振り上げられた剣
彼が大人数を相手にしながらも、誰一人殺していないことを、レナエルは間近で見て気づいていた。
そこかしこに転がっている男たちに刀傷はあっても、致命傷はない。
すべて体術で昏倒させてきたのだ。
しかし今、彼はリーダー格の男を手にかけようとしている。
騎士に叙任されてすぐに、敵の将軍の首を取ったと言われる男だ。
人の命を奪うことなど、些細なことなのかもしれない。
そう思うと、ぞっとした。
「祈りを捧げる時間ぐらいは、くれてやろう」
彼は俯く男に厳かに言うと、剣をゆっくりと振り上げ、頭上に構えた。
剣の動きが止まり、一拍後に放たれた、強烈な殺気。
「ジュール!」
「アルノー!」
レナエルと同時に、彼女の刃に屈して横たわる男が、知らぬ名を絶叫した。
その声も空しく、無慈悲に振り下ろされようとする刃に、レナエルは顔を背け硬く目を閉じた。
——ガッ!
鈍い音が響いたかと思うと、その後は、激しい雨音だけが聞こえてきた。
レナエルがこわごわ目を開けると、座っていた男の身体が、ゆっくりと前に傾くのが見えた。
しかし、その身体は赤く染まってはおらず、首は……身体に繋がっているように見える。
何が……起こったの?
想像とは違う光景に呆然としていると、ジュールは以前見たときと同じような美しい所作で、長剣を腰に戻した。
薄暗い雨の中では、彼の濡れたダークブラウンの髪や鋭い瞳は、闇色に沈んで見える。
引き締まった肉体に貼り付いた白いシャツが、所々うす赤く見えるのは、何度も浴びた血が雨に叩かれたためだ。
それは凄絶な様相であったが、レナエルは魅入られたように、ゆっくりとこちらに歩いてくる彼を見つめていた。
脇腹を血に染め横たわっている男もまた、近づいてくる騎士に顔を向け、身体を震わせていた。
しかし恐怖で戦慄いているのではなかった。
「ああ……黒の、騎士。あ、なた……は……」
男はあのとき、仲間の最後を見届けようと、必死で目を凝らしていた。
しかし、黒隼の騎士が長剣を振り上げた後、強烈な殺気とともに仲間の後頭部に打ち付けたのは、ぎらつく刃ではなく、剣の柄。
黒隼の騎士は仲間の首を取らなかったのだ。
情けをかけられることは屈辱だと頭で理解しているが、それでも彼は仲間の命が救われたことが嬉しかった。
ジュールは無表情のまま近づいてくると、男の襟元を掴み、乱暴に引き起こした。
男は全く抵抗しなかった。
涙を浮かべた目で騎士を見つめ、かすれた声を絞り出す。
「感謝……し、ます。アルノーを……」
その言葉を最後まで言わせず、ジュールは男の腹に拳を叩き込んだ。
男はうめき声を上げると、濡れた草の上に崩れ落ちた。
殺すつもりなんて、なかったんだ……。
レナエルは、へなへなと草の上に座り込んだ。
ぺしゃりと音がして、水しぶきが飛んだ。
草や土から、冷たい水がズボンにしみ通ってくるが、充分にずぶぬれだったから、今さらどうでもいい。
放心したように、刺すような粒を落とす鉛色の空を見上げる。
「大丈夫か?」
一旦立ち上がったジュールが、レナエルの前に屈んで顔を覗き込んだ。
「怪我は?」
「……ない。多分」
「そうか」
ジュールは左手で、右袖の端を引っ張って伸ばした。
何をするのかと見ていたら、いきなり、曇りガラスでも拭くように、濡れた袖でレナエルの顔をざっと撫でた。
「……ぶ」
肌にざりっとした感触があったから、顔についた泥を落としてくれたのだろう。
だとしても、こんな雑な扱い……と、文句を言おうと思ったが、ぎゅっとつぶった目を開けてみると、ちょっと吊り目の黒い瞳が少し優しく見えたから、言えなくなった。
「危険な目に遭わせてすまなかった」
意外な言葉にきょとんとしていると、彼は真っすぐに唇を結んで、辛そうに目を伏せた。
彼のこんな表情も意外だった。
「え? でも、これはジュールのせいじゃないから」
「いや。あの林に敵が潜んでいたことに、気づけなかった。王都に近くになって、油断したのかもしれない。申し訳ない」
あれだけ雨が激しければ、人の気配など分かるはずがない。
そう言おうとすると、膝の上に置いていた右手に、彼の手が触れてきた。
雨に濡れてひやりと冷たい大きな手が、手首の上に重なる。
な? な? まさか、ジュールもギュスのようなことを……?
あまりにも彼に似合わない行為を想像して、内心パニックになっていると、彼は掴んだ手首をそっと持ち上げた。
「ぎゃっ!」
右手首に激痛が走り、みっともない悲鳴を上げると、彼が軽い溜め息をついた。
「やはりな……」
一体、いつ痛めたのか分からなかった。
ずっと長剣を構えて防御していたが、実際に、大きく剣を振るったのは最後の一度きり。
しかし、その後も同じ腕で、敵の喉元に剣先を突きつけていた。
痛みなど、今の今まで、全く感じなかったのに——。
「い……痛いっ! 痛い、痛いーっ!」
彼はレナエルの手首を軽く握ったり、指で押さえたりして、怪我の様子を丹念に調べている。
少し手首を動かされるだけで、ずきりと痛みが走り、レナエルは顔をしかめた。
「たいしたことはなさそうだ。後で、固定してやる」
彼はほっとした様子で、そっとレナエルの手を戻した。
「いいか、自分の体格に合わない得物を振るうときは、全身で扱わないとだめだ。片腕で、強引に手首を返すようなことをするから、こうなる」
彼をちょっと見直したところだったのに、今度はお小言だ。
レナエルはむっと眉を寄せた。
「それくらい、分かってるわよ。ジュールの剣を構えさせられたとき、さんざんしごかれたもん。でも、最後のあれは必死だったから、しょうがないじゃない」
「あのとき、お前が足を滑らせたりしなければ、もっとあっさり片がついたがな」
彼の声には、からかうような軽い響きがあったが、レナエルはその言葉にはっとした。
あのとき、彼をあれほどの窮地に追い込んでしまったのは、自分自身だった。
もし、自分が伸ばした剣が、敵に届いていなかったら、濡れた草に横たわっているのは、彼の方だったのかもしれない。
命もなかったかもしれない。
そう思うと、身体が震えてくる。
「ごめ……ん、なさい」
この手首の痛みは、なんと軽い代償だったのだろう。
レナエルは右手首をぎゅっと押さえると、唇を噛んでうつむいた。
首筋や肩を打つ雨粒が、妙に痛い。
地面から身体に上ってくる水が氷のように冷たい。
「何を謝る」
頭の上に、ぽんと重みがかかった。
その重みはレナエルを労るように、慰めるように、ゆっくりと動く。
「よくやったな。お前が口先だけのただの小娘だったら、いくら俺でも、あの人数相手にお前を守り切ることはできなかっただろう。お前は機転が利くし度胸がある。動きもいい。もしお前が男だったら、いい騎士になれるだろう」
上目遣いで彼の様子をちらりと窺うと、濡れた前髪の間からのぞく黒い瞳は、鋭利に縁取られているにも関わらず、穏やかで温かだった。
頭の上に乗せられた大きな手は、かすかに温もりを伝えてきている。
「……それって、褒めてくれてるの?」
だから、調子に乗ってふざけた口調で言ってみたら、頭のてっぺんを軽くはたかれた。
「勘違いするな! 褒めてはいない。男だったら良かったと、言っているだけだ」
急に不機嫌そうな顔になった彼は、視線をそらすと立ち上がる。
「先を急ぐぞ。こいつらはすぐには目覚めないだろうが、なるべく遠く離れておいた方がいい」
「うん」
レナエルは差し出された手を取って立ち上がろうとした。
が、足が動かない。
腰から下が、まるで海綿のようにふにゃふにゃで、全く力が入らなかった。
「え? わっ、わっ!」
焦って、ジュールの手をすがるように強く引っ張ると、ぎろりと睨まれた。
「おい、何をふざけている」
「あの……、足……とか、腰とか、力が入らない」
「なんだ、腰が抜けたのか」
「……みたい。どうしよう」
なんとか立ち上がろうと必死にもがくが、上半身がばたばたするだけで、下半身はちっとも言うことをきかない。
初めての経験におろおろしていると、その情けない姿に、ジュールがくっと笑った。
「ったく、世話の焼ける」




