、姉さま、えっと次はどれがいいですか」

「このジャムのついたものがいいわ。また両方から食べてくれないかしら」

「は、はい……」


 ヴェインは頬を染めながらクッキーを齧る。そして自分の齧ったクッキーを口にするフィリーゼを食い入るように見つめていた。ある種不躾な視線をフィリーゼが気づかないはずもなく、彼女はすぐに隣に座る義弟に顔を向けた。


「どうしたの、私の顔がおかしいかしら」

「いっいえ……その、め、珍しいといいますか……」

「どういう意味?」

「姉さま、あんまり笑われたりしているところを見なかったので、その、姉さまの歯を見ることが今までなくて、新鮮だなと……」


 フィリーゼはすぐに顔をしかめた。吸血鬼は血を吸うとき牙を出すことがあるが、それは任意であり普段の生活では人間の歯と全く同じ並びをしている。


 さらにフィリーゼは今まで生きてるものの血を吸うことはなく獣をさばき取り出した血を飲んでいたため牙を出した経験がない。


 そのことを遠回しに揶揄しているのかと彼女は疑ったが、一方のヴェインは「変な意味じゃないんです! その、笑っているみたいで素敵だなって!」と付け足した。


「姉さまの笑顔、中々見られないから……」

「公爵家の人間であるもの、みだりに人に笑顔を見せていいものではないわ」

「なるほど……」


 ヴェインは感心するように頷いた。そしてしばらく考え込んだ後、照れたような、不安げなような、どこか不安定さを感じる笑みを浮かべた。


「実は僕、お屋敷に来る前、姉さまと仲良く出来なかったらどうしよう、嫌われたらどうしようって、ずっと思ってたんです」

「えっ……」

「その、突然姉さまの前に現れてしまったというか、突然義弟なんて出来て嫌だとか、思われているんじゃないかと思ってて……」


 その笑顔が、幼い子供が転んだあと必死に泣くのを耐えるような表情に見え、フィリーゼの心が一瞬強くかき乱された。しかし彼女はすぐ視線を落とし「そんなことないわ」と偽りごと隠すように彼と目を合わせる。


「私はあまり人と馴れることが得意ではないから、そう思わせてしまったのかもしれないけれど、貴方のことはとても歓迎しているの。クレイノーツ家に後継ぎが出来ることもうれしいけれど、家族が増えて嬉しいと思っているわ。それにこうしてクッキーを焼いてくれる義弟だなんてとても素敵。ありがとう」

「本当……ですか……?」

「もちろんよ」

「ありがとうございます姉さま。養子縁組の手続きをするときとか、公爵から姉さまの話を聞いていて……、僕、ずっとお会いしたいと思っていたんです」


 感極まったようにヴェインはフィリーゼの手を握った。自分を掴む左手の熱に、フィリーゼは戸惑う。薔薇の蔦に絡め取られたような奇妙な感覚で、フィリーゼはまじまじとヴェインを見る。


「こ、これからもよろしくお願いします。姉さま」


 じっとりとした義弟の目つきにフィリーゼは囚われ、息をのんだのだった。


 ◇


「では、そろそろ会場に戻りましょうか」


 クッキーを食べ終えたフィリーゼは徐に立ち上がる。彼女が懐中時計を確認すると、クレイスと別れずいぶんと経っていた。


「はいっ、姉さまっ」


 嬉しそうに笑うヴェインを見て、フィリーゼは微笑み返しながらパーティーへと戻っていく。しかし一見楽しく話をする姉を演じながらも、心の中では疑問を浮かべていた。


(どうしてこの男は、過去を思わせるレモンカードのサンドイッチを作っておきながら、自分が前世を思い出していないふりで私に近づいてくるのかしら……)


 フィリーゼは、ヴェインがかつての婚約者であることには確信を持っている。しかし、その行動原理について理解できない部分が多々あった。


 過去を思い起こさせるサンドイッチを作り、自分を刺激して来たにも関わらず以降前世について微塵も触れてこないこと、姉さまと慕うやり方があまりに不自然でわざとらしいこと、そしてロレインに対して接触する気配がないことだ。


(あの女に前世の記憶があることは、確定しているけれど)


 すれ違ったとき、ロレインはフォーリアが殺したとされる王妃について触れた。そしてクレイスに興味を示し、さらに取り巻きを使って自分を閉じ込めてきた。だから間違いはないとフィリーゼは考えている。


 フィリーゼは少し揺さぶってみるかと、ヴェインを呼びかけた。彼は明るい返事をして、彼女の言葉を待つ。


「どうして、レモンカードのサンドイッチを作ったの?」

「え」


 突然投げかけられた声に、ヴェインは驚いたように目を開く。フィリーゼはその挙動に注意を払っていると彼は


「嫌いでした……?」と呆然とした。

「あの、公爵様に好きなものを尋ねたら、姉さまは何でも好き嫌いせず食べるとのお答えで……それで最も多い組み合わせのものを選んだのですが……もしかして僕は姉さまの一等嫌いなものを作って……」

「いえ、そうではないの。料理ができるなんて驚いて、尋ねただけよ」


 実際フィリーゼが問いかけようとしたのはレモンカードのサンドイッチをなぜ作ったかであった。しかしヴェインが狼狽え出した以上、万が一のこともあり彼を被害者にしてはいけない。そう考えたフィリーゼは咄嗟に話をすり替えたのだ。彼はその言葉に騙された様子で「ああ、そういう意味でしたか。ごめんなさい」と薄く笑う。


「実は僕、あまり食事を出して貰えなくて、自分で作ることが多かったんです」

「料理人があなたの分を作らなかったということ?」

「いえ、その……僕の分を作ると、母は怒るので……」

「ああ……」


 フィリーゼはヴェインが長い間実の母に虐げられていたことを思い出した。吸血鬼でないことを理由に、長い間、何年も。


「ごめんなさいね、辛いことを思い出させてしまって」

「いえ。今はとても楽しいので平気です。学校に通わせてもらえるようになりましたし、食事もおいしいですし!」


 フィリーゼは、目の前で残酷なことを話す義弟に対して、漠然と胸がざわついた。


(こんな風に媚びを売って振る舞うのは、そうしないと生きていけなかったから……? 本当に、この男はただ生まれ変わりなだけで、記憶がない……?)


「姉さま?」

「何でもないわ」


 明るい調子で笑うヴェインに、同情が芽生えそうになったフィリーゼは慌ててきつく手の平を握りしめる。そして彼に気づかれないよう息を吐き出して、パーティー会場へと戻ったのだった。



 王家のパーティーが終わり、休みが明けた登校日、午前の授業が全て終了したフィリーゼは、昼食をとりに向かうでもなく図書館に直行した。


 彼女は目の前にある大きな扉を開いて、大きな棚がいくつも並び、壁が本で覆い尽くされている管内へと足を踏み入れていく。


 学院の図書館は、国内でも有数の蔵書数を誇っている。それは王家が出資し設立された、王都の中央に建てられている王立図書館と匹敵するものであり、王立図書館では貸し出しに審査が必要なものも学院の生徒であれば期限付きではあるものの自由に貸し出しが行われている。


 フィリーゼはその最奥、この国の歴史書の立ち並ぶ通りへ進んでいくと、そこでひと際同じ題名の並ぶ棚から一冊、分厚い書籍を手に取った。


 彼女が手に取ったのは、この国の歴史――それも王家について記された歴史書だ。そこから何百年と渡った歴史書を見ていくと、丁度フォーリアの関わった代の部分が現れた。


 フォーリアが、いかに王太子に近づく令嬢に非道な行いをしたのか、どんな風に過ごしているのかが執拗なほどに記され、肝心の王家への内容は酷く薄い。他の頁にはきちんと王妃、そして王、王太子の写真が並んでいたにも関わらず、その代についてはまるでフォーリアが主役であるかのような記され方をしていた。


 フィリーゼは陰鬱とした気持ちになりながらも頁をめくる手を止めない。今日彼女がここに現れたのは、先の茶会が原因だ。ロレインの前世――、男爵令嬢は狡猾な人間であった。ただの嫌がらせで王妃について話をしてきた可能性もあるが、何かしら意味を持っている可能性も捨てきれず、フィリーゼはそれを確かめようとした。


 本来、王家について調べるのであれば、王立図書館に赴くのが一番手っ取り早い。しかし何かしらの罠を考えて、彼女はここにやってきたのである。


 そうしてくまなく頁を隅から隅まで見ていると、フィリーゼはとある項目を見て目を見開いた。


『史上最悪の悪鬼、フォーリアの呪いにより王太子は死去、継承権は第二王子へ継承』


 そこには、かつてフォーリアを死に至らしめたはずの王太子の死を知らせる文言が連なっていた。死亡した月日は、およそ彼女の死の半年後。日付も同じで、死亡時刻も合わせたようになっていたことから呪いと称されるようであった。


(王太子が、死んだ……?)


 フィリーゼは、記憶を思い出したとき――、この国の歴史書を読んだとき、フォーリアが死亡するまでの項目しか読んでいなかった。その後王太子や男爵令嬢がどうなったのかは想像に容易く、令嬢が王妃を担い王太子はそのまま王になったとばかり考えていたことで、目の前の事実に愕然とした。


(もしかして、あの王宮の西庭園は、王太子が呪いから抗おうとした結果なのかもしれない)


 読み込んでいくと、王太子は死ぬ前、西庭園に手を入れたと記されている。西庭園に何かがあり、そして王太子は呪いを解こうとして庭園をあの状態にしたのだとフィリーゼは結論付けた。


(私は、王太子を呪えるような力があった……? けれど私は、フォーリアは能力を継承してはいなかったわ。それに西庭園で、王太子との思い出はないはずなのに……)


 吸血鬼は、人並み外れた速度、腕力、再生力のほかに、特殊な能力を授かるとされている。東のメアロードの領主は代々吸血鬼すら焼き尽くさんとする炎の能力を持ち、南のシャイニングの領主はまた異なった能力を持つ。


 それらはその家の長子にのみ継承されていき、以降は継承されず、ほかにたった一つの方法があるもののかなり特殊な事例であり、フォーリアは両親双方が吸血鬼であったことで能力を保持することはありえなかった。


(王太子を、私が殺した?)


 フィリーゼは過去を思い返しても、何か呪いが発動するようなことは一切なかった。神を呪い、嘆き悲しんだとしても、決して呪うことはしなかった。それどころか、呪いの手段さえ知らない。


(……そういえば……あの女の記述がないわ)


 前世で王太子は、何度も男爵令嬢を側妃に迎えるとフォーリアに伝えた。にも関わらず、フォーリアが投獄されてから王太子が死に至るまでの間ですら、令嬢について記された記述はなかった。


(身分が低く、婚約者になることは叶わなかった? 確かにあの女に強い関心を示していた王妃様は、亡くなってしまったし、ここに書いてある通り王になったのは第二王子であるようだけど……)


 頁をひたすらめくることを繰り返していると、休憩時間の終わりを知らせる鐘がなった。


(王妃の写真も遺されていないようだし、今日は戻るしかないわね)


 ため息を吐いて、フィリーゼは図書館を後にする。そのまま教室を目指しながら窓に目を向けると、視界に入ってきた光景に彼女はぴたりと動きを止めた。


 窓の外、中庭で紺色の髪をした後姿が見える。その前には、黒髪を揺らす令嬢――ロレインが嬉しそうに笑い、会話をしていた。


 二人はやがて、共に教室へと向かって歩き出す。その姿は前世の記憶、王太子と男爵令嬢の姿に重なって見えた。


(どうして、いつもあの娘を選ぶの)


 食い入るように見つめながらも、フィリーゼの胸がじくじくと痛みだした。その痛みの正体が前世のフォーリアと共鳴しているものなのか、それともヴェインに向けてのものなのかは分からない。


 ただただ、窓を隔てだ向こう側で、仲睦まじく二人を見るだけで軋むような痛みが襲っていく。フォーリアは睨むように二人を見つめ、心の中にある決意を抱きながら教室へと向かったのだった。



 放課後の鐘が鳴り響き、フィリーゼは速やかに荷物を鞄に詰め込んでいく。そしていつも通り教室から出ていこうとすると「姉さま」と声がかかった。


「姉さま、今日は一緒に帰っていただけませんか?」


 ヴェインがそう言って自分の席から立ちあがる。授業の終わる途中から帰り支度をすませていたらしく、すでに鞄を持っており準備は万端といった様子にフィリーゼは苛立ちを覚えた。


(今日、私と帰って何をするつもりなのかしら。馬車でも横転させて、自分だけ逃げようとでもしているの?)


 必死に睨みたくなる衝動を抑え、フィリーゼは「今日は……」と言葉を濁す。


 視界の端には、クレイスが映ったものの彼はほかの男子生徒と熱心に会話をしていて、頼れそうもない。どうすべきか考え、彼女は「今日は用事があるの。また後にしてくれないかしら?」と穏やかな笑みを浮かべた。


「では、姉さまの用事が終わるまで待っていてもいいですか?」

「えっ……」

「どうしても今日は姉さまと一緒に帰りたいのです。実は先ほどヴェレッタ嬢に街で行われている歌劇のチケットを頂いたので、姉さまと見に行こうと思って……」

「なら私ではなくヴェレッタ嬢を誘ったらどう?」

「いえ、ヴェレッタ嬢は今日行けないと言っていましたから、それに僕は――」

「だから、代わりに私を誘ったの?」


 口をついた言葉にフィリーゼははっとして口元を押さえた。まるで今、自分はヴェインにロレインの代わりに誘われたことが不服であったみたいではないか。自分の思いに唖然としたフィリーゼはそのまま目を見開いていく。


「姉さま?」

「何でもないわ。私は今日用事があるの。だから観劇には行かない……行かないわ。ごめんなさいね」


 フィリーゼはそのまま教室を飛び出すようにして小走りで駆けていく。本当は全力で走り出してしまいたかったが、彼女の理性でそれは叶わなかった。


 廊下を抜けるようにしていきながら、フィリーゼは頭の中で何度もヴェインのことを思い返していく。


(私が、ヴェインが、王太子が憎い。欲しくなんて無い。もう好きじゃない。違う。嫉妬なんかしない)


 言い聞かせるように、フィリーゼは何度も繰り返す。そして今日、中庭で二人を見たとき自分が抱いた感情を思い出し、その足が止まった。


 ――どうして、いつもあの娘を選ぶの。


(私は、そんなことを思っていない。それではまるで未だ昔の恋情を捨てられていないみたいだ。そんなはずはない。違う。違う!)


 フィリーゼがまた駆けだしていく。そのまま階段へと差し掛かったところで、下層の踊り場を歩くロレインの姿が視界に入った。思わず足を止めると、彼女はゆっくりとフィリーゼのほうを振り返った。


「フィリーゼ・クレイノーツ……どうして、あなたがここに? 観劇は?」


 怯えるような、恐れるような目でロレインはフィリーゼを見上げる。フィリーゼは激情を必死で抑え込みながら「そんなものには行かないわ」と冷たく言い放った。ロレインは考え込んだようなそぶりを見せた後、静かに口を開く。


「……教室に戻っては、いただけませんか? フィリーゼ様。ヴェイン様にお渡ししたチケットはとても評判がいいものなのです。きっと気に入ってくださるわ」

「何故私に観劇に行かせたがるの? この前みたいに閉じ込める気かしら?」

「閉じ込める? 何のことです?」


 ロレインがフィリーゼの言葉を躱すように笑みを浮かべた。しかしその様子はどこか焦り、ちらちらと階下を確認してはばつの悪そうに顔をゆがめている。


「お願いします。戻ってくださいフィリーゼ様」

「あなたにそんな風に呼ばれる筋合いはないわ」


 フィリーゼはらちが明かないとロレインの横を通り抜けようとする。しかしすれ違おうとした瞬間、ロレインの身体は一気に傾いた。


「手がかかる女だこと」


 フィリーゼの耳に呆れたような声が届いた瞬間、貫くような断末魔とともにロレインが階段を転がり落ちていく。目の前で突然行われた凶行にフィリーゼの頭の中は真っ白になった。呆然と立ち尽くしていると、後ろから「姉さま……?」と、静かな声がかかる。


「あ、姉さま、どうされたのですか? 今、大きな悲鳴が――」


 フィリーゼの後ろに、ヴェインが立っている。彼はフィリーゼをじっと見つめたあと、階段下に倒れるロレインを見て大きく目を見開いた。


「ヴェレッタ嬢……?」

 ヴェインは鞄を落とし、駆け下りるようにしてロレインの元へ向かっていく。そして「ヴェレッタ嬢、ヴェレッタ嬢!」と声をかけ始めた。


「すみません。誰か先生を呼んできてください! 人が階段から落ちました!」


 ヴェインの大声によって、徐々に階段には人が集まってきた。


「ふぃ、フィリーゼ様が、私を突然押してきて――!」


 そしてロレインの言葉に、人々がフィリーゼを驚いたように見上げていく。


(私は、何もしていない。でも、このままここにいてしまったら)


 視線が集中したことで、フィリーゼの心臓が激しく鼓動した。そのまま呼吸が荒くなった彼女は足元がぐらつくような感覚に陥っていく。そうして後ずさると、何者かに腕を捕まれる。振り返ると、クレイスが彼女を支え立っていた。


「どうした、フィリーゼ嬢。何があった」

「私は何もしていないわ……!」


 不安げなクレイスの瞳が、自分を疑っているものなのか分からず、フィリーゼはその場から逃れようとする。しかし猛烈な吐き気が襲い、そのまま意識を失わせたのであった。



「フィリーゼ、調子はどうだ? まだ身体は辛そうか……?」


 クレイノーツの屋敷、フィリーゼの自室にて寝台に横たわる彼女にクレイノーツ公爵は弱々しく尋ねる。倒れたのはフィリーゼであるが公爵は声を震わせ、顔色も今にも倒れそうなほどだ。


「ええ。でも随分と楽になりましたわ」

「そうか。ならもう今月はすべて休んでしまおうか。その間不安なようなら家庭教師をつけたっていい」

「ありがとうお父様」

「礼なんて言わなくていいんだ。お前が元気になってくれたら、私はそれでいいんだから」


 ロレインが階段から落下し、そしてフィリーゼが倒れ三日。屋敷に運ばれた彼女は、公爵の意向でそのまま休学し、療養をしていた。


 昔のフォーリアであるならば反対をおしのけ無理にでも学校に通っていたが、そうしたことで彼女がどんな末路を辿ったのかをフィリーゼは知っている。それにどう都合よく見積もったとしても、ロレインの発言や状況を見て、フィリーゼの言葉は誰も信じないだろうというのが彼女の見解であった。


(お父様は私がロレインを突き落としたと広まっていることを知っているのかしら。ヴェインと話をしていないなんてことは、ありえないはずだけれど)


 この三日、フィリーゼは食事を自室でとっている。一方公爵はヴェインと二人でとっている状態で、いわばフィリーゼについて話す機会はいくらでもある。


 しかしヴェインによってフィリーゼがロレインを突き落としたのだと公爵に語られた気配はなく、公爵はフィリーゼが倒れた経緯に関しても階段で過呼吸を起こしたことだけしか聞かされていない様子だったのだ。


(ヴェインは帰りが遅いようだけど、でもきちんと食事は取っているようだし……)


 彼が、前世王太子であることは間違いない。しかしそれならば、目の前で愛するものを階段から突き落とされたかもしれない状況で、父にどうしてそれを明かさないのかフィリーゼには疑問だった。


 以前の彼であるならば、男爵令嬢と出会った後の彼ならば、間違いなくフィリーゼがロレインを階段から突き落としたと公爵に伝え、彼女を家から追い出すことを進言している。


 だというのに、クレイノーツ公爵からはフィリーゼに対して心配の目しか向けず、烈火の如く責め立て怒鳴りつけてくるとばかり思っていたヴェインは、その様子さえ伺い知れぬほどに息を潜めていた。


(思えば、前にもこんなことがあった気がする。立場は逆だけれど)


 フィリーゼは、ふとフォーリアであった頃の記憶を思い出していく。そして、静かに、まるで念を押していくかのように、押し込めるように寝台に敷かれた布をなぞっていった。



「ご加減はいかがですか、殿下」


 寝台に臥す王太子を前にして、フォーリアが不安げに瞳を揺らす。王太子はそんな彼女に心配をさせまいと、左腕に力をこめ、起き上がろうとした。


 しかし、高熱に浮かされた身体は思うようにはいかず、力なくまた寝台に沈み込みそうになり、フォーリアは慌てて王太子を支えた。


「すまないフォーリア……俺もまだまだ未熟だな。雪も解け、花だって咲いてきたというのに、風邪を引くなんて。鍛錬が足りなかった」

「そんなことはありません。お医者さまは鍛錬の励みが原因とも言っておりました。どうかご自愛ください」


 冬が終わり、王太子とフォーリアが学院を進級してすぐ、王太子は病を患った。それは冬の時期、寒い装いをしていたり、夏に汗を拭くことが不十分だったときに起こす軽度の病であったが、それまであまり身体を壊していなかったためか熱や咳の症状は治まらず、春季休暇が終わってもなお王太子は学院に向かうことが出来ていなかった。


「……昼も、お前がいてくれたらいいのに。お前だけ学院に通わせるのは、中々苦しいものがある」

「どうしてですか?」

「お前を狙う男たちを牽制できなくなるからに決まっているだろう」

「そんなことありませんよ」


 至極当然であるかのようにそう話す王太子を見て、フォーリアは諭すように彼の利き手ではないほうの手を握った。王妃教育では、有事の際に備え、王の利き手に自ら触れてはならないとされている。


 日々の鍛錬のためか、筋くれだったその手には、不自然な赤い点……何か太い針が差し込まれたような跡があり、フォーリアは顔をしかめた。


「殿下……これは?」

「医者にされた。かなり仰々しい針で刺されたがまぁ痛くもなんともなかったな。それより、今はお前の話が重要だ」

「……私は、殿下の婚約者です。将来の王の婚約者に手を出そうなんて人間はいませんよ。まぁ、殿下の婚約者だからという理由で、妃の後継を狙う方は令嬢の家は、狙うかもしれませんが……」

「お前は何もわかっていないな。俺はお前にくだらん秋波を向ける男の目からお前を守れないと言っているんだ」

「考えすぎでございます。王妃として恥ずかしくないように、殿下の隣に立ちこの国を支える力添えが出来るよう励んでいるつもりではありますが、私には殿方を魅了する能力は持ち合わせておりません」

「フォーリア……」


 王太子は納得いかない様子で彼女を見た。そして咳ばらいをして、窓のほうに目を向ける。


「それでだ……な、フォーリア。突然なんだが私が完治し、外出の許可が出たら共に王家の別荘に向かってくれないか。学院の休日に……、創立記念で連続の休暇があるだろう。その日に」

「あの王都の南に位置する湖の……?」

「ああ。少しあそこをともに見て回りたいんだ。どうだ? この時期は花もきれいに咲き、湖の中に花が映り込んで見えて中々の景色らしい。……行ってくれるか」

「はい、是非お供させてください」


 フォーリアは柔らかく微笑み、王太子は彼女のうれしそうな様子にほっと胸を撫で下ろし、そして目を細めたのだった。


 しかし、王太子が病から完治して、学校に戻った頃。


 男爵令嬢が二人のクラスに編入し、そして王太子は学級の長であることで、令嬢の教育係に抜擢され忙しい日々を過ごすこととなり、湖近くの別荘に行く約束は自然に流れて行ってしまったののである。


 それどころか、日を重ねるごとに王太子は男爵令嬢に視線を向けるようになった。休憩時間は常にフォーリアの元へ向かっていたのに、令嬢の席へ向かい直々に授業の復習をさせる。しかし昼食の席だけは義務のようにフォーリアと食事をとり、しかし途中で男爵令嬢の元へ向かうことが増えていった。


 よって今日も、フォーリアは昼を王太子と共にしていたが、途中で彼は男爵令嬢にどうしても次の授業で分からないところがあると言われ、令嬢とともに去ってしまったのである。


 一人残されたフォーリアは食堂で昼を済ませ、暗い気持ちでその場を後にした。教室に帰る気もならず彼女が中庭のベンチに向かっていると、聞きなれた声がひそひそと聞こえてきた。


「ねえ、フォーリア様のことは良かったのですか? 置いて行ってしまわれて」

「いいんだ。あいつは一人でも平気なように訓練されている。王妃教育は強靭な精神へと鍛えるものだ。一人食堂に置いて行かれたくらいでどうこう思うくらいなら初めからいらない」

「ええ……酷いじゃないですかぁ。フォーリア様が可哀想です」

「なら、私はここに来なくても良かったのか? 今から戻っても……」

「それはいやです。意地悪しないでくださいっ!」


 男爵令嬢の声と、もう一人……フォーリアが聞き間違えるわけもなく、それは王太子のものであった。その優しく甘やかな、かつて自分にしかかけられていなかったはずの声に、フォーリアの胸が激しく痛み、そして目じりに熱がこめられていく。


 二人は中庭の木々の陰に隠れるようにして、互いを見つめあっていた。


「お前は本当に可愛いな。何度こうして会って話をしても飽きない」

「本当ですか……」

「本当だ。お前との将来を考えるだけで、俺は、フォーリアには抱けない幸せな気持ちを得られるのだから」


 やがて二つの影が重なり合っていく。フォーリアはその光景を見たくはなかった。一秒たりとも視界に入れたくはないはずなのに、足が凍り付いたようにその場を動かなかった。二人は幾度も口づけを交し合ってから、そのまま素知らぬ顔でフォーリアに背を向け教室へと戻っていった。



「――姉さま、姉さまっ」


 肩を揺すり動かされ、聞こえてきた声にフィリーゼがそっと目を開く。視界には義弟であるヴェインが王太子と重なって映り込み、彼女は咄嗟に王太子の名を口にした。


「……姉さま?」


 フィリーゼは、仰け反るように身体を起こしながら荒い呼吸を整えていく。別の名前で呼ばれ不審がるヴェインに、恐る恐るというように問いかけた。


「……なに、どうしてあなたがここにいるの」

「えっと、クレイス様からお手紙をお預かりしてきたので、姉さまにお渡ししようと……それで部屋に来たら返事がなくて、一応開いたらうなされてて、起こそうとしたのですが……」


 ヴェインは申し訳なさそうにしながらフィリーゼに手紙を差し出した。封には確かにシャイニング家の封蝋がしてあり、宛名の筆跡もクレイスのものと一致している。


(まぁ、中身もじっくり調べなければ、信用できたものではないけれど)


 フィリーゼが手紙を傍らに置くと、ヴェインはどこかばつが悪そうな、視線を逸らし何かを隠すように彼女に問いかけた。


「それで……ですね、あの、姉さまにお尋ねしたいことがあるのですが」

「悪いけれど、後にして頂戴。少し一人になりたいの」

「あの、一つだけでいいんです、姉さまは、ヴェレッタ嬢が階段から――」

「出て行って」


 ヴェインの言葉を遮るようにフィリーゼは彼を鋭く睨んだ。そして驚く彼に宣告をするように口を開く。


「悪いけれど、あなたは私を姉さまと呼ぶけれど、私はあなたの姉になったつもりも、あなたの家族になったつもりもないわ。あなたをこのクレイノーツ家に迎え入れることを決定したのは御父様。だから御父様や他の人間の前ではこれまで通りでいいけれど、それ以外は必要以上に関わってくるのはやめて」


 フィリーゼの言葉に、ヴェインは酷く傷ついた顔をした。今にも泣きそうな顔をしながら、どこか諦めたような顔で、無理やり笑みを作ろうとしている。その表情を見ていると、彼女はとても残酷なことをしてしまったような気がして胸が痛み、視線を逸らした。


「ごめんなさい……えっと、ではこれで、失礼します……。お大事に」


 か細いヴェインの声にフィリーゼが目を伏せている間に、彼はそっと彼女の部屋から去っていく。

 扉が閉じる音が聞こえ、足音が小さくなっていくのを待ってから、フィリーゼはため息を吐いたのだった。


◇◇◇


 ヴェインに決別を告げてから翌日、フィリーゼは特に変わりなく、自室の机に向かい勉強をしていた。それは偏に学習意欲の高さではなく、染みついた癖が抜けないことによるものである。


 フィリーゼは、フォーリアとして生きた時、王妃になるため、王太子を支えるために邁進していた。当時の癖が、今のフィリーゼにも染みついてしまっている。前世の記憶が蘇ってすぐは自分の癖が王太子を追いかけているようで何度も勉強道具を壊そうとした彼女であったが、時が経つにつれ現世でもなお王太子に囚われ勉強すらままならない己が嫌になり、今は無心で勉強をすることにしている。


 そんな彼女がペンを動かしていると、ふいに扉がノックされた。返事をすると侍女であり、クレイスが屋敷に来た旨が伝えられる。


「通してちょうだい」


 フィリーゼはそう言ってペンを置き、机の端に寄せていた手紙に視線を向けた。


 昨日、クレイスからフィリーゼ宛に届けられた手紙には、クレイスがクレイノーツの屋敷に、フィリーゼの見舞いに行きたい旨と、もしまだ体調が芳しくないようならヴェインを通して返事をしてほしいというものであった。


 その内容を、フィリーゼは信じていなかった。彼女はクレイスの字ではあると感じたが、持ってきたのはヴェイン。もしかしたらロレインと共に何かを画策し、自分を陥れようとしている可能性を考えたフィリーゼは、何も行動せず様子を見ることにしたのだ。


 屋敷の外で待ち合わせをする約束ならば、そこに暴漢が訪れ自分を襲う、もしくは拉致を企てるかもしれない。もしクレイスの屋敷に呼び出されたならば、全くの嘘でその場で何か断罪か何かをされるかもしれない。しかし、指定された場所はクレイノーツの屋敷、例えクレイスが来なくても、フィリーゼには何の痛みもなかった。

 だからこそ、彼女はクレイスの手紙が本物であることに驚きを感じていた。


(精工に偽造したものだとばかり思っていたけれど……何をする気なのかしら)


 フィリーゼが立ち上がり、身構えるように扉を注視していると、またノックがされクレイスから声がかけられた。返事をすると扉は開かれ、クレイスの姿が現れる。


「お、なんだ元気そうじゃないか。倒れたと聞いたから心配したぞ」


 クレイスは「菓子だ」と言いながら部屋のソファに座る。フィリーゼも机を挟んだソファに座った。やがて侍女が部屋に入ってきて、二人にお茶を入れる。そして出て行ったころ、クレイスが口を開いた。


「で、だ。君はどうやらヴェレッタ嬢に陥れられたみたいじゃないか。ずいぶんと噂になっているぞ。クレイノーツの令嬢がヴェレッタ嬢を突き落としたと」


 その言葉に、フィリーゼは目を見開いた。噂が広がっていることではなく、クレイスが自分を陥れられた、と称したことが、彼女は信じられなかったからだ。


「陥れられた……とは、どういうことです?」

「なんだ? 君は自分が知らず知らずの間にうっかりヴェレッタ嬢を落としたと思っているのか?」

「いえ、そういうわけではありませんが……。クレイス様は私がヴェレッタ嬢を突き落としていないと考えていらっしゃるのですか?」

「当然だろう? 君は衝動的な気性の粗さを持っているわけではないし、ヴェレッタ嬢を突き落とす理由もない。普通殺したいのなら、学院から出て街に差し掛かったあたり、盗賊に襲われたように見せかける」


 クレイスは当然のようにそう話しながらティーカップを手に取った。香りを楽しむ彼を見て、フィリーゼはただただ唖然とする。


「でもまぁ、ほかの生徒……ヴェレッタ嬢を囲む男たちは、そうは思っていないらしいのが問題だな。今はおおよそ学年の半分……程の人間が、君が彼女を階段から突き落としたと考えてしまっている。俺が否定しても、皆俺を説得する始末だ」

「そうですか……」


 フィリーゼは目を伏せる。誰にも信じてもらえないだろうことは、彼女は覚悟していた。しかしクレイスが突き落としたと考えていないこと、そして学年の半分の生徒も自分を疑っていないことは想定しておらず、どう反応していいか彼女はわからなくなったのだ。


「……クレイス様は、てっきりロレイン様を突き落としたと私を責めにくるのだとばかり思っていました」

「何でまた?」

「……幼い頃、共に過ごしていたのでしょう?」


 フィリーゼの言葉に、クレイスが僅かに視線を逸らした。そしてまた彼女に視線を合わせ「昔は、な」と呟く。


「私は、別にあなたに想い人がいようと、干渉は致しません。元々結婚とは家同士の契り。第二夫人としてお二人で本宅にお住みになって、私が別宅で暮らすことも構いませんよ」


 フィリーゼはそう話しながら、フォーリアであったときならば絶対に言えない言葉であったろうなと思った。


 生前フォーリアは気性も穏やかなものであったが、王太子が男爵令嬢と共に過ごすところを見たとき、痛みを覚え冷静でいられなくなっていた。


 それは怒りに身を任せ行動するとは逆の悲しみに暮れ塞ぎ込むものであり、他者を傷つけるものではなかったがフィリーゼは恥と捉えている。


 しかし、真剣に話すフィリーゼに対し「それはないな」とクレイスは即座に答えた。


「そんな醜聞になるような真似、一生しない。男は妾を沢山持つのが甲斐性という声も確かにあるが、それは昔だ。社交界も今は夫人が男を操っているも同然だ。夫人たちの標的になるような真似、馬鹿のすることだ」

「ですが……」

「俺は宰相にならなければいけない。目的が達成されるまでそもそも人に興味は持てない。まぁそれだと君も含めて、とはなってしまうが……。そして宰相になった後も、その地位を揺るがされてはならない。人を信じさせる印象として妻に一途は中々効果が期待できる武器だ」

「クレイス様……」

「それに、君が人を突き落とすほどの生気を得るほうが、俺は好ましいと思っているくらいだからな」

「え……?」

「君は、何というか思い詰めているだろう。同じような目をした戦終わりの軍人を、何人か見たことがある。長い戦いを終え張りつめた気持ちが抜けず、楽しみもなく死んだように暮らし、最後には自死を図る」


 クレイスが真っすぐな瞳でフィリーゼを見つめた。彼女は自分の心の内を見透かされたような気がして、すぐに目を伏せた。


「俺たちはまだ生まれて間もない。何百という年月を経てならまだしも、自ら死ぬことはできない。かといって君の今の精神状態が健全とは思えない」


 吸血鬼は、種族の中では不死身ではないと認識されている。人間たちは不死身と考えているが、とある儀式を経ない限り、死ぬことはある。しかしそれは吸血鬼の寿命を迎えたころの話で、おおよそ四百年の時を巡らない限りは、王家に伝わるとされる呪具を用いらない限り死ぬことができない。


 フィリーゼの母は、自分の死期を知っていた。それでも自分と恋に落ち、フィリーゼを設けることになったんだとフィリーゼの父……クレイノーツ公爵が話をしていたことを、彼女はよく覚えている。


 奇跡の子――そう言われ育てられてもなお、フィリーゼの瞼には、フォーリアだった頃に自分から逃げていく家族の姿が焼き付いて離れない。


「そうかしら」

「ああ。君は憎むでも、怒りを持つでも何でもいい。今持っている以外の感情を持ったほうがいいと俺は思う」


 クレイスはそう言ってから時計を確認すると、「そろそろ時間だ」と言って立ち上がった。ゆっくり滞在する時間はそもそも無かったのだろう。慌てて上掛けを羽織ると、「失礼する」と言ってフィリーゼに笑いかけた。


「今日はありがとうございました。せめて玄関までお送りします」

「……そうか? すまないな」


 クレイスが頷く。二人はともにフィリーゼの部屋から出て玄関ホールへ向かっていると、階段の下、客間のほうへ進んでいく二つの人影が見えた。一人は紺色の髪をした青年――ヴェイン、もう一人は――。


「何故ここにヴェレッタ嬢がいるんだ?」


 首をかしげるクレイスに、フィリーゼは何も言葉を返せなかった。ロレインが屋敷に来た。


 今日は公爵こそいないものの、一度訪れてしまえば、ヴェインを経由して公爵に会うよう取り図られることは想像に容易い。


 今は何も知らない公爵であっても、ロレインやヴェインから今フィリーゼが休むにあたったことを聞いて、自分を追い出しにかかるかもしれない。


 今までは、優しかった。けれど前世の婚約者だって、今までは優しかったのだ。そしてある時から自分に苛烈にあたるようになった。


 フィリーゼは足を止め、じっと床を睨む。するとクレイスは驚いた顔をした。


「なんだ。そんな顔も出来るんじゃないか」

「え?」

「君は怒りを持てる。怒りに支配されることは決していいことじゃないが、怒りは労力を使う。少し安心した」


 ふっとクレイスは笑ってそのまま進んでいく。このままでは二人に見つかる。そう考えたフィリーゼは止めようとするが、すぐにロレインが振り返り、クレイスとフィリーゼの姿を見つけた。


「クレイス様……。クレイノーツ嬢」


 ロレインの声にすぐさま反応した様子のヴェインも振り返り、二人が並ぶ姿を見て驚き、すぐに傷ついた顔をした。フィリーゼは何故そんな顔をされなければならないのか、焦燥にも苛立ちにも似た感情を覚え二人を見下ろす。


「ごきげんようヴェレッタ嬢。こんなところで会うとは。君はヴェインくんに用かな?」

「ええ……、貴方はクレイノーツ嬢に?」

「そうだ。彼女は自分が君を落としたのだと言われて気を落としていてね。励ましに来たんだ」


 ロレインにそう言ってのけるクレイスにフィリーゼは驚いた。以前、クレイスはロレイン、と彼女を呼び捨てにして呟いたこともあるし、そもそも幼馴染同士で、フィリーゼよりずっと親交があったはずだ。にもかかわらずまさかここまで面と向かってクレイスが自分の味方をするような発言をするなんて。混乱するフィリーゼの一方で、ロレインは余裕を見せる笑みを浮かべた。


「まぁ。それでは何だか私が悪者みたいではないですか?」

「そんなことはないさ。少なくとも現時点で学園の半数の人間は君がフィリーゼ嬢に落とされたと誤解してしまっているからなあ」

「誤解……、クレイス様もそうお思いで?」

「当然だ。フィリーゼ嬢はそんなことはしない」


 ロレインとクレイス。二人の間に形容しがたい空気が流れた。今まで一度も感じたことのないクレイスの雰囲気に、フィリーゼは違和感を覚えながら二人を見つめる。


「悲しいですわね」


 沈黙を破ったのはロレインだった。彼女は息を吐くと自嘲的な笑みを浮かべ、「ごきげんよう」と礼をし客間へと向かっていく。しかしクレイスは彼女の歩みを止めるように「ヴェレッタ嬢」と声をかけた。


「お前は何を隠している。目的はなんだ」

「そんなの、貴方がよく御存知でしょう? クレイス様」


 くすっと笑ってロレインは客間へと入っていく。はっとした様子のヴェインが慌てて彼女の後を追って客間へと入っていった。クレイスは、ゆっくりとフィリーゼに振り返る。


「幼馴染で、何でも分かりあう間柄というのは、もう終わったんだが」


 その声は穏やかで、そしてどこか寂しげだ。


「そうでしょうか」

「ああ。もう今は何を考えているかさっぱりわからない。良からぬことであることは確かだろうけどな」


 フィリーゼは気さくに話をするクレイスの話を聞きながらも、その声色からロレインと彼の絆のようなものを強く感じた。フィリーゼそのまま特に追及をすることはせず、彼を見送ったのだった。



「調子はどうだいフィリーゼ」


 クレイスが来訪したその日。給士によって夕食の支度がされていくのを眺めるフィリーゼの元へクレイノーツ公爵が訪れた。フィリーゼが上体だけを起こしている寝台近くの椅子に座ると、労わるような視線を向けた。


「痛いところができたりしていないか」

「はい」

「そうか。ならいいんだ」


 どことなく気まずい空気が流れていく。いつも食事をとるときなど、クレイノーツ公爵はことあるごとにフィリーゼに話しかけ、淡白な返答を繰り返されていても気にするそぶりを全く見せないが、今日はどこか演技がかったように明るく振舞い、彼女に声をかけていた。


「……何か、出席しなければならないパーティーが開かれるのでしょうか。でしたら私は――」

「そういうわけではないんだ。……その、しばらくお前は別荘に行ったほうがいいと思うんだ。西のほうに、湖の静養地があるだろう。七日くらいそこで過ごして、街や学園から離れてみないか」


 クレイノーツ公爵の提案にフィリーゼは言葉を失った。フィリーゼがロレインを突き落としたのだと、きっとヴェイン、もしくはロレインから公爵は知らされ、そしてその言葉を信じたのだ。今日、ロレインが屋敷を出て、しばらくしてから公爵は屋敷に戻った。その間ヴェインが公爵と接触するか注意を向けていたが、ヴェインは夕食前には戻るとすぐに屋敷を出てしまっていた。


 だから、公爵が二人から噂について聞き入れることは、少なくとも今日ではないとフィリーゼは考えていた。


「……仰せのままに」

「よかった。私も休みを取ったんだ。親子三人でゆっくり過ごそう」


 また、フィリーゼは公爵の言葉に唖然とした。彼女は一人で別荘に向かい、謹慎の処分を受けるのだとばかり思っていた。しかし公爵は「釣りが出来るらしいから、釣った魚を食べてみるのもいいかもしれない」などとまるで休暇を過ごすかのように話を進めていく。


「では、明日の朝にでも発とう」


 クレイノーツ公爵は笑みを浮かべ、部屋を後にしていく。フィリーゼは茫然としたままその背中を見つめていた。


◇◇◇


 出発の日、クレイノーツ公爵の提案でフィリーゼとヴェインは、揃えるように深い海の底のような色の装いに統一されていた。


「実は、今から行くのは新しい別荘なんだ。前の場所も良かったんだが、新しい別荘のほうがいいかと思って」


 静養地の別荘がある場所へと走る馬車の中で、クレイノーツ公爵は明朗な笑みを浮かべた。公爵を前にヴェインは気遣う顔でフィリーゼを見ていて、かつて自分を裏切った王子と似た瞳に、彼女は心を静かに暗くしていく。


「あ、あの、姉さまはお魚、好きですか」

「……好きよ」


 短く答えると、公爵が「そうなんだよ、フィリーゼは肉より魚派なんだ」と、健気にフィリーゼの話に付け足す。それが居た堪れなくなって、彼女は静かに目を伏せ、とうとう寝たふりをしてしまったのだった。


「フィリーゼ、起きなさい。別荘についたから、寝るなら寝台にしよう?」


 とんとん、と規則的に肩を叩かれ、フィリーゼは微睡みからはっと目を開いた。公爵が困ったように笑い自分の顔を覗き込んでいて、かなり寝過ごしてしまったのだと彼女は慌てて姿勢を正す。ふと車窓に目を向ければ、花々が咲き乱れる丘が見えて、しんと背筋が凍った。


「さぁ、景色が最高なんだ。フィリーゼ、ヴェイン、ほら」


 先に降り立ったクレイノーツ公爵に続いて、ヴェインが降りた。先日、フィリーゼは敵対宣言をしたはずのヴェインは、そんなことなかったかのように馬車を降りようとする姉へ左の手をのばす。


「……ありがとう」


 クレイノーツ公爵が見ている以上、遊戯にも似たそれは、続けなくてはならない。フィリーゼは凍えた手でヴェインの左手を掴んだ。かつての王子の手も、こんな風に熱いものであったと彼女は静かに思う。


(この手首をいっそ、ここで切り落としてしまえたら……。いえ、そうしたところで、いったい何になるのか。私は、どうしたいのか)


 フィリーゼは「ありがとう」と、微笑んでみせた。今の彼女にはそれしかできない。その笑みに、ヴェインは苦しげに俯く。そうして静養地へと降り立ち、視界に入ってきた光景に愕然とした。


「実は、王家がかつて静養の場にしていたところをお願いして買ったんだ。花の景色が特に素晴らしくてな、夜には自分の身を光らせる蝶が飛んで、それはそれは幻想的らしい。どうだ、気に入ってくれたか」


 そうして、公爵は娘と息子が喜んでくれるに違いないと、確信するような目で花畑へと進んでいく。しかし、フィリーゼの足は止まったままだ。不思議に思ったヴェインがじっと見つめてもなお、彼女はその視線から逃れることすら出来なかった。


(ああ、ここは)


 王都から、南に外れたその場所。クレイノーツ公爵が購入したその別荘地は、遥か昔、王太子がフォーリアを喚び出し愛を伝え、初めて口づけを交わした因縁とも呼ばれる地であった。


◇◇◇


 大輪と小ぶりの花々が重なり合うように咲き乱れ、空を反射する鏡面の湖を囲うその地は、花の都と呼ばれている。さらに花々を囲うようにその周りはいくつもの崖と深い木々が連なっていて、その景色の貴重さと危険性もあいまって、王家の者のみが出入りを許されていた。


 年に一度だけ、選ばれた画家のみが立ち入りを許され、景色を画板のみに留めることが出来る。そうして描かれた景色は「極彩色の幻景」と呼ばれ、一枚の絵に領地を手放すものもいると言われるほど。その景色を独占できる王家はみな、そこで将来の妃と夫婦の肖像画を描かせたり、婚姻を結んだ周年の祝いをひっそりと行う。


 そして、かつての王太子はといえば、フォーリアの十五歳の誕生の日にここへ連れていき、彼女に永遠の誓いを立てた。騎士が忠誠を誓うように、純白のドレスのもとひざまずき、宣誓したのだ。その瞳には間違いなくフォーリアしか映っていなかった。


「君がいれば、何もいらない。俺がいらなくなったら殺してくれ。その後君が他の誰かと結婚して幸せになり、いずれ死の淵にたったその時は、この短剣を棺に入れてくれ」


 愛を誓った後そんな物騒な言葉を伝えて、左の薬指に指輪をはめた手にナイフを渡してきた王太子を、当時フォーリアは困った様子で「そんなことありえません」と、首を横に振った。しかし王太子は真剣で、しばらくフォーリアを見つめ、口づけを交わしたのだ。


 貞淑さを求められていたフォーリアと王太子は、互いを抱きしめることすら出来なかった。手を繋ぐことすらままならず、それも国の前に立つものとして覚悟していた。


 しかし花の都には、護衛は入ってこられない。咎める者もいなかった。だから花畑で手をつないで一緒に景色を見たり、顔を近づけ空を眺めたりして、ふたりは想い人同士としての時間を過ごした。

 

 だからこそ、それから時が何百と過ぎた今、フィリーゼは死んだような顔で釣りをしていた。湖の周囲の特殊な性質上、湖の魚は釣られることなくふっくらしているというクレイノーツ公爵の主張によって三人は釣りをすることになった。湖のそばには公爵が建てた別荘もあり、彼女は釣りをしながらじっと眺める。


 本来ならば、フィリーゼは別荘にいて、釣りをする公爵とヴェインを見送りたかった。しかしわざわざクレイノーツ公爵は花の都を買い、別荘を建てるほど自分に気を揉んでいたのかと、彼女は申し訳なく思ったのだ。それに、寝台に伏せている時にヴェインに何かしらをされたらたまったものではないと、疑って。


(サンドイッチもクッキーも、毒が入っていなかった。その二つで油断させて、今度こそ本命として何かをする気かもしれないわ)


 フィリーゼはヴェインと相打ちになってもいい覚悟が出来ようとしていた。ヴェインがロレインと共謀を始めた以上、自分の身どころかクレイノーツ公爵の身だって危なくなってくる。かつての状況と異なり、あの男爵令嬢の生まれ変わりであろうロレインとヴェインに、恋の壁は存在していない。それでもなお自分を陥れようとするのは、憎さゆえだ。そう結論づけたフィリーゼは、湖に釣り糸を垂らしながら燻るような殺意に身を焦がしていく。


(ほうっておいてくれればいいのに。自分たちふたりだけで、かけおちでもしていればいいものを……)


 隣に座りのん気に釣りをするヴェインを、フィリーゼが静かに見つめる。その横顔はあどけないが、瞳だけはかつての王太子のものだ。声の出し方、呼吸、温度の何もかもが憎らしくて、苦しい。彼女が激情をさとられないよう視線をそらすと、クレイノーツ公爵が「おっ」と声を出した。


「釣れそうだ! いや落ちそうだ! わたしが!」


 ぴんと公爵の釣り糸は湖に向って糸をはり強い力で引きつけられ、公爵は湖の底へと落ちそうになってしまっている。フィリーゼは慌てて公爵を押さえた。今日は、護衛たちも侍女たちも、公爵が花の都の森に待機させてしまった。それは偏にフィリーゼの心が安らぐよう、常に気を張り詰めて生活している娘を想ってのことだったが、当の娘であるフィリーゼは渾身の力で公爵を支えていた。


「こ、公爵」


 ヴェインも慌てて加勢する。そうして二人が意図せず力を合わせてクレイノーツ公爵を引っ張り込むと、大きな魚とともにぽん、公爵は後ろに反り返った。勢いのまま、押しつぶされるように三人は花畑に着地した。ふわっと花びらが舞ったかと思えば、釣り上げた大魚が公爵の顔に落ちる。


「うわわ」


 クレイノーツ公爵はさっと魚を掴むと、「目がやられた、いやかなりの大魚じゃないか!」と目を見開いた。公爵はたしかに子供の身の丈ほどの魚を手にしており、期待の目でフィリーゼやヴェインを見た。その瞳の無邪気さに、フィリーゼはくすりと笑ってしまった。


「なぁ、大きいだろう魚!」


 久方ぶりの娘の笑顔に気を良くしたクレイノーツ公爵は、嬉々として魚を抱える。生きの良い魚はびたびたと背びれを動かし、飛沫をあげた。あまりの惨状にヴェインは慌てながらも、フィリーゼの口元が弧を描いていることにハッとした。けれどすぐに「何か大きな入れ物を持ってきます!」と、別荘へ駈けたのだった。


◇◇◇


 クレイノーツ公爵は、亡き妻を愛していた。彼女が天寿をまっとうしてからは、娘であるフィリーゼの庇護の情をよりいっそう強くした。だからこそ、ヴェインをフィリーゼの義弟として迎え入れることへの躊躇いは、たしかにあった。


 今まで公爵は、フィリーゼが嫁にもらわれクレイノーツ家がなくなってしまってもいいと想っていたが、ヴェインの暮らしを偶然垣間見た時、もし自分が死に絶えフィリーゼの後ろ盾が無くなった時、クレイノーツ家を残していたほうがいいと思い至ったのだ。そうしたら、もしも自分が死んで、シャイニング家にフィリーゼが居づらくなってしまった時、フィリーゼの帰る家がある。だから公爵は自分に感謝をするヴェインに、いつかフィリーゼが困った時、助けて欲しいと願った。自分は永くないからと。


「さぁ出来たぞ〜!」


 覚悟を持って別荘へ向かったクレイノーツ公爵は今、釣り上げた魚を自分の娘、そして息子にもてなそうとしていた。公爵はある程度、料理の心得がある。亡き妻が残してくれた贈り物のひとつに、料理の手習い本があったからだ。


 どん、と音を立て大皿に持った焼き魚と煮魚に、フィリーゼとヴェインは目を丸くした。周りにはとりわけの小皿もない。ただフォークが並ぶばかりだ。そんな二人に、クレイノーツ公爵は歯を見せて笑った。


「この間、同じ皿で料理を食べる文化があると知ったんだ。家族としての儀式みたいなものらしい。それを知ってからやりたくてな。ほら、食べてくれ」


 公爵の笑顔に、フィリーゼはどことなく違和感を覚えながら神に祈りを捧げ、フォークを手にとった。フィリーゼが口にするのを見てから、ヴェインもおそるおそる魚にフォークを向けていく。


「美味しいですわ」

「僕も、好きです……」


 どことなくぎこちない二人に、くしゃりとクレイノーツ公爵は笑って席につく。一方フィリーゼは、魚を口にしながら今後について考えていた。


(ヴェインを、殺そう)


 今はまだ、学園の争乱のほとぼりが冷めていない。クレイスが味方かは分からないが、これから先一生ヴェインに苦しめられる未来を思うと、それが最も正しい選択だとフィリーゼは思う。ロレインの存在も気がかりだが、ヴェインは家の中にいる。人間であるヴェインは、吸血鬼である自分も自分の父親も殺すことは出来ない。


 フォーリアを殺すために生まれた呪具は、吸血鬼に対する対抗策として王家が保管している。それを持ち出さない限り、自分たちを害することは不可能だが、これから先公爵家の地位を手にし、義姉をシャイニングの妃に持ったヴェインに、呪具と関わる機会がないとは言い切れない。


(いっそのこと、勝手に死んでくれればいいのに)


 そうしたら、わざわざ自分が証拠を隠すために動いたり、周囲の環境や時を見ずに済む。こんなにも心をかき乱されるはずがない。フィリーゼは魚を美味しいと頬張るヴェインを横目に見た後、クレイノーツ公爵の笑顔に視線を向け、そっと決意を固くしたのだった。


◇◇◇


 クレイノーツ家が別荘へと向かった晩、公爵の「夜になったら湖の景色を見よう」との願いは、霧雨によって潰えてしまった。窓の外は静かな雨音が叩き、夜に舞うと言われている灯りの蝶が回遊する隙はない。残念そうな公爵やどこか暗い顔をするヴェインと分かれ、フィリーゼは自分に与えられた部屋で静かに目を伏せていた。


(殺すことを決めたら、気持ちが楽になった)


 今まで、どうして殺そうと思わなかったのか。フィリーゼは不思議に思った。最初から、殺してしまえばよかった。それこそ学園でまだロレインが周囲を掌握していない頃、手にかけていればこんなことにはならなかった。後悔を繰り返す彼女に、ふと別の部屋でなにかを漁る音が響いた。


 彼女はすぐさま起き上がり、夜着のまま部屋をそっと抜け出す。物音を立てないよう別荘の廊下を進んで、彼女は台所の棚をあさる影に目を見開いた。


「なに……」


 そこには、血を詰めたワイン瓶の籠をくわえる一匹の鴉がいた。鴉はフィリーゼに気づくとすぐさま窓から飛び立ってしまう。ワイン瓶は、クレイノーツ公爵やフィリーゼが生きるために飲むものだ。予備も含め多めに持ってきたそれが籠ごと持ち出されてしまえば、彼女も公爵も最終的には死んでしまう。彼女が慌てて鴉を追いかけ外に出ると、鴉は飛び立つこと無くフィリーゼから僅かに離れた場所で、嘲笑うように旋回していた。


「待ちなさい!」


 フィリーゼが駈けていくと、ゆるやかな速度で鴉は飛び立っていく。吸血鬼としての力によって速度を上げても追いつけはしないが、見失うほどでもない。やがて周囲は花畑から岩場に変わり、足場もぬかるんで悪いものへと移ろいでいった。


(あの瓶がなければ……!)


 フィリーゼは、血を生きるために飲んでいる。血を飲んだ直後は血を全く飲んでいない絶血状態より大幅に体力を強化され、速く走り回れる。


 しかし、もとより人間の身体能力から外れた吸血鬼にとっては、微々たる差でしかなく、あまり強さに興味がない彼女は定期的に、死なない程度の摂取でおさめていた。


 それはクレイノーツ公爵家も同じで、十日血を絶やせば死ぬからと、六日おきに血をとっていた。そして今日は五日目。明日飲めなければ、徐々に危機状態に陥ってしまう。さらに花の都は人の住まう領域からは離れており、死体が都合よく手に入るとは限らない。吸血鬼の知り合いを頼りにするにも、時間がかかりすぎる。


「待ちなさいっ!」


 フィリーゼは怒鳴るように鴉めがけて岩肌を蹴った。しかし、鴉は突然彼女へ向けて突進する。


「……っ」


 体勢を変えたことでフィリーゼの着地点が変わった。彼女が足をつけた場所は木の枝だが、踏み込みが強すぎたことで枝は折れ、そのまま彼女の身体は木々により隠れていた崖下へと落ちていく。寸前で彼女が傍にあった岩場に手をかけると、すぐにヴェインの声が響いた。


「姉さま?」


 フィリーゼは、聞こえてきた声に大きく目を見開く。フィリーゼの掴んだ岩場のすぐ上に立つヴェインは、慌てて彼女に左手を伸ばした。


「姉さま! なにしてるんですか! はやくこの手を取ってください!」


 崖から飛び降りてまで彼女を救おうとしているヴェインの姿に、フィリーゼは目を見開いた。彼女がとっさに岩場を掴んでいた手を放すと、ヴェインの絶叫が響く。


(どうせ、吸血鬼は死なないあの場にいるよりはいいはず)


 フィリーゼは、頭上を悠々と旋回する鴉とは対象的に崖下へと落下していく。彼女はそのまま暗闇の底へと落ちていったのだった。


◇◇◇



「っ……」


 ずきずきとした鈍い痛みを腹部に感じながら、フィリーゼは目を覚ました。彼女が倒れていた場所はたまたま岩場が吐出している場所で、彼女の下には森の木々が広がっている。自分の身体のあちこちからは血が流れ、挙句の果てに薄い腹には人間では死に至っていたであろう枝が刺さっており、彼女は溜息を吐いた。そしてその動作すら痛みを伴い、やるせない気持ちで頭上を見上げる。


 フィリーゼが落下したところからは、そう離れてはいない。普段であったら登ることなど容易そうな高さでも、枝が刺さっているというだけで、身体は言うことを聞かない。彼女は周囲を見渡し、霧雨の中立ち上がった。


(血が飲みたい)


 身体から血を失ったことで、人間が汗をかき水を欲するように、喉が乾いていく。彼女が拳を握りしめていると、土砂が滑るような音とともにひときわ大きな水しぶきが振ってきた。


「――え、――姉さまっ」


 その声はフィリーゼの元へと近づいていく。彼女が見上げると、岩場の比較的角度が緩やかな場所から、ヴェインが少しずつこちらに向かって降りようとしているところだった。


「姉さま! いま助けにいきます!」


 そう叫ぶヴェインの声を聴き、フィリーゼは後ずさった。まるで以前、校舎に閉じ込められた時のようだと思う間に、ヴェインはすぐそばに着地した。するとそのまま、フィリーゼの肩に触れた。


「姉さま、こんな……っ、こんな怪我をして……! はやく、上にのぼって見てもらわないと、姉さまっ姉さまっ」

「私は吸血鬼よ。死にはしないわ」

「で、でもこんな、枝が身体に刺さって……!」


 ヴェインの泣きそうな声に苛立ったフィリーゼは、面倒になり自分の身体から枝を引き抜き、そのまま崖下へと放り投げた。それは激痛を伴うものだったが、血液の瓶を奪われたこと、怪我をしていること、ヴェインが目の前に、自分を助けに現れたことがないまぜになって、もうどうでもいいと思ったのだ。しかし、ヴェインは怒鳴るように「姉さま」とまた叫んだ後、慌ててフィリーゼの腹を押さえた。


「どうして! どうしてこんなことをするんですか! こんな……、自分を傷つけるような真似……!」

「貴方に関係ないでしょう」

「関係あります!」


 そう言って、ヴェインは自分の服を脱ぐと、フィリーゼの腹部に巻きつけた。強く止血するような動作に、フィリーゼはあっけにとられる。ヴェインは今度は服の上からフィリーゼのお腹を押さえ、まるで自分が刺されて、血を吐くかのように呟いた。


「姉さまのこと、好きなんです……初めて会ったときから……貴女しかいないと思った。貴女のことが好きです……ぼくは、姉さまが好きなんです。たとえ、姉さまが僕を通して誰かを見ていても、気持ちが抑えられないんです」

「え……」


 フィリーゼは、ヴェインの言葉に時が止まった錯覚をした。自分を通して、誰かを見ている。その言葉は、ヴェインが王太子の記憶を持っていない可能性を、より強く示すものだった。フィリーゼが呆然としていると、彼女を助けようと傷だらけになって崖を降りたヴェインが、彼女の視界に大きく映る。


「僕を通して誰かを憎むなら、僕を憎んでください。僕は、貴女が好きなんです。好きで好きで、もう、どうしようもないんです。貴女が救われるなら、死んだっていい」


 懇願の声に、フィリーゼは目を見開く。あたりは霧雨が包み、雨音があるはずなのにフィリーゼの世界から周囲の音は消えていた。

宣伝欄


●2025年10月1日全編書き下ろし7巻&8巻発売

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