キャサリン編 人間は人間である必要もない
電脳化により他者と意識を共有できるようになっても、他者の<考えてること>は読み取れるようになっても、それを『どう感じているか』までは完全には理解できなかったそうだ。
しかし<考えてること>は分かるがゆえに理解できるような気になってしまって、それに基づいた振る舞いをし、かえって相手を追い詰める結果になったりもしたと。
しかも相手の方も、考えてることまで分かってもらえたのにも拘わらず望まれたとおりに振る舞えない自分が許せなくなったり。そして遂には自ら命を絶つ事例まで。
そうなんだ。自分の考えてることまで分かってもらえてるのに結果的には期待に応えられない事実に耐えられなくなると。
その一方で、他者と自身との境界が曖昧になって自我を維持できずに精神崩壊したりという事例も相次ぎ、電脳化は敬遠されるようになっていったんだ。
結局、
『分からないからこそいい』
場合もあるってことだろうな。俺もシモーヌのことは愛しているが、彼女のすべてを理解できているわけでも受け入れられてるわけでもない。
『受け入れようと努力している』
だけなんだ。そしてそれはシモーヌも同じ。俺のことを完全に理解できてるわけじゃない。でも、それでいい。理解できないから<自他>が成立する。<自分>と<自分以外の人間>が存在できる。完全に理解できてしまったらもう自分が存在している意味がなくなってしまうかもしれない。
AIやロボットはデータを共有すれば完全に理解できてしまったりもする。そのまま再現できてしまったりする。もちろん筐体や機体の性能差などがあった場合は『完全に再現』とまではいかないにせよ、その差異自体が些末なことだし微調整を行ってその差異を補正していけたりもする。<個>が存在する必要がないんだよ。
対して人間は電脳化を行ってすら<個>であることから逃れられず、他者との境界線が失われることに耐えられず、電脳化は<物好きの珍妙な趣味>的な存在に落ち着いてしまった。
『個を持たない』
ことはAIとロボットが実現してしまったから人間がそれの後追いをする必要がなかったということかもしれない。
そうだよな。<個>を捨ててしまったら人間は人間である必要もない。たぶん<一目惚れ>なんてこともなくなる気がする。それどころかもしかしたら碧が亡くなったことに対してもなんとも思わなくなるかも。自他が存在しなくなるわけで。
そういうのは違うんじゃないかと思ってしまうよ。




