明編 ただの言い訳
この世界で生きているのは、俺の家族だけじゃない。だからそれぞれに命のドラマってやつがあるんだと思う。そのすべてに触れることはできないし、共感していることもできない。
際限なくそんなことをしていたら、精神がもたないからな。
寂しそうに微笑う灯を見ながら、俺はそう自分に言い聞かせる。
『実質的にはほとんどペットのように同じ場所で暮らしていながら、<隣人>なんて言葉で区別して見捨てた! 詭弁だ!』
と言われれば返す言葉もない。
だが、どんなに<気持ち>だけはあっても、すべてを救うことなんて現実には不可能なんだということを、俺は知っている。それをわきまえないといけない。俺達の持つリソースは、決して無限じゃない。
どこかで線を引かなければいけない。それは事実なんだ。
まあこれも
『ただの言い訳だ!』
と言われればその通りなんだけどな。
だが、厳然たる事実ではある。その事実を無視して、『すべての命を救う』なんて言うのは、それこそ現実を無視した<おとぎ話>だろうな。
灯も、それは分かってくれている。
それに元々、彼女には冷淡な部分もある。生と死を割り切ってる部分もあるんだ。だから逆に、レッド達やその子供達のことも自分の<餌>と見做しててもおかしくないところを、家族に準じた存在として見ることもできるくらいに高い共感性を持つこともできてるのがすごいとも言えるんじゃないかな。
世の中には、
『犬や猫は可愛がるのに、牛や豚は食べるのか!?』
と批判する人間もいるという。だが、俺はここで暮らしてるからこそ、その批判そのものが大きく矛盾していると感じてしまう。
なにしろ、命というもの自体が、他の命を摂取することでしか生きられないものだからだ。
たとえ、人間にとって必要な栄養分を化学的に合成したとしても、理論上は既に十分それが可能な技術力があっても、人間は今でも牛や豚やその他の<命>を食料にしている。
それは何故か?
キリがないからだな。何故ならば、化学的に必要な栄養分を合成するとしても、それを作る為の<原材料>がやはり元々何らかの<命>だったものだからだ。
動物を食べるのは残酷だから植物をと言ったところで、植物もまた<命>だ。動物はダメで植物はいいというのは、これまた人間の勝手な線引きでしかない。
だからといって植物を食べるのもやめて完全な合成食だけを食べるとしても、その合成食を作る為の原材料が元を辿ればやはり<命>だったりする。
既に死んでいる、その時点ではもう生きていないものを使うのならセーフだと言うかもしれないが、それすら、
『じゃあ、自分達が手を下しさえしなければいいのか? 自分達の手さえ汚さなければいいのか?』
という話になってしまう。実際、そういう批判もあるそうだ。




