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宴の後

 ヘイワード侯爵家の客室。天蓋から下がる布を引いた明るい光が差し込む寝台で、フィオナはクッションに背中を預けて半身を起こしていた。

 サイドテーブルに積まれているのは、ここ数日分の新聞とゴシップ誌の山。それを崩しつつ、次々に目を通していく。


(……こっちにもなし、か)


 シーズンも終わりということで、どの冊子も記事は多くない。

 そんな中、社交欄で一番大きなスペースを割いているのは、先日離宮で行われた王妃殿下の舞踏会だ。

 しかし、かなり細かく書かれた文章のどこにも、フィオナの身に起こったことを想起させるようなことは載っていなかった。


(花火は鹿のせいになったのね)


 唯一のアクシデントは、舞踏会のフィナーレを飾る花火が時間より早く打ち上がったことだ。

 新聞によると、近くの林から急に鹿が現れ、驚いた技師が零した火種が偶然導火線の上に落ちたのが原因だったと書かれている。

 王妃の寛大なはからいで技師にも鹿にもお咎めはなく、来年は周囲に臨時の柵を立てて動物の侵入を阻止する対策が取られることになったという。


「はあ……すごい」


 あの花火は、招待客たちの興味と視線を引きつけるためにリチャードが手を回した結果だったそうだ。それだけでも感嘆するのに、後処理までも完璧である。さすがすぎて、つい声に出てしまった。


(あ、名簿がある)


 主立った出席者も載っていたが、その中に王弟殿下の名前は無かった――もちろん、ゴードンの名も。

 確かめるようにもう一度見て、紙面をたたんで脇に置く。次の新聞を取ろうと伸ばすフィオナの手には、包帯が巻かれていた。

 右手は先まできっちり白布が巻かれた指で、ぎこちなく新しい新聞を開く。目を通し始めたとき、客室の扉が叩かれた。


「はい、どうぞ」


 つい先ほど、花瓶の水を換え終わったメイドが出て行ったばかりだ。昼食の相談だろうかと新聞から顔を上げたフィオナは目を丸くする。


「ジル様?」


 カチャリと扉を開けて入ってきたのは、ジャイルズだった。寝台の中で驚くフィオナを認めて、安心したように瞳が細まる。


「フィオナ、起きていたんだな。具合は」

「あの、はい。大丈夫です」

「本当か? また熱が上がってたりは」


 数歩ですぐ近くまで来たジャイルズは、寝台に片手をついてフィオナの額に手のひらを当てて熱を測る。

 その顔は真剣そのもので、有無を言わせない雰囲気が漂っていた。


(もう平気だってお医者様にも言ったのに……!)


 ――ボートに引き上げられた後、フィオナはそのまま熱を出し、目を覚まさなかった。

 離宮に控えていた医師の手当てを受けて一晩様子を見た後。まだ眠り続けるフィオナが運ばれたのは、自宅のクレイバーン家ではなくヘイワード侯爵家だった。


(そりゃあね、偉いお医者様が我が(クレイバーン)家に来るなんて、絶対におかしいから!)


 おおっぴらにできない事件で負った怪我である以上、たとえ医師といえども事情を知る者は最小限に抑える必要がある。

 離宮で最初にフィオナを診てくれた老医師は、王家の主治医でありヘイワード侯爵との縁もある、信用のおける人物だ。

 だが、王都医師会のトップである彼が一介の男爵令嬢の往診などすれば、なにかあったと知らせることになる。

 また、事件について王宮から来る密使と会う必要もあり、フィオナは再度ヘイワード侯爵家の客人となっていた。


「……大丈夫そうだな」

「朝も確かめたじゃないですか」


 むしろ触れているジャイルズの手のほうが熱い。息は静めたようだが、急いでここまで来たのだろう……たぶん、階段を駆け上がって。

 そう思うと妙に胸が騒いで、フィオナは視線をすぐ前に迫るクラバットにだけ向けて呟いた。


 時間を掛けて熱を測ったジャイルズは、ようやくピタリと当てた手を肌から浮かせ、ほっと息を吐く。

 そこまで詰めなくてもとフィオナは思うが、しばらく意識不明が続いたことで心配をかけた自覚はあった。


「元気になりましたし、お薬も飲みました」

「だが、なにかあればクレイバーン男爵やハンスに申し訳が立たない」

「それは……そう、ですね」


 離宮でフィオナが受けた被害を、父親に黙っておくことはできない。

 ハンスにも同席を許して、ジャイルズはフィオナがまだ目を覚まさぬうちに事情を隠さず説明した。


 クレイバーン男爵は話を聞いて卒倒しそうになりながらも、詫び続けるジャイルズを責めることはなかった。

 代わりに、額ではなく目元をハンカチで押さえながら、無事でよかったと何度も繰り返した。


 妹と違って健康そのものだったフィオナは風邪を引くことすらほとんどなく、過去にただ一度熱を上げたときは一昼夜眠り続けたという。

 だからきっと今回もそうだと父親の顔で請け合った――それは、憔悴しきった姿を隠す余裕もないジャイルズに対する慰めだったかもしれない。


 青い顔で食事すら拒んで枕元を離れないジャイルズに「大丈夫だ」と何度も繰り返し、フィオナが目を覚ますまで傍にいた。

 意識が戻って開けた目に飛び込んで来た二人の顔を、フィオナはよく覚えている。

 怒られると身構えたが、きつく抱きしめられただけだった。


 フィオナの体調を確かめて男爵はクレイバーンの家に帰ったが、ジャイルズはその後も自宅に戻らずヘイワード家に滞在していた。ハンスは前と同じく両家を行き来して、皆を繋いでくれている。


「だから、ちゃんと横になってました」

「そうしてくれ」


 手を額から頬に滑らせて、覗き込むようにしてジャイルズはフィオナの顔色も確かめる。


(うぅ、近いぃ!)


 持っていた新聞がぽろりと手から落ち、灰碧の瞳に捉えられた視線が泳ぐ。

 伏せっているのだから仕方がないが、顔は洗ったが身支度は軽くしかしておらず、髪も流したままだ。

 寝起き同然の顔を、超がつくほどの美形に至近距離で覗き込まれるなど、なんという事態だろう。


(こ、これは体調確認! お医者様の代わり!)


 自分に言い聞かせるが、ジャイルズがフィオナを見る瞳の温度は、人の良さそうな老医師とは全然違っていて説得力に厳しい。

 ――せっかく下がった熱がまた上がりそうだ。


「っ、もう、いいと思……っ」

「……ああ、そのようだ」


 ふっと下がった目尻と上がった口角に、トクリと胸が鳴る。それを隠すように薄く柔らかな毛布を首元まで引き上げた。

 寝台の傍にある椅子に腰掛けたジャイルズの視線が、フィオナの回りに散らばる新聞に動く。


「疲れないか?」

「さっき読み始めたばかりですから、それほどでも」


 答えるとやはり気遣わしそうな顔で、そうかと言う。

 訪ねてきた人を放って読みはしない。だが、片付けようと伸ばした手に巻かれた包帯に、ジャイルズの咎めるような視線が刺さる。

 大人しく腕を引っ込めると、代わりにジャイルズが新聞をまとめてサイドテーブルに積んだ。


「あの、ジル様。お仕事は」

「午前の分は終わらせた。午後は……行きたくないが、議会がある」

「『行きたくない』って、ラッセル卿みたいです」


 仕事を疎かにせず、真面目に取り組んできたジャイルズがリチャードのようなことを言うのがおかしくて、フィオナはくすりと笑う。


(思っていたとしても、口には出さない人だったのに)


 それだけ自分に気持ちを見せてくれるようになったことに、少なからず驚く。

 気安い関係は心地よく、嬉しさは隠せないが――危うくもあった。


「面倒だと思うことはよくある」

「ふふ、そうは見えないですけど」

「見せないようにしているからな」

「……そう、ですね」


 まるでフィオナだけに見せるのだ、と聞こえてしまうから、どう返したらいいか分からない。

 曖昧な相づちにノックの音が重なって、助かったと思ってしまった。


(なんだか、もう……!)


 目を覚ましてからというもの、ジャイルズが過保護だ。

 これまでにもまして触れてくるのはきっと、彼の目の前で窓から落ちたことが原因だろう――あの瞬間の驚愕と絶望が入り交じったようなジャイルズの表情が、フィオナの眼裏からも離れない。


 無事を確かめたいという無意識がそうさせるのだと分かるから、触れる手を拒むことはしない。

 ただ、フィオナの心臓に悪いだけだ。

 

 ワゴンを押した使用人が運んできたのは、二人分の昼食だった。

 本当のところ、熱は下がったものの、ジャイルズに言うほど体調が戻ったわけではない。今朝もなにも食べる気がせず、飲み物だけにしてもらっていた。

 だが、湯気の立つスープとみずみずしいフルーツを見て、久しぶりに食欲が戻ったようだ。


「食べられそうか?」

「はい」


 使用人が下がり、寝台を降りようとしたフィオナをジャイルズが押しとどめて毛布の上にトレイを載せる。


(え?)


「ほら」

「え、え?」


 美しい所作で音も立てずにスープを掬ったスプーンを、口元に運ばれる。

 ふわりと漂う湯気と香気に喉が鳴った。

 ――だが、これは。

 フィオナは慌ててジャイルズを見上げる。


「食べられますよ。じ、自分で」

「その手で?」


 言われて改めてフィオナは自分の両手を見る。

 左手は手のひらと親指に、右手には全部の指先にまでしっかりと包帯が巻かれていた。

 ナイフを持ったゴードンと揉み合った時か、水中でドレスを裂いた時か分からないが、いくつもの切り傷があったのだ。

 一番深かったのは右手の平。親指の根元から手首にかけての傷はまだ塞がっておらず、動かすと当然痛む。


「持てます」

「いいから」


 領地でお転婆をしていると、小さな切り傷擦り傷はしょっちゅうだ。

 それよりは深く大きな傷だが、フィオナにとって変わりはなく、この包帯だって大げさすぎるほど。


 だがジャイルズや、あの日に離宮で手当を手伝ってくれたミランダにとっては違うらしい。

 年頃の娘が傷を負ったことを酷く嘆き、治療に専念するようにときつく言い残して去ったミランダのおかげで、髪を梳くのも着替えも、今のフィオナは自分では何一つさせてもらえないでいた。


(でも、これはダメでしょう!)


 使用人はそれが仕事でもあり、フィオナもされるがままでいた。しかし、さすがにジャイルズに給仕をさせるわけにはいかない。


「ほら、こぼれてしまう」

「だ、大丈夫で、んっ」


(ジル様がスプーンを下げればこぼれないしっ?!)


 否定の言葉を発そうとして思わず開いた口に、するりと匙が入り込む。

 熱くなく冷たくもない、ちょうどいい温度の味わい深い液体が喉を落ちていった。


「味は分かるか?」

「……おいしいです……」


 心配そうに尋ねられると、つい正直に答えてしまう。

 羞恥に頬を染めて下を向くフィオナに、ほっとした表情のジャイルズがまた掬ったスープを口元に運ぶ。


「あのっ、ジル様は?」

「フィオナが食べ終わったら、私もいただく」


 だから食べろと言わんばかりのジャイルズは、どうしたってフィオナに手ずから食べさせないと気が済まないらしい。

 観念したフィオナはおずおずと口を開ける。


(なんか、負けた気がする……!)


 看病などしたことがないと言っていたはずの貴公子の、スプーンを差し出すタイミングがやたらいい。

 結局、さらりと盛られたスープとフルーツの皿が空くまで、ジャイルズは匙とフォークを運び、フィオナは口を動かし続けたのだった。






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