ルイーゼ編 地球人として理解ができる範囲のそれ
そうだ。シモーヌやシオやレックスは、植物と動物という違いはあってもそれぞれ<生物学の専門家>だからこそ<生命活動にまつわるあれこれ>については本当によく知っている。生き物は必ず死に、そして次の命が生まれることを。
生き物が生きている環境そのものを、生き物が生きていられる条件そのものを根底から破壊してしまわない限りはそういうものだってな。
久利生は軍人でありながら医師として働いたことがある経験から、ビアンカも同じく軍人でありながら看護師として働いたことがある経験から、やっぱり<命>というものを見届けてきた<専門家>でもある。
専門家ってヤツは自身の専門の分野にあまりにも深入りしすぎて感覚が麻痺してしまうことがあるとも聞くが、命に関わる仕事をしてる者は生と死の両方を見届けすぎてもう<ただの事象>としか見られなくなってたりすることもあると聞くが、幸い、シモーヌ達はそうじゃなかった。過剰に心理的負担がかからないというだけで、ちゃんと<命に対する敬意>を忘れずにいてくれてるんだ。
それが本当にありがたい。シモーヌ達がいてくれるからこそ俺も正気を保っていられてるというのもあると思う。これは、光や灯じゃできないことだったかもな。あの子達は<地球人>じゃなく<朋群人>だから。メンタリティが根本的に違うから。
実際、光は<姉>として焔や彩を労わってはくれてるが、俺よりもよっぽど本質的に覚悟は完了してる。二人がどうなっていこうともどんな最期を迎えようとも受け止める覚悟をな。俺みたいにこうしてくどくどと言葉を並べて自分に言い聞かせる必要なんてまったくないんだ。
そのタフネスさが、時々、怖くもなるくらいだよ。でも、ここで生きていくなら本当はそうじゃないとダメなんだろうな。俺達<地球人>は、<地球人のメンタリティを持つ者>は、どうしたってこんな風にして自分を納得させていかないと無理なんだ。<死>を遠ざけすぎてしまったから。<命の現実>を遠ざけすぎてしまったから。
シモーヌやシオやレックスや久利生やビアンカは、俺よりはよっぽどそれに近いところにいたから多少は『慣れて』いるだけにすぎない。その<多少の慣れ>が俺にとっては頼もしいけどな。あくまで<地球人として理解ができる範囲のそれ>だから。光や灯とは違うんだよ。
これはどっちがいいとか悪いとかじゃない。『生き物としてそう』というだけだ。それを認めなきゃ共存なんてできないさ。




