陽編 お互いのため
家族であっても<反りが合わない相手><ウマが合わない相手>というのは確かにいる。『そういう相手とも仲良くしろ』とは俺も言えないし言わないようにしている。
でも、だからこそそれが家族の場合は、
<反りが合わない相手やウマが合わない相手とどう付き合うかの実地演習>
のための絶好の相手とも言えると思うんだよな。学校や職場でもいるだろう? <どうにも苦手な相手>というのが。俺だって『誰とでも仲良く』なんてできなかった。学校の教師なんかは、
『みんな仲良くしましょう』
的なことを言ったりするが、現実問題としてそれは無理だ。互いに人格を有した者同士である以上は、<どうしても仲良くできない相手>というのはいる。
しかしだからといってそういう相手がいるところからただ逃げているだけじゃそれこそ自分の部屋から出ることもできなくなるんじゃないか? それは決して<健全な状態>とは言えないよな。となれば、
『仲良くとまではいかなくても取り敢えず無難にやり過ごす』
のが必要になってくるはずだ。<家族>というのはそういう相手との付き合い方を学ぶのにもちょうどいい存在と言えないか?
陽も和も、鋭や玲やメイとは決して『仲が良い』わけじゃない。なにしろパパニアンにとっては<天敵>そのもののマンティアンなわけで。仲良くしようにももう本能的に噛み合わないものをお互いに感じているだろうさ。
しかし同時に、険悪というわけでもないんだ。それはさっきの様子を見るだけでも分かる。社交辞令的に笑顔も浮かべつつ挨拶を交わす。この時の笑顔も<愛想笑い>とは少し違うだろう。あくまでも穏当にコミュニケーションを図るための自然な表情だ。
陽も和も光が実践していたものの真似をすることでそれを学んでいった。光も鋭とは『仲が良い』わけじゃないしな。妹である明とは仲が良かったんだが、明の息子であり甥にあたる鋭は別に光に対して懐いていたわけでもないし、光の方としても彼が慕ってくれるのならやぶさかじゃないにしても自分から親し気に振る舞うような間柄でもなかった。あくまでも<近所に暮らす親戚>として穏当に関わってきただけだ。必要とあらば笑顔も浮かべるし、気遣いもする。
無理のない範囲で。
でも、それでいい。それで十分だと俺は思う。互いにいがみ合って諍いを起こすよりはよっぽど理に適ってる。『お互いのため』になってる。
社会人として仕事をする時なんかもそれが大事だろう? そういうことなんだ。




