凍りついた心
大阪の朝は、湿った排気ガスの匂いと、人を拒絶するような始発電車の金属音から始まる。
佐伯真司は、ずしりと重い黒いビジネスバッグを肩に食い込ませ、今日もまた、昨日と同じホームの白線の上に立っていた。
到着した電車の窓ガラスに、亡霊のような男が映っている。
肌は土気色にくすみ、無造作な髪には白いものが混じり、目の下には消えない疲労の彫刻が刻まれている。それが自分だと認めるのに、毎朝数秒の時間を要した。
広告代理店の営業部課長。
三十代で手にしたその肩書きは、かつては勲章のように思えた。だが今、それは真司を縛り付ける鎖でしかない。
午前中は二件のプレゼンをこなし、昼食は移動中のタクシーの中で、味がしないコンビニのおにぎりを胃に流し込む。
午後は上司からの理不尽な修正指示と、部下が持ち込むトラブルの火消しに追われる。
「課長、これ、どうします? 先方が激怒してて……」
「……分かった。俺が電話する」
その言葉を吐き出すたび、心の一部が摩耗していく音がした。自分が人間ではなく、トラブルを処理するだけの精巧な緩衝材になったような錯覚に陥る。
夜、ビルの照明が落ち始めたフロアで、ようやく自席に戻ったときだった。
不意に、視界がぐにゃりと歪んだ。
パソコンの画面が水底のように揺らぎ、手元の資料の文字が蟻の行列のように意味をなさなくなる。
「佐伯くん、これ今日中に」
上司がデスクに貼り付けた赤字の付箋が、毒々しい警告色に見えた。こめかみの奥で警鐘が鳴っている。それでも、真司は震える指先でキーボードを叩き続けた。止まれば、すべてが崩れ落ちてしまう気がしたからだ。
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二週間後、心療内科の診察室は、耳が痛くなるほど静かだった。
医師は感情の読めない顔で淡々とカルテをめくり、パソコンの画面に視線を落としたまま告げた。
「佐伯さん。電池切れですよ。このままだと、戻れなくなる」
白衣の袖口がわずかに揺れる。
「休職を勧めます。診断書、書きますから」
「……休職、ですか」
喉から絞り出した声は、枯れ木のように乾いていた。
休む。その二文字が頭の中で虚ろに響く。自分が抜けたら、あの案件はどうなる。部下は。上司の舌打ちが聞こえるようだ。
「少し……考えさせてください」
逃げることへの罪悪感と、壊れることへの恐怖。その狭間で、真司は曖昧に頷くことしかできなかった。
夜十時。ダイニングテーブルには、妻が用意してくれた夕食がラップをかけられたまま冷え切っていた。
煮魚、味噌汁、彩りのよいほうれん草のお浸し。妻の気遣いが痛いほど伝わってくる。
レンジで温め直している背中に、妻が声をかけた。
「お疲れさま」
「……ああ」
それきり、会話の糸はぷつりと切れた。
昔は、仕事の愚痴を笑い話に変えたり、次の休日の計画で盛り上がったりできたはずだ。今は、箸が食器に当たる硬質な音と、テレビから流れる無機質なニュース音声だけが部屋を満たしている。
同じテーブルに座っているのに、妻との間には深くて暗い川が流れているようだった。
自分の家なのに、息をする場所さえ見当たらない。
その夜、泥のような疲労感があるのに、どうしても眠れなかった。
暗闇の中でスマホの明かりだけが頼りだった。
指が勝手に検索窓へ文字を打ち込む。「逃げたい」「静かな場所」「誰もいない」。
予測変換に出てきた「湯治」という言葉に惹かれ、スクロールを続ける。
ふと、ある画像で指が止まった。
――酸ヶ湯温泉・七日間湯治プラン。
八甲田山のふもと、標高九百メートル。
豪雪に閉ざされた、木造の宿。
画面いっぱいに広がるのは、一切の色彩を奪い去った真っ白な雪景色と、もうもうと立ち込める湯けむり。
その白さは「無」だった。
ここに行けば、自分の中の黒い澱をすべて消し去ってくれるかもしれない。
理屈ではなかった。溺れる者が藁をも掴むように、気づけば予約フォームに名前を打ち込んでいた。
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二月中旬。青森空港の自動ドアが開いた瞬間、大阪とは異質の空気が真司を襲った。
冷たい、という生易しいものではない。
無数の針で全身を刺されるような、鋭利な冷気。
「っ……」
思わず肺の奥がびりびりと震え、吐き出した息が一瞬で白く凍りつく。
目の前に広がるのは、見渡す限りの銀世界。空の青と雪の白、そして木々の黒い影。それ以外の色が世界から消失していた。
空港からバスで青森駅へ降り立つ
乗り換えた旅館のバスは、市街地を抜けると山道へ入った。
標高が上がるにつれ、車窓の両脇には雪の壁が高く積み上げられていく。
「すごい……」
ガラス越しに触れた冷たさに、真司は思わず声を漏らした。
運転手がバックミラー越しに、にやりと笑う。
「お客さん、ここらじゃまだ序の口ですよ。山はもっと深い」
バスは白い回廊を進む。まるで、現世から切り離された異界へと運ばれていくようだった。
やがてバスは、深い雪に埋もれるように建つ一軒の木造旅館の前で停まった。
屋根からは大人の背丈ほどもある巨大な氷柱が何本も下がり、鈍い銀色の光を放っている。
玄関の引き戸の隙間からは白い湯気が溢れ出し、ツンとした硫黄の香りが、澄んだ冷気と混じり合って鼻孔をくすぐった。
ここだ。ここに来たのだ。
靴を脱ぎ、一歩足を踏み出すと、磨き込まれた古い床板がキュッ、と音を立てた。
長い廊下は薄暗く、数百年の時間を吸い込んだ柱や梁が、静かに呼吸をしているような気配がある。
その廊下の奥から、ふと一人の女性が歩いてきた。
歳は三十代半ばだろうか。艶のある黒髪をセミロングにし、飾り気のない無地のダウンコートを羽織っている。
すれ違いざま、視線が絡んだ。
深い湖のような瞳だった。
彼女は何も言わず、表情ひとつ変えず、わずかに顎を引いて会釈し、そのまま通り過ぎていった。
笑顔も、愛想もなかった。
だが、その静謐な佇まいが、なぜか真司の心に冷たい棘のように残った。




