蒼穹編 人間(地球人)の生態
これまでにも何度も触れたと思うが、子供は結局、
『親や身近な人間の振る舞いを見て人間としての振る舞いを学ぶ』
だけなんだ。だから、
<表面的な言葉で語られる道理や理屈>
をいくら振りかざしたって親や大人の振る舞いが伴っていなければただの<反発する理由>にしかならない。<躾>なんてのは、
<道理や理屈を形として表すための手法>
でしかなく、しかも適切に用いられなければ逆効果にしかならないのも判明してるんだよ。それがはっきりする以前でも、
『厳しく躾けられたはずの人間が身勝手な振る舞いをすることがある』
のはよく知られたものだったはずなんだ。けれど当時はそれを<個人の資質の問題>として軽んじて丁寧に検証されることもなかったと聞く。だから同じような事例が何度も何度も繰り返されたとも。
まあその辺りは今でもあることなものの少なくとも<好ましくないこと>として認知はされている。認めようとしない人間も少なくないだけで。
そしてその<事実を事実として認めようとしない人間>がいることもまた、
<人間(地球人)の生態>
であり現実なんだ。リアリストならそういうところもちゃんと認めないとな。現実を現実として認めないのはリアリストのすることじゃないさ。
好ましくないことは好ましくないこととして認識しつつ現にあることならどうそれに対処していくかを考えるのが大事なわけで。
サディマのキャサリンへの想いも蒼穹のサディマへの想いも、それを好ましく感じない人間もいるかもしれないが、『それを好ましく感じない人間もいるかもしれない』のを認めた上でどうするのが一番穏便に済むのか考えるのが必要だと思う。『あれは駄目これは駄目』ばかりじゃ上手くいかないことも歴史が証明してるし。
ただしそれはあくまで個人を尊重するのが大前提ではある。個人を蔑ろにしていては不満が蓄積し社会が不安定化することも分かっている。
ここでそれが完璧に実現できるとまでは思わないものの可能な限り目指していきたいとは思ってる。そこはシモーヌもビアンカも久利生も同じ。シオとレックスは社会システムにはそこまで関心もないものの異論はないそうだ。ルイーゼは「鉱物さえ見てられたら他はどうでもいい」そうだが別に社会をどうこうしたいわけでもないから実質的には異論なしだな。サディマも、
「AIに反対されないようなものなら問題ないよ」
とのこと。
とはいえ『異論がないのが当たり前』と考えるのも危険だからその辺りは慎重に考えていきたいと思う。




