ルイーゼ編 記号でしかない
ああそうだ。<民主主義社会>というのは必ずしも、
<理想的な社会形態>
とは限らないんだろう。民主主義を担保するための<権利>や<自由>は、
『自分を律するにはどうすればいいのか?』
を分かりにくくするという一面もあるだろうし。<封建社会>であれば、立場によって『どう生きるべきか』が明確に規定されていることが多く、それこそ思考を放棄して、
<決められた生き方>
に従っていれば概ね大きな問題なく生きていられるんだろうな。
だが民主主義社会を担保するために与えられた<権利>や<自由>というものについてよく理解し自分のことは自分で律していかなければ民主主義社会というもの自体が成り立たないわけで、実は個々人に与えられた<責任>もむしろ大きいんだろうさ。
なのに親の多くはそのことについて子供にしっかりと説明ができなかったりする。できなくても親にはなれる。それこそ、社会常識なんてものを一つも知らなくても理解していなくても身についていなくても子供さえ生んでしまえば作ってしまえば<親>にはなれるんだよ。
ルイーゼの祖父母がまさにそうであったように。
彼女の祖父母は、<ヒューマンサファリパーク>と揶揄される地域でホームレスとして暮らしつつ彼女の母親となる女児をこの世に送り出した。しかも自分達では育てられないのが分かっていたからこそ知己を頼り娘を預け、養育のすべてをその知己に委託してしまった。<ルイーゼ・バーンシュタイン>の<バーンシュタイン姓>は、実の祖父母のものじゃなく、実の両親に代わって彼女の母親を養育してくれた人物のものなんだ。
そんな人間でも<親>にはなれるってことだ。<親>なんてものは決して御大層なご立派な<肩書き>じゃない。当人が何をしてきたかを示す<記号>でしかないんだよ。そしてそれは俺自身にも当てはまる。俺は自分を立派な親だとはこれっぽっちも思ってない。立派な人間でさえない。思い上がりでもなく卑下するわけでもなくどこまでも<ただの俺>なんだ。
それを自覚すればこそ俺は俺でいられる。
ルイーゼは俺のような考え方はしていないらしいが、『自分は自分』という認識は明確に持っているらしい。だから鉱物にしか関心を抱けなかった自分も、斗真と出逢ったことで彼と一緒に暮らすことを受け入れる気になった自分のことも強く拒絶はしなかったようだ。他人の目からは目立った葛藤もなくあっさりと斗真をパートナーと認めたように見えるんだろうなあ。




