野原のアリア【ノベル①配信記念SS】
時系列は前話「星月夜に花の名を」の続き。
本編36話「歌劇場ボックス席」、カーテンコール「幼なじみの恋事情(下)」とあわせてご覧いただくと、より楽しいかと思います。
よく晴れた昼下がり、フィオナ達は借りている住まいから馬車でしばらくの距離にある町に来ていた。
爽やかな風が通り抜ける丘陵地は、特別目を引く何かがあるわけではない。
観光には適さないが、雰囲気のいい景色と多彩な植生がスケッチにうってつけで、レジナルドと何度か訪れている場所だ。
「いいところだな。よく来るのか?」
「はい、時々」
野原の一角にある木陰に敷物を広げ、先ほどまでランチを摂っていた。
日差しは強いが、青々と葉を茂らせるオークの下は涼しく、風に揺れる木漏れ日が美しい。
今いるこの丘からは、遠くの葡萄園まで見渡せ、道との境に茂り咲くエニシダの黄色が空の青に鮮やかに映えている。
季節も眺めもよく、最近のフィオナがここを特別好んでいたのは事実――ではあるが。
(どうして急にピクニック……私が誘ったらしいけど!)
先日のこと。今日と同じメンバー四人で夕食を共にした際、ウェイターがフィオナとレジナルドの飲み物を取り違えるというアクシデントがあった。
気付かずにアルコールを摂取したフィオナはすっかり酔ってしまい、途中からの記憶が朧げだ。
フィオナが眠ってしまいそうだったため、ジャイルズと二人で先に店を出たというが。
(おもちゃ屋さんのショーウィンドウを見たのは、なんとなく記憶にあるのだけど)
妹のベッドの上に吊されていたような星の飾りが、ガラスの向こうにあった。
そのことと、アルコールでほてった体に夜の空気が心地よかったのは覚えている。
だが、いつ店を出たのか、なんと言ってジャイルズと別れたのか。朝、目を覚まして思い出せることはなかった。
ただ、胸のつかえが下りたような、やり残したことを果たしたような妙な満足感は残っていて、だから余計に心配になる。
(どうして私はこう……!)
バーリー家の夜会の晩も、似たようなことがあった。
馬車ですっかり熟睡してしまったフィオナは、ジャイルズに抱えられて帰宅したのだ。
意識がはっきりしない状態で迷惑をかけたのは二度目で、しかも美術展のレセプションで全力で逃亡をした、その翌日の失態である。穴があったら入りたい。
「フィオナ、どうした?」
「……やっぱり思い出せなくて。本当に私、失礼なことをしませんでした?」
「そのことか」
愛想を尽かされてもおかしくないのに、ジャイルズには呆れたそぶりもないのが逆に落ち着かない。
レジナルドが言うには、ちゃんと自分の足で歩いて帰って着替えもして、翌日の予定確認までしてベッドに入ったとのこと。
ロッシュも「大丈夫だった」と請け合ってくれたのだが、どうにも不安が拭えないフィオナにジャイルズが軽く笑う。
「気にすることはないと言っただろう」
「でも」
「そうだな。酔ったフィオナは、敬語が抜けるのはよかった」
「えっ」
――どれだけ馴れ馴れしい口をきいたのだろう。
さっと青くなったフィオナを安心させるように、ジャイルズの瞳が細められる。
「けれど、ほとんど喋らないからもったいなかった」
「も、もったいないって」
「聞けたのは花の名前ばかりだな」
「花……」
花の名前を教えたいと思ったことがあるのは本当だから、話したかもしれない。
きっとその流れでこの野原に誘ったのだ。
だが、興味のない話を延々と聞かされたジャイルズは堪らなかっただろう。
「ここに来るって、強引に約束させたのではありません?」
「建物の中ばかりで気が滅入っていたところだ。いい気分転換になる」
仕事の一環で来ているジャイルズは、この国でも相変わらず忙しい。
補佐として同行してきた事務官と話しているのが聞こえたが、公式の会合だけでも毎日複数入っている。
そんな人を振り回している感があり、申し訳ない気分でいっぱいだ。
詫びを言いつつ顔を伏せるフィオナに、ジャイルズは厚手のグラスを渡してくる。
注がれているのは皆と同じワインではなく、ノンアルコールのコーディアル。その意味を察してしょんぼりと恥じ入りながら受け取ると、またくすりと笑われる。
「私に謝る必要はないが、外で飲むのは控えてくれると助かる」
「はい、それはもう」
「……次こそ連れて帰ってしまうから」
「ジル様?」
「いや、なにも」
独り言のように呟かれた言葉はうまく聞き取れなかったが、今のフィオナには深く追求する余裕がない。
(本当にもう……叔父様とオーナーは向こうに行っちゃうし)
レジナルドはランチを食べ終るやいなや、早速スケッチをしに行ってしまった。
夢中になると、時間も同行者の存在も忘れる彼を見張る……いや、見守るためにロッシュも後を付いていき、この広い野原に残っているのは二人だけ。
それもまた、落ち着かない。
「叔父上はどのくらいで戻られるかな」
「どうでしょう……オーナーがいてくれますから、そこまで遅くなることはないと思いますが」
陽が落ちて手元が見えなくなるまで描き続ける事も珍しくない。
そんな叔父をフィオナは小さい頃から待ち慣れているが、ジャイルズは違う。
「退屈ですよね。少し歩きます?」
「いや、今はいい。そうだな、カードでもするか」
腰を上げようとしたフィオナをその場にとどめて、ジャイルズはバスケットの中からカードを取り出す。
そういえば、ロッシュが持ってきたと言っていた。一勝負する暇もなく、レジナルドを追いかけて行ってしまったのだが。
「カードはできるか?」
「家族でよく遊んだので、一通りは」
外遊びが難しいセシリアもカードやチェスなら楽しめるから姉妹でよくやったし、父やハンス、それにノーマンも一緒になって度々盛り上がったものだ。
大勢ならいろいろできるが、二人でやれるゲームは限られる。
自然とファイブカードのドローポーカーになって、そうなれば当然なにかを賭けることになり、家族で遊ぶときのように「勝った人のお願い事をひとつきく」と決まった。
ゲームをしているうちに気まずい思いも消え、楽しく笑い合っていたのだが――
「……ジル様、強すぎませんか」
「そうでもないが」
その都度の勝敗ではなく、トータルで勝者を決めることにした。
ひとまず五回、と始めたのだが、この四回目までジャイルズが全勝だ。
(ここまで圧勝されると、悔しくもないのね!)
カードの腕前は特別よくも悪くもないはずのフィオナだが、あまりに鮮やかに勝たれすぎて感心する境地になっている。
「もしかしてラッセル卿もカードが強かったり……」
「あいつはかなり得意だが、自分でやるよりディーラーをすることのほうが多いな」
「分かる気がします」
ジャイルズの返事にフィオナは納得して頷く。たしかに、リチャードは人を遊ばせるのが上手そうだ。
慣れた手つきでカードが切られ、次で最後の五回目。
配られた手札から二枚を変えると、クイーンが三枚揃った。
(あ、いいかも)
勝敗はもうとっくについているが、やはり一度くらいは勝ってみたい。
その可能性がありそうな手元を眺めていると、視線を感じる。はっと顔を上げるとジャイルズと目が合った。
「いい手が来たようだ」
「わ、分かります?」
「すっかり顔に出ているから」
「ええっ」
「今までのも、全部」
「うそ……」
慌ててカードを持ち上げ顔を隠してももう遅い。
表情を取り繕うのが苦手なのは相変わらずだ。しかしなんといってもゲーム中であり、気をつけていたはずなのに筒抜けだったとは。
くすくすと楽しげにするジャイルズから赤くなった顔を逸らしつつ、ターンを譲る。
「ジル様も引きますか?」
「いや、私はこのままで」
そう言ってショーダウンされたカードは、スペードが五枚のフラッシュ。しかもAが入っている。
最後のゲームもジャイルズのほうが上手で、フィオナの完敗が決まった。
だが、それよりも。
「……こんなに分かりやすいのに」
表情を確かめるように頬に触れられて、驚いて緩んだ手からカードが落ちる。
いつの間にか詰められた距離に固まっていると、ジャイルズは長く息を吐いた。
「違和感はあったのだが」
「あの……?」
なんの話だろうか。
灰碧の瞳に揶揄う色はなく、逆にもどかしさのようなものが浮かんでいる……気がする。
問う間もなく、膝に落ちたフィオナのカードを確かめたジャイルズはふっと淡く笑みを浮かべた。
「勝負は私の勝ちだな」
「えっと、はい。ジル様の勝ちです。お願い事はなににしますか?」
ともあれ、勝敗は明らかだ。特典を尋ねると、すぐ隣に腰を下ろしたジャイルズは思案顔をする。
「願い事か……この前の晩みたいに、敬語はやめにしてほしいが」
「そ、それは――」
「まあ、難しいと言われるだろうから、代わりに歌を」
「歌ですか?」
「子守唄をよく歌ったと言っていただろう。それを聞きたい」
フィオナの琥珀の瞳がぱちりと瞬く。
(それって……)
思い出したのは、二度目に行った歌劇場だ。ボックス席でジャイルズに昼寝を勧めたときに、フィオナがそう言った。
――肩が触れる距離、見上げる角度。重なる視線。
あの時をなぞったような今の状況に、トクリと胸が騒ぐ。
しかも、ジャイルズがあげた曲名は、例の歌劇だ。
(もしかして覚えて……ううん、それはないわ)
物言いたげな眼差しに戸惑いながら、内心で首を振る。あの日の突然のキスは、なかったことにできたはずだ。
ジャイルズの願い事は、フィオナの歌への興味からだと言い聞かせる。
「嫌か?」
「あ、いえ。じゃあ……歌いますね」
妹の枕元で何度も繰り返し歌ったアリアは、今もすんなりと唇からこぼれ出る。
本来のテンポよりは少しゆっくりと、夢に誘うように。エニシダのハニーグリーンの香りを運ぶ風に歌声を乗せる。
と、隣で目を瞑って聞いていたジャイルズの頭がフィオナの肩に乗った。
(眠ったの……?)
晴れた野原と薄闇のボックス席の違いはあるが、本当に、あの日の再現のようだ。
声量を落として歌い続けながら、バスケットのそばに畳んであるブランケットにそっと手を伸ばす。
起こさないようにしたつもりだったが、フィオナが離れていくのを感じたらしく、ジャイルズが身じろぎをした。
二年前と変わらない手に頬が包まれる。
引き寄せられて重ねられた唇はかすかにワインの香りがした。
「……フィオナ」
「は、はい」
同じ歌、同じキス。
あの日と同じ声が、違う甘さと少しの苦さを乗せてフィオナの名を呼ぶ――まさか。
「一度だけ、嘘をつかせてしまった」
「……!」
――覚えていた。いや、思い出したのかもしれない。
大きく見開いたフィオナの瞳に、苦笑を浮かべたジャイルズが映る。
観劇の間、ジャイルズは一度も目を覚まさなかったとフィオナは言い切った。そうでなければ二人の間にあったことを隠せるとは思えなかったから。
全力で何気ないふうを装って、笑顔で嘘をつき、ジャイルズの記憶にも残っていないはずだった。
ここで顔色ひとつ変えないでいられれば、やはり夢だったと思ってもらえたかもしれない。
表情を取り繕えなかったフィオナは、ジャイルズの言葉を認めたも同じだ。
「責めてはいない。むしろ、すまなかった」
「ジル様、あ、あの」
気まずくても逸らすことはできない距離で見つめられて、心の底まで覗かれてしまいそうだ。
「それに、私はかなり始めの頃からフィオナのことが好きだったようだ」
「そっ、な……っ」
うろたえる唇がまた塞がれて、返事も止められた。
肌から伝わるとろりと甘い熱が胸を満たす。
そよぐ風は髪を揺らすのに、自分たちのまわりだけ膜が張られたように外気を感じないのはどうしてだろう。
――花の香りも、もう分からない。
「フィオナ、歌の続きが聞きたい」
(む、むり……!)
傾いだ体を危なげなく支えられながらキスの合間に請われるが、歌う余裕も、それ以前に言葉を発する隙もない。
野原は相変わらずほかに人がいない。
こんな時に限ってレジナルドもロッシュも、戻ってくる気配がなくて――フィオナの歌声がまた風に乗ったのは、しばらく後だった。
お読みいただきありがとうございます。
小説『運命の恋人は期限付き 夜空のひとつ星の巻』電子書籍配信記念のSSでした。
読者の皆様のおかげで、小説も本としてお届けすることができました。
本当にありがとうございます!
ノベルの刊行は、コミカライズと同じマイクロマガジン社の新創刊レーベル《メイプルノベルズ》( https://maplenovels.jp/ )より。
全編に加筆改稿のうえ、SSを2本書き下ろしました。Web既読の方も楽しんでもらえたら嬉しいです。
まずは2022/12/23にピッコマにて先行配信、2023/1/23より各電子書籍販売サイトにて配信が開始されます。詳しくは著者活動報告などをご覧ください。
ノベル版のカバーイラストと挿絵は、篁ふみ先生がご担当くださいました。
コミカライズも、書籍版「恋きげ」も、両方楽しんでいただけますように……!
著:小鳩子鈴 画:篁ふみ先生
キャラクター原案:紫藤むらさき先生
レーベル:メイプルノベルズ




