歌劇場サロンにて【コミックス③発売記念SS】
(時系列は第二章37話「幕が下りて」の頃)
ミランダ視点
昼公演の終幕近く。緞帳が下りるよりだいぶ先に、ミランダとヘイワード侯爵夫人は席を立った。
舞台が気に入らなかったのではない。見終わった客で通路が混雑する前に、フィオナとジャイルズがいるボックス席へ向かうためだ。
「一幕の最後のアリアが一番聞き応えがありましたわね。大叔母様も楽しんでいただけまして?」
「ええ、とっても。あの歌い手さんはお若いから将来も楽しみねえ」
ホールからの音楽が続く中、朗らかに話しながら進む――が、ヘイワード家の専用サロンに入ると、ミランダは無人の室内を見回して雰囲気を一変させた。
閉じられたままの観覧席へ通じる扉をキッと睨んで、大きく息を吐く。
「……結局、最後まで籠もりきりなのね。ジルはなにをしているのよ、まったく!」
腹立ちを隠さないミランダに、ヘイワード夫人はいつも通りの楽しそうな笑みを浮かべる。
「うふふ、夢も見ないでぐっすり……じゃないかしら」
「自分だけならいいのよ? でも、フィオナさんが一緒なのに。私たちがこうして何度も足を運んであげなければ、どんな噂が立ったかしれないわ」
劇場そのものはオープンスペースだが、ボックス席やその前室のサロンは関係者のみが入れる場所だ。
幕間になっても表に出てこず、閉じこもっている若い男女が周囲からどう思われるかなど考えるまでもない。
眠り込んでいるだけなのは実際に見て知っている、だが真実など関係ない。噂とはそういうものだ。
そして、悪評が立つのはいつも令嬢の側。いくら社交から距離を置いているジャイルズだって、その程度のことは理解しているはずだった。
(それなのに、もう!)
この中央歌劇場は観劇のための場所だが、同時に格式高い社交場でもある。高位貴族ばかりが利用するボックス席のフロアを、男爵令嬢のフィオナが一人で悠々と歩けるわけがない。
だからこそ、ジャイルズが連れ出さなければならなかった。
結婚も、その前段階である交際も見合いも、ジャイルズはこれまで避けに避けてきた。
どんな心境の変化があったのかは分からないが、付き合うことにしたのなら相手のことは最低限守るべきだろう。
(それに、会話が弾んで時間を忘れて……なら可愛げがあるのに、単に寝ているだけなんて)
なんてぱっとしない理由だ。つまらないったらない。付き合いたての恋人同士なのだから、もっとこう、なにかあるだろう。
(せっかく可愛くドレスアップもさせたのに)
姉と大叔母の前だということも忘れて見蕩れたくせに、「以上、終わり!」なのは恋人としていかがなものか、とそのあたりも問い詰めたい。レディの身支度を軽んじてはいけないのだ。
そもそも、ミランダはまったくの善意で世話を焼いたわけではない。
弟の恋人というだけで無条件で歓迎するような博愛主義者ではないし、たとえ不本意な噂が立ったとしても潰されるならそれまで。貴族である以上は自力で対処すべきである。
しかし、フィオナには贋作詐欺の件で恩があった。
直接礼を言いたいと頼んでも、ジャイルズは「そのうちに」と流すばかりで一向に会う機会を作らない。
だから、ヘイワード家に置かれたと聞いて急ぎ訪れたのだ。
強引にでも連れ出したのは、身を隠すよりも顔を売った方がゴードンやサックウィル卿への牽制になるから。
礼を言いたかったのも本当だし、野次馬的な興味がなかったとは言えないが、なにより安全のためであった。
それなのに、ジャイルズの手落ちでフィオナが噂の餌食になったらやりきれないではないか。
「……どうしてくれようかしら」
「あらあら、ミランダったら。お手柔らかにね」
必要以上に強く扇を握りしめるミランダに、ヘイワード夫人はやはり楽しそうに微笑む。
「大叔母様はジルに甘くないかしら」
「そうねえ、でもジャイルズは例の件であちこちに顔を出していたのよね。昨夜はほとんど眠れていないのだから、多少は仕方ないのではなくて?」
「そ……れは、そうね」
いつものトーンで言われると、怒りの熱が少し落ち着く。
ジャイルズが寝る間もないほど忙しくなったのは、ミランダも引っかかりそうになった贋作詐欺がただの詐欺ではなく、政争が絡むものと判明したからだ。
ミランダの婚家であるコレット侯爵家も巻き込まれるはずだったそれを防ぎ、今は逆に政敵を討つために動いている。
ミランダは宮廷政治に直接関われない。派閥と家門の一大事であるのに、夫や弟にばかり負担が掛かっている負い目はあった。
「さっきも顔色があまり良くなかったでしょう。倒れてしまう前に、公演を見ながら休憩するほうがいいわ」
「顔色? そうだったかしら」
「ふふ、それどころじゃなく慌てて飛び込んできましたからねえ」
(……そういえば、私が覗いても起きなかったわね)
ジャイルズは実父に似て眠りが浅く、気配に敏感なタイプである。前室のサロンにミランダたちが来たら気づいて目を覚ますはずで、寝入ったままというのは相当に珍しい。
そもそも、たとえ区切られていても劇場には大勢の観客がいる。そんなところでは居眠りだってしないはずだ。
あまつさえ誰かが隣にいる状態で、なんならその相手ににもたれかかって眠るだなんて。
(ジルにとって彼女は警戒の対象ではないのね)
むしろ隣で熟睡できるほど気を許しているのだろう。
交際を始めてまだ日が浅いが、こういうことに付き合いの年数はあまり関係ないものだ。
生まれてからずっと一緒に暮らしている家族でも、その人の前ではくつろげない場合もあるのだから。
(……相性が良い、ということかしら)
ふと、両親から盛大に反対された自分の結婚を思い出す。
夫のコレット侯爵は申し分のない人物であるが、ミランダの結婚相手としては歳が上すぎた。同年代の令息との婚約話が持ち上がりかけていただけに、さんざん思い直すよう言われた。
そんな中、ジャイルズだけは姉の結婚に一度も反対しなかった。
――姉上の好きにしたらいいでしょう。世間体や立て前を優先したところで、納得していないなら不幸になるに決まっています――
揉めたところで意味が無い、と言わんばかりの口調だった。
淡々とした弟の態度が心強くて、渋る両親を辛抱強く説得することができたのだ。
ジャイルズはただ思ったことを言っただけで、姉を庇ったり、恩を売ったりするつもりはなかっただろう。
だからこそ、ミランダ自身の意志を尊重されているように感じて嬉しかったのだ。
当時の自分のやり方はスマートでなかったと反省している。
根回しも下準備もなしに、いきなり「結婚したい人がいる」なんて親に告げるのは失策でしかないのに、あの時はそれが分からなかった。
相手を恋しく想うことばかりに意識が向いて、視野が狭くなっていたのだ。
(あら……そういうこと?)
恋をして、初めて素の自分というものを見つけた気がした。
それまでの経験が何の役にも立たないことに戸惑って、藻掻いて――今のジャイルズは、あの頃の自分と同じなのかもしれない。
「ああほら、終わったようですよ」
「あ……ええ」
「うふふ、ゆっくりできたかしら」
考え込んでいるうちに、舞台の幕が下りたらしい。
ホールからは割れんばかりの歓声が湧いている。カーテンコールの前にはジャイルズたちも席を立って出てくるだろう。
(仕方ないわね。ジルにはひとつ貸し……いえ、借りを返したことにしましょうか)
「……それでも。ひと言くらいは文句を言わせてもらいますわ」
「ええ、ええ。そのくらいはね」
ミランダはそう宣言して、間もなく開くだろう扉前に陣取った。
お読みいただきありがとうございます!
『運命の恋人は期限付き』紫藤むらさき先生のコミックス第3巻が本日2025/8/28、発売になりました!
発売を記念して、コミックスの時系列に合わせたSSを投稿しました。
本編にはない第三者視点、書籍とあわせてお楽しみいただけたら嬉しいです。
漫画:紫藤むらさき先生
レーベル:ライドコミックス(マイクロマガジン社)
ISBN:9784867168240
今巻も美しいカバーです…!
【お知らせ】
同じく本日、『レンズ越し、たった一度の恋をする〜失踪令嬢とカメラマン〜』(漫画:颯壱幸先生)第2巻も発売になりました!
同日発売を記念してフェアや全プレキャンペーンも開催されます、どうぞよろしくお願いいたします。
詳しくは作者活動報告やSNS、個人サイトをご覧ください。




