始まり――出会い――
桜の花びらが宙を舞う。俺が窓から見る景色の全てを覆いつくし、空気の色を薄い桜色に塗り替えた。まるで蛍光色のネオンが、この真昼間から妖しく煌々と輝いているようだった。
”あれ”から季節は一周し、俺は、『俺から私』となって、電車通学一時間かかる私立高校へと進学した。元から顔は整っていて、肉体はそれなりに華奢なのが功を奏したのか、俺は女生徒用の制服を違和感無く着こなす事が出来ていた。
偽乳を二枚重ねで装備し、そしてコルセットで身を包む。カッターシャツを着て、可愛らしく新入生を示す赤いリボンを結び、その上に紺色のブレザーを羽織る。下には腿まで来る来るオーバーニーソックスに、スカートを軽く膝に掛かる程度に履く。俺はそれを洗面所で幾度と無く確認してから、大きく息を吐いた。
――これから三年間、俺は俺と言う俺を殺して、少女、『杉林瑞希』になる。”私の分まで”と言われたが、俺はたかが一年と一寸で二人分の人生を歩む事は不可能だという結論を導き出した。どちらにせよ、こんな取るに足らぬ人生経験を持つ一男子が、出来るはずが無いのだ。
そして、高校を卒業する頃には、どちらにせよ肉体が彼女で居る事を許してくれないだろう。だから俺は、彼女があれほど楽しみにしていた、恐らく十代で一番大切だと思われる時間を、今は居ない彼女に使う。それが彼女に対して俺に出来る精一杯だった。
彼女が、その時間存在していた。それを、俺は刻みたかった。
学校側は俺の熱意に折れたのか、了承してくれたようだが……。
「正直、不安だ……」
本当にこれでいいのか? という疑問が、不安となっていつまでも俺に纏わりついてくる。だがもう退路は失せているから、愚問にしかならないのだが、どうにも、胃がキリキリと痛み続けるのだ。まるで、あの日を思い出しているかのように。苦痛はあの苦悩を、思い出させていた。
しかし考えても何が始まるわけでもない。俺はこれから瑞希を演じ、彼女が今までそうしたように、勉強も運動も、その全てを完璧にこなさなければならない。顔は、自分で言うのも嫌なモノだが、中の中くらいだから当たり障りは無いはずだし、肩に掛かる程の長い髪が女の子らしさを演出してくれるだろう。声も、よく電車の中で聞く、マナーを知らない下品な笑い声よりは遥かにマシだろうと思えた。
だから俺は大きく息を吐いてから家を出て――決意を固め――玄関に鍵を掛け、俺で居られる最後の時間を自分で終わらせた――。
俺――否、私、としておこう。俺は今から私なのだ。寝ても醒めても熱しても冷めても、俺はこの三年間”杉林瑞希”個人にならなければならない。それを俺が決めた。だから、守らなければならないのも、この俺なのだ。だから明瞭と確固と、完璧それをやりきらなければならない。故に俺は、ケジメをつけようと、その道中で大きく頷いた。
背後から追い抜くように通り過ぎるスーツ姿の男が、若干不審げに私を見た。が、それを気にする余裕は無い。その意味はない。どうしようもない。
「やるしかないんだ」
私の瞳の炎は燻っていた。
――最寄り駅は、自宅から十分ほど歩いて到着するローカル線である。電車賃はそれ故に高いが、仕方が無いとしか言い様が無いし、私自身、その料金設定に対して擁護する気も無かった。
買ったばかりの定期を駅員に見せ、改札機を堂々と素通りする。私は胸を逸らし、革靴の底で人造石を叩いて高らかに音を鳴らしながら、数分と経たずに来るであろう電車を待つべく、ホームへ急いだ。
予想以上に人が込み合っていて、ホームに到着するまで、人にぶつからぬ様精神を張り詰めるだけで私の心は磨り減っていた。この調子でいくと、私は、恐らくあるであろうクラスでの自己紹介で力尽きてしまいそうだが……頑張るしかない。
そういった精神論でしか、私は乗り越え方を知らなかった。
『間も無く――行き電車が……とォ着、しィます』
コブシの効く、滑舌の悪い駅員の声が雑音混じりに響き渡る。私はなるべく人の少ない電車の尻が到着する辺りに移動して、ソレを待った。そして騒音を掻き鳴らし、ブレーキの甲高い音を響かせて、その無数の命を乗せる巨大な鉄の塊は、まるで一つの生命体の如き存在感を持って現れた。やってきた。
私の運命を決するソレが、私の未来の分岐を曖昧な形から確かな輪郭を描かせる事になる電車が、扉を正面において、私の前で停車した。
口で表現するのならば『ぷしゅう』と言う、張り詰めた空気が放出されるような音を出して、扉が開いた。勿論、こんな何も無い駅に降りる人間がそういるはずが無く、別の出入り口から一人か二人出るだけで、後は残った者たちがぞろぞろと入り込む。私はその先頭に立って、真っ先に空いている席に座ろうとしたが――気がつくと、私は押しに押されて、踏ん反り返るように席に腰を落として新聞を広げる中年男性の前に立っていた。
扉が閉まる、音がする。
私は慌てて頭上のつり革に手を伸ばし、手提げのカバンを握る手に力を込めた。
電車が大げさに揺れてから、徐々に進み、そしてやがて勢い良く窓の向こう側の景色を早送りにしていた。
――胸が高鳴る。胃が痛い。膀胱の上辺りが妙に痛んだ。
誰かが、周囲の誰かが見ているような気がする。視線を感じる。それを気にし始めた途端に、私は足元から太腿、そして尻からくびれ、首筋に掛けて舐められているかのような錯覚を覚えた。無論、それは私自身の自意識過剰気味の妄想に過ぎないのだろうが……息苦しかった。
女に、女の子に、女性になってみて初めて分かる、妙な威圧。汗が額から頬を伝い、首筋から服の中に垂れる。
今は桜の咲く季節の事である。冬の如き厚着をしている私には、密集が故の蒸し暑さや、元々の、割合に高めの気温は少々堪えた。ソレが為だろうか。私は早くも疲れていた。
ざわざわと騒ぐ車内。駅に止まるたびに増える乗客。私の身体はその都度人波に揉まれて、
「……っ」
誰かの、小さな悲鳴を聞いた。
近くに居るであろう女の子の声であった。恐らく彼女も、新一年生でこの満員電車になれて居ないのだろう。私は、「既に一本早い電車に乗ろうと考えているのだ」等と妙な優越感を、声の主を探しつつ、その彼女に対して浸っていた。が――とある瞬間、何気ないその刹那、私の思考は、視線は、ある一方向で膠着した。
男の武骨な手が何かを掴んでいた。
――何かとは。
私は自問に答えてやる。それは中身の有るプリーツスカートだと。灰色に紺色のチェックが入る、丁度私が履いているような――恐らく同一の――スカート。否、目的はそのスカートではなく、その中身。その尻であろう。
その太い指は繊細に、尻の谷間に擦りつけられていた。中指が忙しなく動き、残りの指はその感触を味わうようにその肉を揉みしだく。それだけで、スカート越しにも臀部の、女の子じみた柔らかさが容易に想像できて――吐き気を催した。
俺は――私は、こんな変態と同等の思考を持つ男に殺されたのか、と。
思い出すと酷く情けない。そうだ。”俺”が付いていながら、情けないことだ。悔しい。それは法の裁きでは到底足りるものではない。満足できるものではない。許せるものではない。
爪を引き剥がし、歯を引き抜いて皮膚がズル剥けぬ程度の力で頭髪を引っ張り抜く。死に至らぬ程度の殴打をかまし、肉をほんの一寸ずつそぎ落とし、言語機能を失わせた上で生きる気力を削ぎとって、殺してくれと懇願してからが――本番である。西洋の拷問具が良いだろうか。奴への裁きは、絶対なる権力と力を持つ”俺”が行使しなければならない。
が――あの日から一週間後、そいつは無事お縄に付く事になるが、余罪の存在が認められたために、確かな刑罰は、未だ下っていない。
――私は其処で正気に戻った。気がつくと、その視線の先ではピンク色の布が今正に弄られているところであった。
どうする?
助けるか? 罪無き少女に対する痴態から。
この私が? この身動きすらも苦しい混雑から移動いて?
私も無事で? 仲間が居るかもしれないのに。
手を出す? 腕を掴む? 声を出す?
否――。
人ごみを掻き分け、手を伸ばす。自分の立つ空間を維持するだけで精一杯の乗客は皆一様に不快感を露にするが、俺は迷わず、中肉中背、禿げ掛かった頭の持ち主であるサラリーマン風の男の背後に立ち、手を、伸ばした。
「へっ、いいケツしてンなぁ? 誘ってんのか? あぁ?」
それに気付き、思考し、実行に到るまで十数分が経った。そして導き出す、私の彼女に対する救出法は――痴漢返しであった。
私はそのまま、出来る限り地声の、最も低い声で、男の耳元で囁き続けた。それはそのまま男の声と、恐らくその気があるように、どこか艶のある湿っぽい声となる。そして構わず、彼がそうしたように、だらしなく垂れる尻の肉を揉み、その筋に中指を添わせた。
男の肩が、びくりと弾む。私は構わず中指を折り曲げて、その汚らしい尻を刺激した。
――死にたくなる。虚しい行動の最中に溢れ返るその声が心の中で一番大きくなった瞬間、俺は男の尻を力強くつねっていた。
気がつくと、男は小さな悲鳴を上げていて、それから逃げ出すように、人を掻き分け遠ざかっていく。そして間髪置かずに、割合に大きい衝撃と共に電車が停車して――下車する人の群れに乗じて、男は姿を消していった。
――痴漢とは、実際されると妙に怖くて気味が悪く気持ちの悪いものである。だから、例え女子高生に痴漢してしまうような男でも、自分がその相手の立場に立ってみると、それが十分に、否、自身が加害者であるためにそれ以上の恐怖を覚える、のであろう。私は浅はかにそう考えて、実行した。
私はそれから、めくれるスカートを直してやってから、その場を離れようとした。が、スカートから手を離そうとしたその瞬間、手首は掴まれ、自由を奪われる。私は目を剥いて手を掴んだ主を見ると、それは目の前の、痴漢被害者の少女だった。
『間も無く――駅、とォ着、しィます。……物、ない様、ご注意……さい』
滑舌の悪い駅員は私が降りるべき駅の名を聞き取りにくく、ノイズ交じりに放送して――私は彼女の手を振り払い、電車を後にした。が……。
「ま、待ってくださいっ!」
人を蝶のように避け、舞台狭しと動き回る私の背後から、必死さ満点の声が聞こえる。だが改札まで僅か数メートル。私は待つか無視するかをコンマ数秒で考え、迷わずポケットから定期券を抜き出した。
鉄砲水のように、改札口から人が溢れ出る。私はそれに乗じてプラットホームから切符売り場へ、そして駅の西口へと脱出する。其処まで来ると人波の多くはスーツ姿や、制服姿が多くなった。そして人波と言うのもおこがましくなるくらい、まばらになっていた。
――しかし。
私は歩きながら、膝の前で両手で掴む手提げカバンを片手に持ち換え考える。やっぱり今は、”春”なんだなぁ、と。変態も変質者も不審者も、暖かくなるから出てくるのか、開放的になる季節故なのかは分からないが、そういった代名詞である所以が、理解できた。
だが、春は嫌いではない。嫌な思い出を思い出すことはあれど、この爽やかな空気は、俺――私を満たしてくれる。絶望を感じたその直後から、新たなスタートを、そのラインを見せてくれる。背中を押してくれるのだ。
桜の花びらが舞い散る景色の中、駅前の広い広場を見て足を止める。都会的で、だが歩道と車道との間に木が無数に並んでいるのが見えて、どこか自然的でもあった。
「いい場所だ」
無意識に呟いた私の口は、半ば同時に、自分の世界から外の世界へと意識を引きずり出した。声と一緒に、この魂は外の世界に触れたのだ。
――ここから伸びる商店街を抜け、住宅地から十分程歩けば目的の場所である。その所為か、この駅がローカルと大都市近郊に繋がる幹線を統合しているからであろうか、自身と似た、あるいは同じ制服を着込む制服姿の男女の数が増えていた。だからか、この場所で立ち止まっていても、私には誰も注目しない。
それはつまり、私は一女子として認められていると言う事であろうか。この容姿が、確かに女の子たる姿を持っていると言う事なのだろうか。ならば、もし都合よく捉えても仔細ないと言うのであれば――これ以上無いくらいに、幸先が良い事だった。
が――そう思えたのは私自身、つい先ほどの、被害者から言わせれば所謂ところの”事件”を忘れていたからである。
「あ、あのっ」
卸したての革靴が地面を叩くような、硬く高い足音が肉薄する。
――背筋が凍り、記憶が蘇る。酷く鮮明に、まるで遥か昔の出来事であったかのような錯覚を覚えて、私はつい数分前の過去を思い出した。
柔い肉を溢れんばかりに鷲掴む武骨な手の甲。電車が止まるたびに、衝撃が慣性に従って、中にしまいこむその全てに衝撃を与える度に揺れて、その密着度は如実に増す。鼻を衝く加齢臭が偏見を抱かざるを得ない程の悪臭となって周囲の大気を汚染する。私はその西洋の怪物が如き中年男性の背後に迫って、彼と全く同じ事をした。
男の声で。男の手つきで。本来の”俺”がしない、するべくもない行動を、俺の姿で。そして男は退散して――。
「あ、あのぉ……貴女、ですよね……? あの時、さっきの電車で、私を助けてくれたのは……?」
気がつくと目の前に居た。
自分よりも頭一つ分下程度の身長を持ち、栗色の髪がふわふわとウェーブを描く、可愛らしい女の子が。目が大きくクリクリとしているのがまるで小動物的で、明るさが腹の底から滲み出ているようだった。
身体は小柄で、だというのに嫌味なまでに主張する胸は制服の上から形が分かるくらい豊満だった。
私よりも――当たり前だが――女の子らしくて、そして恐らく今後学校で人気者になること間違いないであろう容姿を持つ彼女に、何故だか敗北感を覚えた。別に上など目指した覚えは無いのに、先ほどまでの、歌でもひとつ歌いたいくらい絶好調なハレバレとした気分はいつのまにか消え失せ、そして何故だか、まるで反射的にこの首は横へと振られていた。
「さぁ? 何の事だか一体……。人違いだろうけど、誰か探しているの?」
精一杯の裏声は、果たして女性のものとなる。ならなければ私は既に目指すものを諦めていたが、それは運命か遺伝子か、違和感無く女の子らしかった。
しかし、彼女は食い下がる。以前と変わらぬ不安げな表情で、眉間に悲しそうな皺を寄せたままで、私を上目遣いに見たままで、
「し、しらばっくれないで下さい! その髪、顔、背丈、私は見たんです。この網膜に焼き付いて覚えているんです。既にその情報は遺伝子に組み込まれ後世に伝える準備は万端です」
「とんでもねェ英雄扱いだな」
「……?」
「あっ、いや……」
不意に出たもう一人の私の口調に、声音に、彼女は何か聞き間違えたのかと首を傾げた。私は思わず口を手で押さえ、それから精一杯の微笑みを見せてから――心中で大きく溜息をついた。
出来れば話題に上がらぬ程度で、仲の良い友人を作って平穏に過ごしたかった。何事も無く、”これ”をばれずに三年間を貫く自信はあった。だからそういった事を半ば信念に、志にして、朝目覚めると同時に決意を固めるために三度そういった意味の言葉を文章にして復唱してきたのだが……。
彼女は恐らく、今日の取るに足らぬ事をまるで命の恩人が如く誇張して喋繰るだろう。そして少なからずとも一定の間注目を得る事となる。気分は悪くないが、それは望むものではない。出来ることならば、この額を地面に擦りつけ頭を踏み付けられ、糞を踏みにじった靴裏を綺麗になるまで舐めてでも回避したい事象であるが、まず始めに、その懺悔的行為を許してくれる人物が居ない。だから殆ど回避不能の一撃必中、必殺の事柄であった。
今までの経験 が足りなかったのか――否、これは所見殺しである。人ならば、ある一定以上の勇気と常識と良識を持ち合わせる人間ならば、恐らく確実に取ってしまう行動を、常識的に取ってしまった。それが却って自分自身に禍となり返ってくる。
誰も予測し得ないし、自分の行動は正しいと信じきってしまうのが、敗因であろう。
――このままこれが噂のバッドエンドかと視界を黒く染めつつある私の腕が強く引かれた。
思わず身体が揺れて、雪山で眠りかけ、仲間に起こされたかのように、私は慌てて目を剥いた。眼下の彼女は酷く潤っていた。それこそ、涙が溢れんばかりに。
「その制服……私と同じです。って事は、私と同じ学園ですよね? 貴女……そして同じ路線の電車に乗った……」
「……、何が言いたいの?」
私は思わず、彼女から出るであろう答えを口にしようとして言い淀み、そして促す。私が考えた返答にしては余りにも強引過ぎるし、常識外れすぎたから多分間違いだろうという不安もあったし、仮に正解していたとしても、そこから彼女の意思を捻じ込まれそうな予感がしたからだ。
別に彼女は悪い人間と言うわけではない。寧ろこの上ないくらい純真そうだし、容姿も可愛らしい。その線で行けば最上とも言える彼女だ。だからこそ、余り付き合いたくは無いのだ。悪く言えば、目立ちすぎてしまう。ソレは即ち、不必要な詮索を生み出してしまう。
「ここで会ったも何かの縁……これから私と、仲良くしていただけませんか?」
彼女はここぞとばかりに手を伸ばす。頭を下げ、まるでどこぞのテレビ番組の告白シーンの如き様相だった。
緊張する。胃が痛む。心臓が張り裂けそうなくらい激しく鼓動を打ち鳴らした。呼吸が乱れ、汗が吹き出る。腕が震えて――無意識に、私の右手は彼女の手へ、連動する様に引き上げられていた。
止めろと私の理性が叫ぶ。だが、断る理由が見つからなかった。そして此処で断れば、彼女は付きまとうだろう。それは出来る限り回避した。ならば穏便に済ますか? 答えは心の中で大きく叫ばれた。
「事情が飲み込めないし突然すぎるし不躾だ」
けど。私はそう続けると、地面と水平になる彼女の上半身が引き上げられた。彼女の整った、少女少女している顔が、私に注目した。注視した。緊張した。
「ま、それは追々、ね」
私は短く息を吐く。力が尽きる寸での所で敵兵の刃がこの首目掛けて振るわれるのを見て、死を覚悟するが潔さで、私は力強く、彼女の手を握り返した。ぱちんと軽い音が鳴って、びくりと震える彼女の振動が伝わった。
肉の柔さが、やはり女の子なんだなと思わせた。その暖かさが直ぐに手のひらに汗を欠かせるが、果たして本当にそれが高い体温の所為なのか、私には定かではない。
――そして私はまるで噛み合わぬ会話の中、半ばなし崩し的に彼女と友好を結んだ。
「私は『小和瀬光』。よろしくねっ」
彼女は持ち前か、それとも私と友人の関係になったからか、先ほどの今にも消えてなくなりそうな元気の無さが嘘のように明るくなって、私の手を引いて駅前から商店街へと引っ張った。私はそれに抗う気力も抵抗する元気も、今の、これまでのやりとりで根こそぎ奪われて――ただそれに従うしかなかった。
これが私の、一つ目の分岐点だった。




