1-31
想像以上の方に読んでいただけて、非常に驚いております。感想に個別にお返事できませんが、皆様からの評価、感想の重みをひしひしと感じています。本当にありがとうございます。
おおよそ30冊ほどの、内田様蔵書の蘭書の解読、あくまでも翻訳ではなく解読に、1年と少々を要した。その間の帰省の回数は2回だった。回数が激減したのはきちんとした理由がある。父に叱られたからだ。
お前が仕えているのは内田様だ。ウチから養子に出したも同然。それを決めたのはお前自身だ。お前が大事にすべきはウチでもなく、お前自身でもなく、内田様だ。勘違いをするな。この家はいずれ弥一が継ぐ。お前の家ではない。
衝撃だった。自分の中に甘えがあったことに、改めて気付かされた。前世の基準でまだ子供、前世の気分で帰省、弟子という言葉の意味、そして、父が俺に語った覚悟、その全てを甘く見ていた。深刻さが足りなかった。更にだ、珍しく母に府中まで付き添ってもらいながら、した会話が衝撃的だった。
内田様の名前は、肥大化した噂を打ち消しても尚、強大なものだったらしく、父には様々な、それこそ昇進的なお誘いも含めてあったっぽい。父が全てを語ることはなかったらしいから、母の推測もあるとのことだったが。それらを全て断ったらしい。分不相応な誘いに乗って、それを継ぐ弥一に迷惑をかけるわけにはいかん、と。また、すでに美祢に嫁入りの話すら来ている、と。
なんとスジの通った男だ。驚愕した。どうしたらそこまで、徹底的に無私を貫けるのか。俺には覚悟が足りないと痛感した。だからこそ、解読作業をやりきる、それは責務だと考え、そして、終えた。
次は何をしようか、それを悩む間もなく、次の指令が出された。その指示に出て来た名前、その名を聞いて、この世界は史実の江戸かもしれない、という覚悟も初めて出来た。「マンガ日本の歴史」に出て来た名前だ。
—----------------------------------
side 内田五観
おかしい。藤二が凡庸な子だと?箕作殿の選んだ弟子こそ人を見る目がないのではないか?そう言いそうになったのを、何とか堪えた。長崎から来た、オランダ人とも話した経験もある、意欲のある若者だと聞いていたからだ。ワシも会って、意欲も向上心も感じた。だからこそ、大事な藤二を預けたのに。確かにまだ子供であるのは違いない。それだけならまだ良い。やる気を感じない、覚える気がない、だと?蘭語に興味がないのか?洋算にあれだけ興味を示すのに?おかしい。
はっはっはっ、藤二のヤツ、やりおる。聞いた話だけでも凡庸な子ではないではないか。箕作殿も怒っていたが、これぞ藤二。確かに弟子が教育方針に意見を言うなど、聞いたこともない。ワシでも怒る。だが、藤二は藤二なりに考えての発言だろう。アイツが突拍子もないこと言い始めるのは、アイツなりに考えてのことだ。
わずか三ヶ月で家庭教師を延長したくないだと?決して安くない給金を出している。杉殿も根気がない。蘭語の習得はとんでもなく根気のいる作業ではないか。それを早々に逃げ出すなんて。杉殿が弱っている?箕作殿の鍛え方が悪いのではないか?まだ訳し方が分からない語を次々と訳していく?流石にそれはないだろう。藤二、今度は何をした?ワシと洋算の話をしておる時はいつも通りなのに。
なんと、なんと恐ろしいことをコイツは言ってくるんだ。本こそが間違ってる可能性がある、だと?そんなことあるわけないだろう。だが、聞いていると一理ある。算法書の写本をしている連中が、算法を必ず理解しているかと言えば、そうではない。「写本」することを生業としているだけ。算法を「理解」することが仕事ではないのだ。相手が見たこともない文字、記号であれば尚のこと。そう考えれば合点がいく。急ぎ確かめに行かねば。
なぜこんな早さで読んで行くんだ?どうすればこの早さに。引退後、腰を据えて読み解ければ、と思ってたワシの蔵書を次々と。気圧?電気?触媒?法則?積分?これか、杉殿はこれを食らったんだな。知ってるワシでも弱る。藤二が言ったことを確認する方法も、確認する術も思いつかないまま次々と持ってくるな。そういえば最近、日野にあまり帰らんな。良いから帰れ。少しは休ませろ。次から次へと。
いつになったらこの猛攻は終わるんだ。そうだ、箕作殿だ。箕作殿に杉殿を再度派遣してもらおう。箕作殿、逃げないでくれ、箕作殿、待ってくれ、箕作殿…。誰か相談に乗ってくれ………
ようやく箕作殿を捕まえた。杉殿に聞いてくれるそうだ。期待するな?そんなわけ無かろう。師匠からの依頼だぞ。そんなヤツ、藤二以外にいるわけなかろう。
いた。藤二以外にもいた。二度と関わりたくない?いやいや、困る、こうしてる間にもアイツはきっと持ってくる。何でアイツはこんなやる気に満ちてる?からくり人形のように、淡々と。怖さすらある。
ヤツめ、どっからどうやって嗅ぎつけた?相変わらずこういうことだけは鼻が効く。おかげで毎日毎日帰り道を変えねばならない。ヤツは危険だ。
ようやく杉殿が了承してくれる算段が付いた。良かった。それを待っている間にも、藤二は読み終えた本をどんどん積み上げているぞ。ホッとしたのも束の間、ずっと逃げてたヤツに捕まってしまった。屋敷の前で隠れているなんて、卑怯な。




