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雪解けの湯  作者:


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3/5

雪に閉ざされて

 朝から、空は鉛を溶かして流したように重たく垂れ込めていた。

 八甲田の峰々は、その湿った灰色の塊に飲み込まれ、稜線すら判別できない。

 窓の外に広がる景色は、水墨画のように輪郭を失い、ただ白と黒の曖昧なグラデーションだけが世界を支配していた。


 昼前になると、山鳴りのような低い音が響き始めた。風だ。

 最初は梢を揺らす程度だった風が、次第に唸りを上げ、細かな粉雪を横殴りに叩きつけ始めた。

 雪は優雅に舞うことをやめ、白い礫となって、空と地の境界線を強引に塗りつぶしていく。


 ガタガタ、と古い木枠のガラス戸が悲鳴を上げ、隙間風が鋭い爪のように部屋の中へ入り込んできた。

 帳場フロントでは、亮がラジオのアンテナを何度も角度を変えて伸ばしていた。

 ジジ、ザザザ……という砂嵐のような雑音の向こうから、緊迫したアナウンサーの声が途切れ途切れに漏れてくる。


『……八甲田山系……暴風雪警報……最大風速は……』


 プツン、と音が途絶え、また無機質なノイズに戻った。


 亮は眉ひとつ動かさず、手元のメモ用紙に太いマジックで書き殴り、それを壁に貼り出した。

 ――本日のバス全便運休。携帯圏外。


「こりゃ、完全に閉じ込められましたね」


 亮の声には焦りも悲壮感もなく、むしろ「ああ、またか」という日常的な響きがあった。


「孤立、ですか」

「ええ。除雪車もこの風じゃ出られませんから」


 外界から隔絶された。

 その事実を突きつけられた瞬間、真司の胸に去来したのは恐怖ではなく、奇妙な安堵感だった。


 大阪にいた頃なら、電車が止まれば迂回路を探し、通信が切れれば公衆電話へ走り、常に「次の一手」を強要された。

 だが、ここでは「次」などない。

 自然が道を閉ざせば、人はただ、その巨大な手のひらの上でじっとしているしかないのだ。

「どうしようもない」という諦めが、これほど心地よいものだとは知らなかった。


 館内は、吹き荒れる風の音に反抗するかのように、いつもより人の気配が濃かった。

 共同スペースの囲炉裏端やソファには、行き場を失った湯治客たちが自然と集まっていた。


 ストーブの中では、太い薪がパチリと爆ぜ、赤々とした炎が部屋の空気を舐めるように暖めている。

 濡れた髪を乾かす人、読み古された漫画に没頭する人、将棋盤を挟んで長考する老人たち。

 外は極寒の地獄だが、ここだけは羊水の中にいるように温かく、緩やかだった。


 真司もラウンジの隅にある安楽椅子に深く沈み込み、熱い焙じ茶の入った湯呑みを両手で包んでいた。

 香ばしい湯気が鼻孔をくすぐり、一口啜ると、熱い液体が食道を滑り落ち、冷え切った内臓をじわりと温める。

 

「真司さん、八甲田で遭難しかけたこと、あるだか?」


 不意に隣のソファが沈み、まさえが腰を下ろした。

 唐突な問いに、真司は茶碗を持つ手を止める。


「いえ……そんな経験、ないです」

「わだしは若ぇ頃、山菜採りで欲張って奥へ入っての。急なドカ雪で道見失って、二日ほど雪洞掘って埋まってたことある」

「二日も……!? よく、ご無事で」


 真司が目を見開くと、まさえは遠い目をして笑った。


「怖がって動き回れば死ぬんだ。体力を使い果たして、そのまま眠っちまう」


 まさえの視線は、窓の外で荒れ狂う吹雪に向けられていた。


「自然に抗えねぇときは、ただ小さくなって、通り過ぎるのを待つしかねぇ。身をゆだねるんだ。そうすりゃ、雪も命までは取らねぇよ」


 抗わず、身をゆだねる。

 その言葉は、薪の燃える匂いと共に、真司の胸の深い部分に沈んでいった。


 今まで真司は、流れに逆らって泳ぐことだけが「生きる」ことだと信じていた。

 理不尽なクライアント、終わらないノルマ、すれ違う妻の心。それらすべてに歯を食いしばって抗ってきた。

 だが、その結果が、この壊れかけた心と体だ。


(俺は、もっと早くに雪洞を掘るべきだったのかもしれない……)


 まさえの言葉が、凝り固まった価値観を少しだけ溶かした気がした。


---


 夕刻。

 廊下の裸電球がぽつぽつと灯り始める頃、真司は部屋へ戻るために長い廊下を歩いていた。

 廊下の窓ガラスは、吹き付ける雪で真っ白に塗り込められ、外の景色は何も見えない。

 建物全体が風でミシミシと鳴り、まるで海を行く船の中にいるようだ。


 前方から、一人の影が近づいてきた。

 黒いニットを着た美沙だった。

 狭い廊下ですれ違う瞬間、ふと彼女が足を止めた。

 真司もつられて立ち止まる。

 外の轟音にかき消されそうなほど小さな声が聞こえた。


 「……すごい雪」


 美沙は窓の方を向いていた。


「ええ。閉じ込められちゃいましたね」


 真司が答えると、彼女はゆっくりと視線をこちらに向けた。


「でも、静か」

「静か……ですか? こんなに風が鳴っているのに」

「ええ。余計な音が全部消えて……世界が白紙に戻されるみたい」


 その言葉を口にしたとき、美沙の口元がかすかに緩んだ。

 ほんの数ミリ、氷に亀裂が入るような、儚い笑みだった。


 初めて見る表情に、真司は言葉を失った。冷たい能面のような顔の下に、こんなにも脆く、人間味のある感情が隠れていたなんて。


「大阪の、どちらですか?」


 不意に彼女が尋ねてきた。イントネーションが、わずかに関西のそれに戻っている。


「えっ……あ、吹田の方です」

「……そうですか。私は、豊中」

「近いですね」

「ええ。……近いです」


 それだけの会話だった。

 だが、この雪に閉ざされた孤島のような宿で、同じ言葉、同じ土地の記憶を持つ人間と出会った。

 その事実が、真司の胸に小さな灯りをともした。


 美沙はそれ以上何も言わず、軽く会釈をして、薄暗い廊下の奥へと去っていった。

 残された残り香は、温泉の硫黄と、どこか冷たい冬の匂いがした。


---


 深夜二時。

 風の音が気になり、真司はふと目を覚ました。

 のどが渇き、水を飲もうと窓際に立つ。


 二重サッシのガラス越しに見る外は、荒れ狂っていた風が嘘のように止み、音のない世界が広がっていた。

 雲が切れ、青白い月光が雪原を照らし出している。


 その蒼白な光の中に、人影があった。

 宿の中庭、胸まで積もった雪をかき分けた痕跡の先に、黒いコートを着た美沙が立っていた。


 彼女は、月に向かって何かを叫んでいるように見えた。

 あるいは、祈っているのか。

 ガラス越しでは声は届かない。

 ただ、彼女の肩が小刻みに震え、両手がきつく握りしめられていることだけが分かった。


 美しい雪景色の中で、その黒い姿だけが、拭いきれないインクの染みのように「孤独」を主張していた。


(彼女も、何かと戦っているのか……)


 真司はカーテンを引くことも忘れ、立ち尽くしていた。


 大阪での自分もまた、深夜のオフィスで、あるいは誰もいないリビングで、あのような背中をしていたのではないか。

 窓ガラスに映る自分の顔と、雪の中に立つ彼女の姿が重なって見える。


 外では、再び雪が静かに降り始めていた。

 新しい雪が、彼女の足跡も、彼女の震えも、すべてを優しく隠すように降り積もっていく。


 真司は、彼女が顔を上げてこちらを振り向くまで、その場を動くことができなかった。

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