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「藤二、オマエ蘭学を身に付けろ」。
うん、そうだよね。やっぱりそうなるよね。その覚悟は出来てたよ。最近、幕府の仕事が絶好調っぽい。そっちばっかりに時間を割いてる。おかげで塾生から「もう少し先生に教えを乞いたい。藤二からも言ってくれないか」みたいな伝言を任されることも少なくない。曖昧な返事しとくが、いい加減ちゃんとしてくれないと、今度は俺がヘイト集めることになりかねない。独占してる、だの、アイツだけズルい、だの、やっぱりアイツは、みたいな展開、予測可能だろ。
その絶好調の理由が、蘭学書の数式を理解できる様になったことが原因なのだ。なんでも年単位で分からなかった数式が分かったとか、他の人が分からない数式を教えてやったとか、長年放置されてた問題が解けたとか。
そしてタチが悪いのがその後。「藤二、これ美しいか?」、「こっちよりもワシの方がより美しくないか?」とか。ま、聞いてる人が聞いたら、誤解してもおかしくない響きであるのは事実だ。
どうもこの世界では、海の向こうの算術、という意味で「洋算」と読んでいるらしい。じゃあ、この国古来の算術なら「和算」だろうって、俺の中で勝手に命名した。和菓子、洋菓子なら、和算と洋算で問題ない、はず。
で、始めは自分で書き写した式から、自力で問いて、見比べてってことをしてたらしい。過去に本を書き写したものでもやったらしい。だんだん横着するようになってきた。始めは持ち出しOKの本から始まり、そこから許可あれば持ち出しOKの本を自らの権力により持ち出し、更には持ち出し厳禁の本まで持ち帰る様になってきた。それ、捕まるやつじゃないの?大丈夫?
で、俺が蘭学を身に付けたら、もっとラクに事が進むだろうって考えての、今。いつの間にか、蘭学の家庭教師を手配済みだった。いやいや、それする暇あったらもっと弟子の面倒見てやれよ。とは言え、内田様の気持ちもちょっとだけ分かる。犬じゃねーんだから、待つだけで欲しいもの貰えるわけない、って思ってそうだ。実際、「先生、よろしいでしょうか」って人の相手はきちんとしてる。
内田様は、ホント多忙だ。幕府の仕事、これは公の役目。その他に塾で指導や弟子たちの差配、たまにだが、どっかの藩から人が欲しいと依頼があり、弟子の就職先の斡旋のマッチング、あとは蘭学の自習、多岐に渡ってる。これは私の仕事だ。プライベートな時間はほとんどない。自主的にブラックな環境にしてるのでは、って疑惑はあるが。
オランダ語か。うーん、知らん。ドイツ語と英語が混ざった様な言葉、というのは大学で第二外国語をオランダ語選択したヤツから聞いた覚えがある。でもそれだけ。先入観はない方が身に付くのは早かろう。
わざわざ来てくれるなんてありがたい。どんな先生がくるのかな、と思ってたら、想像よりもずっとずっと若かった。挨拶しようとしたら「…内田様、何のご冗談ですか?先生からの指示で伺いましたが、こんな子供に蘭学を教えろと」。俺の方が若かった。久しぶり、この感じ。
「いやいや、冗談でも揶揄っている訳でもない。この藤二に蘭学を教えて欲しいのだ」。
「藤二です。内田様の内弟子です。よろしくお願いします」。ここはビシッと。
「内弟子のくせに自分の師匠を内田様とはなんと失礼な!」どうも失敗したようだ。
「待ちなされ、杉殿。こやつこそ、ワシが今後洋算を理解するために必要な小僧ですぞ」。買い被りすぎ。
「…もう失礼します。算法で高名な内田様の依頼という事で参りましたが、ここまで揶揄われるとは」。確かに言われても仕方ない外見。
「待たれよ、と言っておる。これを見よ」
内田様が見せたのは、俺と内田様の2人っきりの密会で生まれた、いやいや、語弊が生じる表現はやめよう。各々で解いて、何が無駄で美しいとは何か、を突き詰めてた時の用紙。
「これは?」これだけ見せられても、そりゃそのリアクションだよね。
「ワシと、そこの藤二が解いた問いの、2人分の解だ。字が明らかに違うであろう」そりゃ、数字に慣れてる人間と、漢数字メインだった人では、すらすら具合は違うよね。
「お主が藤二に蘭学を教え、藤二は洋算の考え方をお主に教示できよう」。そんな約束になってんの?
「本当にこの童が?」そう思うよね。
「なんなら今日はお主が分からぬ問いを藤二に見せてみよ。藤二に教えるか教えぬかは、それから決めても遅くはあるまい」えっ、プレッシャーなんですけど。




