雪に閉ざされて
朝から、空は鉛を溶かして流したように重たく垂れ込めていた。
八甲田の峰々は、その湿った灰色の塊に飲み込まれ、稜線すら判別できない。
窓の外に広がる景色は、水墨画のように輪郭を失い、ただ白と黒の曖昧なグラデーションだけが世界を支配していた。
昼前になると、山鳴りのような低い音が響き始めた。風だ。
最初は梢を揺らす程度だった風が、次第に唸りを上げ、細かな粉雪を横殴りに叩きつけ始めた。
雪は優雅に舞うことをやめ、白い礫となって、空と地の境界線を強引に塗りつぶしていく。
ガタガタ、と古い木枠のガラス戸が悲鳴を上げ、隙間風が鋭い爪のように部屋の中へ入り込んできた。
帳場では、亮がラジオのアンテナを何度も角度を変えて伸ばしていた。
ジジ、ザザザ……という砂嵐のような雑音の向こうから、緊迫したアナウンサーの声が途切れ途切れに漏れてくる。
『……八甲田山系……暴風雪警報……最大風速は……』
プツン、と音が途絶え、また無機質なノイズに戻った。
亮は眉ひとつ動かさず、手元のメモ用紙に太いマジックで書き殴り、それを壁に貼り出した。
――本日のバス全便運休。携帯圏外。
「こりゃ、完全に閉じ込められましたね」
亮の声には焦りも悲壮感もなく、むしろ「ああ、またか」という日常的な響きがあった。
「孤立、ですか」
「ええ。除雪車もこの風じゃ出られませんから」
外界から隔絶された。
その事実を突きつけられた瞬間、真司の胸に去来したのは恐怖ではなく、奇妙な安堵感だった。
大阪にいた頃なら、電車が止まれば迂回路を探し、通信が切れれば公衆電話へ走り、常に「次の一手」を強要された。
だが、ここでは「次」などない。
自然が道を閉ざせば、人はただ、その巨大な手のひらの上でじっとしているしかないのだ。
「どうしようもない」という諦めが、これほど心地よいものだとは知らなかった。
館内は、吹き荒れる風の音に反抗するかのように、いつもより人の気配が濃かった。
共同スペースの囲炉裏端やソファには、行き場を失った湯治客たちが自然と集まっていた。
ストーブの中では、太い薪がパチリと爆ぜ、赤々とした炎が部屋の空気を舐めるように暖めている。
濡れた髪を乾かす人、読み古された漫画に没頭する人、将棋盤を挟んで長考する老人たち。
外は極寒の地獄だが、ここだけは羊水の中にいるように温かく、緩やかだった。
真司もラウンジの隅にある安楽椅子に深く沈み込み、熱い焙じ茶の入った湯呑みを両手で包んでいた。
香ばしい湯気が鼻孔をくすぐり、一口啜ると、熱い液体が食道を滑り落ち、冷え切った内臓をじわりと温める。
「真司さん、八甲田で遭難しかけたこと、あるだか?」
不意に隣のソファが沈み、まさえが腰を下ろした。
唐突な問いに、真司は茶碗を持つ手を止める。
「いえ……そんな経験、ないです」
「わだしは若ぇ頃、山菜採りで欲張って奥へ入っての。急なドカ雪で道見失って、二日ほど雪洞掘って埋まってたことある」
「二日も……!? よく、ご無事で」
真司が目を見開くと、まさえは遠い目をして笑った。
「怖がって動き回れば死ぬんだ。体力を使い果たして、そのまま眠っちまう」
まさえの視線は、窓の外で荒れ狂う吹雪に向けられていた。
「自然に抗えねぇときは、ただ小さくなって、通り過ぎるのを待つしかねぇ。身をゆだねるんだ。そうすりゃ、雪も命までは取らねぇよ」
抗わず、身をゆだねる。
その言葉は、薪の燃える匂いと共に、真司の胸の深い部分に沈んでいった。
今まで真司は、流れに逆らって泳ぐことだけが「生きる」ことだと信じていた。
理不尽なクライアント、終わらないノルマ、すれ違う妻の心。それらすべてに歯を食いしばって抗ってきた。
だが、その結果が、この壊れかけた心と体だ。
(俺は、もっと早くに雪洞を掘るべきだったのかもしれない……)
まさえの言葉が、凝り固まった価値観を少しだけ溶かした気がした。
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夕刻。
廊下の裸電球がぽつぽつと灯り始める頃、真司は部屋へ戻るために長い廊下を歩いていた。
廊下の窓ガラスは、吹き付ける雪で真っ白に塗り込められ、外の景色は何も見えない。
建物全体が風でミシミシと鳴り、まるで海を行く船の中にいるようだ。
前方から、一人の影が近づいてきた。
黒いニットを着た美沙だった。
狭い廊下ですれ違う瞬間、ふと彼女が足を止めた。
真司もつられて立ち止まる。
外の轟音にかき消されそうなほど小さな声が聞こえた。
「……すごい雪」
美沙は窓の方を向いていた。
「ええ。閉じ込められちゃいましたね」
真司が答えると、彼女はゆっくりと視線をこちらに向けた。
「でも、静か」
「静か……ですか? こんなに風が鳴っているのに」
「ええ。余計な音が全部消えて……世界が白紙に戻されるみたい」
その言葉を口にしたとき、美沙の口元がかすかに緩んだ。
ほんの数ミリ、氷に亀裂が入るような、儚い笑みだった。
初めて見る表情に、真司は言葉を失った。冷たい能面のような顔の下に、こんなにも脆く、人間味のある感情が隠れていたなんて。
「大阪の、どちらですか?」
不意に彼女が尋ねてきた。イントネーションが、わずかに関西のそれに戻っている。
「えっ……あ、吹田の方です」
「……そうですか。私は、豊中」
「近いですね」
「ええ。……近いです」
それだけの会話だった。
だが、この雪に閉ざされた孤島のような宿で、同じ言葉、同じ土地の記憶を持つ人間と出会った。
その事実が、真司の胸に小さな灯りをともした。
美沙はそれ以上何も言わず、軽く会釈をして、薄暗い廊下の奥へと去っていった。
残された残り香は、温泉の硫黄と、どこか冷たい冬の匂いがした。
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深夜二時。
風の音が気になり、真司はふと目を覚ました。
のどが渇き、水を飲もうと窓際に立つ。
二重サッシのガラス越しに見る外は、荒れ狂っていた風が嘘のように止み、音のない世界が広がっていた。
雲が切れ、青白い月光が雪原を照らし出している。
その蒼白な光の中に、人影があった。
宿の中庭、胸まで積もった雪をかき分けた痕跡の先に、黒いコートを着た美沙が立っていた。
彼女は、月に向かって何かを叫んでいるように見えた。
あるいは、祈っているのか。
ガラス越しでは声は届かない。
ただ、彼女の肩が小刻みに震え、両手がきつく握りしめられていることだけが分かった。
美しい雪景色の中で、その黒い姿だけが、拭いきれないインクの染みのように「孤独」を主張していた。
(彼女も、何かと戦っているのか……)
真司はカーテンを引くことも忘れ、立ち尽くしていた。
大阪での自分もまた、深夜のオフィスで、あるいは誰もいないリビングで、あのような背中をしていたのではないか。
窓ガラスに映る自分の顔と、雪の中に立つ彼女の姿が重なって見える。
外では、再び雪が静かに降り始めていた。
新しい雪が、彼女の足跡も、彼女の震えも、すべてを優しく隠すように降り積もっていく。
真司は、彼女が顔を上げてこちらを振り向くまで、その場を動くことができなかった。




