陽編 他者と適度な距離を置く
だからこそ『どっちが優れてる』なんてのは、結局はそれに拘ってる者の<自己満足>でしかないんだろうなという実感しかない。
もちろん大きな功績を残せればそれ自体は高く評価されるべきだと俺も思うし、評価すること自体は悪いことじゃないと思う。だがだからといって、
『相手を下げること自分の価値を高く見せかけよう』
だとか、本質を蔑ろにした<愚か以外の何ものでもない振る舞い>としか思わないんだよ。<実際の能力>よりも<高く評価されること>に主眼を置いてるんだから、これを本末転倒と言わずに何と言うのやら。
加えて、<功績>というもの自体、決して本人だけの力で成し遂げられるものじゃないからな。能力のある者が中心になるのは必須であっても、それを支える者達の存在も同じく必須なのもまた事実。能力があっても周りの人間に恵まれず消えていった者達も多かったはずだ。だから『優れてる』『劣ってる』なんてのは所詮『ごく一部分を見て相対的にどうか?』って話でしかない。
まあ<過剰な自己愛>を持つ人間はこんなことを言ってても、
『負け犬の遠吠えだな』
と嗤うんだろうが、それも好きにすればいいさ。そういう価値観もある意味じゃ<多様性の本質>だしな。実際にその傲慢さでリスクを恐れず突き進み結果を出せるなら人間社会にとっては<必要なもの>なんだし。
ただ同時に、その傲慢さゆえに<返ってくるもの>も大きいだろうから、
『少し弱った時にそれまでの鬱憤が一斉に表面化する』
なんてこともあるわけで、そこは覚悟しておくべきだと思う。だからといって『水に落ちた犬は叩け』なんてのも俺は是認したくないが。
その点、今俺の周りにいる者達は本当に『自分の人生を楽しんでる』のが素直に伝わってきて俺も嬉しいよ。陽や和や麗の姿も見ててホッとする。安心する。
陽が和や麗を支え、和が陽や麗を支え、麗が陽や和を和ませる。三人の関係性についても、『自分だけがいい思いをできればいい』って考えてたら成り立たないものだろうな。
『生き難い社会を嘆く』のなら、まず自らが他者の存在を認め赦し受け止めることを心掛けるべきだろう。それをしない人間が多いから『生き難い』と感じるわけだし。
ただここで勘違いしてはいけないのは、『認め赦し受け止める』ってのは、『無条件に無制限に受け入れろ』ってことじゃない。『他者と適度な距離を置く』のは、<それぞれ別の人格を持った者>にとっては必要なものなんだ。そうじゃなきゃ自我が保てなくなるからな。




