湯けむりの向こう側
吹雪は三日目に入っても、その狂気を緩める気配がなかった。
窓の外は、白いペンキをぶちまけたような混沌とした世界だ。
時折、突風が建物を巨大な拳で殴りつけるように揺らし、古い窓枠がミシミシと悲鳴を上げる。
視界はゼロ。ただ白い幕が揺らぎ、その奥で黒い木々の影が、溺れる人の手のように一瞬現れては消えていく。
朝食を終え、少し冷めたお茶をすすっていると、帳場の奥から亮が姿を現した。
青い作務衣の上に厚手のダウンジャケットを重ね、耳まで覆うニット帽を目深にかぶっている。重装備だ。
「真司さん、すみません。ちょっと雪かきを手伝ってもらえませんか? 裏のボイラー室への道が埋まっちゃって」
声は明るいが、その目は笑っていなかった。
自然の猛威に対し、一瞬の油断も許されない緊張感が漂っていた。
玄関の引き戸をわずかに開けた瞬間、暴力的な冷気が雪崩のように押し寄せてきた。
「うわっ……」
思わず声が出る。吐いた息は一瞬で白く凍りつき、強風に引きちぎられていく。
一歩外に出ると、雪は腰の高さまで積み上がっていた。新雪というより、湿気を吸って固まったセメントのように重い。
亮が手渡してくれたアルミのスコップを握りしめ、雪壁に突き立てる。
すくい上げると、腕の筋肉が軋むほど重い。
「都会じゃ、こんなの非日常ですよね」
亮が白い息を吐きながら、リズムよく雪を放り投げる。
「ええ……。ニュースの画面で見て、大変そうだな、と思うだけで。まさか自分がやるなんて」
真司も負けじとスコップを動かす。内側から汗が噴き出し、外気との温度差で体中が熱り立つ。
「俺も、東京にいた頃はそうでした」
亮の手がふと止まり、遠くを見る目をした。
「大学を出て、東京の商社に入ったんです。最初の数年は刺激的で、ここなんて田舎で何もない場所だと思ってた」
亮の長い睫毛に雪の結晶が張り付き、瞬きのたびに揺れる。
「でも、ビル風に吹かれているうちに、自分が何者か分からなくなってきて。……戻ってきたことに後悔はないです。でも時々、迷う時があるんです。本当にこれでよかったのかなって」
風の音が、亮の独白をかき消すように唸りを上げた。
真司は、濡れた手袋を握りしめたまま返す言葉を失っていた。
ここで生まれ育った彼でさえ、迷いながら生きている。
自分だけが道を見失っているわけではない――その事実が、重たい雪の感触と共に胸に落ちた。
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昼下がり。
冷えた体を温めようと休憩所へ向かう途中、廊下で美沙とすれ違った。
いつもなら会釈だけで通り過ぎる彼女が、今日は立ち止まり、視線をさまよわせながら口を開いた。
「あの……少し、お話ししてもいいですか」
暖房の効いた休憩所のソファ。
窓の外では、相変わらず風が窓ガラスを爪で引っかくような音を立てている。
美沙は両手で湯飲みを包み込み、その熱を確かめるように指先を擦り合わせていた。
「……夫を、去年亡くしました。もうすぐ一周忌なんです」
静かな声だった。
「交通事故でした。朝、いってらっしゃいと送り出したのが最後で」
湯飲みから立ちのぼる白い湯気が、彼女の伏し目がちな横顔を柔らかく隠す。
「大阪の家にいると、あちこちに思い出がありすぎて……息ができなくなるんです。だから、逃げてきました。ここなら、誰も私を知らないから」
彼女の言葉は、とつとつとしていたが、ガラスの破片のように鋭く真司の胸に刺さった。
真司は喉が詰まった。
仕事が辛い、上司が理不尽だ、妻とうまくいかない。そんな自分の悩みが、彼女の深い喪失の前ではあまりに軽く、幼いものに思えたからだ。
「……変な話をしてしまいましたね。ごめんなさい」
沈黙に耐えかねたように美沙が微笑んだ。その笑顔は、泣き顔よりも悲痛に見えた。
「いえ……話してくれて、ありがとうございます」
真司には、それしか言えなかった。簡単な慰めの言葉など、冒涜になる気がした。
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夕方、大浴場の入り口でまさえと顔を合わせた。
脱衣所の湿った空気の中で、彼女は湯上がりの艶やかな顔で、真司の背中をバンと叩いた。
「あんた、少し顔色がマシになったな」
「そうですか? 雪かきでヘトヘトですよ」
真司が苦笑すると、まさえは真顔になって言った。
「雪は必ず解ける。春になれば、嫌でも解けるんだ。だから今は、焦らんでいい」
それだけ言い残し、バスタオルを肩にかけ、鼻歌交じりで去っていった。
その言葉は、温泉の成分のようにじわりと皮膚から浸透し、焦燥感で凝り固まった真司の心を内側からほぐしていった。
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その夜、食堂の空気は一変していた。
「今夜は特別だ! 在庫一掃、鍋の会だ!」
亮の号令で、テーブルの中央には巨大な土鍋が据えられ、ぐつぐつと音を立てていた。
昆布出汁の優しい香りと、味噌の芳醇な匂いが食堂を満たしている。
ぶつ切りの鱈、山盛りの白菜、舞茸、豆腐、ネギ。
湯気は天井まで届きそうな勢いだ。
「ほら、真司さんも遠慮しないで!」
まさえが鱈の身をたっぷり入れた取り皿を押し付けてくる。
「いただきます」
熱々の身を口に放り込むと、ホロホロと崩れ、魚の旨味が口いっぱいに広がった。
「うまい……!」
「だべ? 寒鱈は冬の王様だ」
亮が一升瓶を抱えて回り、コップに冷酒を注いでいく。
湯治客たちの顔が赤く上気し、笑い声が反響する。
外は猛吹雪。けれど、この直径数十センチの鍋の中には、確かな平和と温もりがあった。
真司も、気づけば声を上げて笑っていた。
隣の客の冗談に腹を抱え、涙が出るほど笑った。
こんなふうに無防備に笑ったのは、一体何年ぶりだろう。
肩書きも、責任も忘れて、ただの「人間」としてここにいる。その心地よさが、熱い鍋の出汁と共に五臓六腑に染み渡った。
宴の後。
火照った体を冷まそうと、真司は厚着をして玄関を出た。
驚いたことに、あれほど荒れ狂っていた風が止んでいた。
雲の切れ間から、満月が顔を覗かせている。
雪はすべての音を吸収し、世界は「シーン」という音が聞こえるほどの静寂に包まれていた。
踏みしめる雪が、キュッ、キュッ、と小気味よい音を立てる。
宿の脇を流れる渓流まで歩くと、水面が月明かりを反射して黒曜石のように光っていた。
手袋を外し、冷気を素手で感じる。
痛いほどの冷たさが、酔った頭を冴え渡らせていく。
「こんな時間に散歩ですか」
背後から雪を踏む音がして、亮が近づいてきた。
「ええ。静かすぎて、目が覚めちゃって」
「分かります。嵐のあとの静けさは、耳が痛いくらいですよね」
二人は並んで、月光に照らされた川面を見つめた。
遠くの山肌から、ドドド……と雪崩の音が重低音となって響いてくる。
亮が白い息を吐いた。
「雪も人も、放っておけばいつか流れていく……。でも、やっぱりどこかで踏ん張って、根を張らなきゃいけない時がある」
それは真司に向けた言葉であり、同時に、ここに戻ることを選んだ亮自身への宣言のようにも聞こえた。
真司は黙って頷いた。その横顔には、もう都会での疲れ切った影はなかった。
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翌朝。
真司は、窓から差し込む強烈な光で目を覚ました。
カーテンを開けた瞬間、目がくらんだ。
空は抜けるような青。昨夜までの吹雪が嘘のように、空気はクリスタルのように澄み切っている。
太陽の光を浴びた新雪は、ダイヤモンドの粉をまき散らしたようにまばゆく輝いていた。
「真司さん! 行きますよ!」
朝食後、亮がスノーシューを二足抱えて手招きしていた。
「せっかくの快晴だ。裏山からの景色、見ない手はないですよ」
二人は宿の裏手から林へと踏み入った。
スノーシューを履いていても、ふかふかの新雪に膝まで沈む。
だが、その感触すら心地よかった。
枝に積もった雪が風で舞い落ち、朝日に照らされてキラキラと光のシャワーのように降り注ぐ。
息を切らして小高い丘の頂上に立つと、視界が一気に開けた。
「うわぁ……」
真司は息を呑み、立ち尽くした。
眼下には一面の銀世界。
そして視線の先には、津軽富士と呼ばれる岩木山が、神々しいまでの白い姿で鎮座していた。
裾野まで広がる圧倒的な白と、空の深い青。
その境界線はあまりに鮮やかで、現実感がないほど美しい。
胸の奥にあった黒いしこりが、この圧倒的な光景に浄化され、消え去っていく気がした。
「あれが、岩木山です」
亮が誇らしげに指差す。
「晴れた日は、ここからが一番きれいに見えるんです」
その時、林の奥から一羽の鳥が飛び立った。
カケスだ。
翼の一部が、鮮やかな瑠璃色に輝いている。
モノクロームだった真司の世界に、鮮烈な「色彩」が戻ってきた瞬間だった。
雪の白、空の青、そして鳥の瑠璃色。
その色は、大阪のどんなネオンサインよりも強く、そして優しく、真司の記憶に焼き付いた。




