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陽編 自分自身だけのもの

そうだ。個人がどれだけあれこれ考えたところで世界を丸ごと<いい感じ>に変えてしまうことはできない。それができるなら地球で大きな勢力を持っていた宗教の祖が達成していたはずだからな。


だが実際には、個々の人間は<教え>によって救われることはあっても、全体としてみればむしろ互いに諍いを起こす原因にしかなっていないのも事実じゃないか。


俺は別に<信仰>を貶めたいわけじゃない。個々人のレベルではそれによって救われてる人間もいるのは事実だと思う。あくまで、


『その一方で<宗教戦争>なんて呼ばれる凄惨な衝突を生み出してきたのも事実だろう?』


って言いたいだけだ。それによってどれだけの不幸が生み出されてきたか。戦争にまでは至らなくても人間関係を壊したり家庭を崩壊させたりというのも実際にあったんじゃないのか?


でもそれらは結局、


『自分の考えを相手に一方的に押し付けようとする』


からこそ生じてるものだと思うんだ。そのはずなんだ。自分がその考えによって救われるのはいい。だがそれはあくまで<自分自身だけのもの>なんだよ。自分以外の人間が『自分じゃない』以上は、完全に他者と共有することはできない。たとえ<血の繋がった肉親>であろうとも。


『相手を敬い慮る』


というのは、


『相手は自分じゃない。別の存在だ』


と認めることなんだと俺は実感してる。<自分の幸せ>や<自分が救われた理由>を一方的に押し付けるのは『敬う』でも『慮る』でもない。そんなのはただの<エゴ>だ。生きている限りエゴは切り離せないが、それでもある程度折り合いは付けないと破滅の素だろう。


もちろん俺だって自分のエゴを押し付けることはしている。そう明言もしてきた。だがそれは決して相手を傷付けたいからじゃない。自分だけがいい思いをしたいからじゃない。だったら必要とあれば自分の方が折れるという選択だって有り得るさ。


『自分は常に正しい。間違っているのはいつだって自分以外だ』


なんてことは起こり得ない。『自分が間違っているかもしれない』と認めることこそが<勇気>だと俺は思う。と同時に、


『自分は常に間違っていて、正しいのはいつも自分以外の誰かだ』


なんてことも起こり得ないけどな。なにしろ相手も<人間>なんだから。人間である以上は間違うことだってある。それを認めないのもおかしいさ。


重要なのはそれぞれの認識をすり合わせてその中で何がその時点では適切なのかを探ること。探すこと。その手間を惜しむのは大人として無責任ってもんだろうな。



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