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034

 ユラが気づいた時には、傷の手当もとうに済み、毛布でぐるぐる巻きにされ、冷め切ったカップを両手の中で握っていた。

 自分がいる場所が分からず、混乱で頭がぐらぐらと揺れていた。そんな状態でも抜け落ちることのない現実の痛みが、喉の奥で存在を主張している。

 悄然とうなだれたまま、ユラはカップの水面を見つめた。

 ――どこでどうしていれば、違う結末を迎えられたのだろう。

 必死になっていたことは、何一つ意味がなかった。


 生きていて欲しかった。それだけだった。そのためなら、誰に憎まれても構わなかった。他ならないクランヘルム本人にさえ。

 自己満足だと分かっていて、それでも、諦められなかった。

 生きていて欲しかった。――それが、何かの償いになるつもりでいたのだろうか。

 なんて滑稽なのだろう。

 自分がどうして生きているのかさえ、わからなくなりそうだった。


 絶望は底のない沼に似ていた。息苦しさに止まりそうな呼吸をゆっくりと繰り返し始めたとき、ようやく、近くでがなり立てている声に気づいた。


「陛下、じきに日が沈みます。王宮にお戻りを――」

「ええい、うるさい! 軍はまだ来ぬのか!? 大逆者を逃がすなどまかりならんぞ!」

「承知しております。しかし……」

「中はどうなっておるのだ! いっそ、この襤褸小屋ごと潰してしまえ!」


 確かに年季の入った廃屋ではあるが、簡単に解体できるほど小さなものではない。

 怒り狂う国王に近衛が苦慮する中、新たな一団がその場に現れた。

 前に進み出たユールディクスの姿を認め、国王が落とさんばかりに目を剥いた。


「ご無沙汰しております、父上。お元気そうで……と言いたいところですが、症状は悪化の一途をたどっているようだ。心底残念ですよ」

「ユールディクス、貴様……なぜここに……」

「おや、おわかりでない? 担ぎ出されたんですよ、あなたの尻拭いにね」

「な……なんだと!? どういうことだ!」


 唖然としていた近衛が我に返り、職責を果たすべく王を庇う。

 だが、うろたえる姿からも、震えをごまかすような怒声からも、すでに主君としての峻厳は見いだすことができなかった。

 息子の周囲を固める軍人や、反目していた将軍の顔を見比べ、王が顔から血の気を引かせていく。

 ユールディクスは言葉通りに残念そうな顔でかぶりを振り、ゆっくりとした口調で告げた。


「貴族院は本日付けであなたの廃位請願を決議しました。まあ、非常にわかりやすく言うなら――もうあんたにはついて行けない、ってことですよ。国王陛下」

「馬鹿な……馬鹿な! この余が、廃位だと!? そのような辱めを受ける謂われなどないわ!」


 追いつめられた王は、爛々と燃える目で唾を飛ばした。


「何故わからぬ! ガルフォールトにとってセレズの地がどれだけ重要なものか……! 忌々しい《神殿》からあの地を取り戻すには、この国に力が必要なのだ!」

「で、改めてガンプリシオを死の街にしかけたってわけですか。そりゃクーデターも起きるってもんですよ」

「ええい黙れ、黙れ黙れ! 貴様は何も分かっておらん! 余こそがガルフォールトの王、余以上にこの国を憂えているものなど、この世のどこにもおらぬのだ!」


 軍人からも近衛兵からも苦々しい空気が満ちていく中、ユールディクスは呆れ混じりに肩をすくめた。


「その結果がこれです。港がひとつ使いものにならなくなり、《神殿》への借金を増やす始末だ。立派な王様のなさることとは思えませんね」

「騙されたのだ! あの生白い化け物さえいなければ、今頃は……!」

「それはそれでみっともない話ですがね。……陛下、何よりもあなたの最大の失敗は、兄上を殺したことですよ」


 それは、誰もが感じながら、口に出せずにいた疑いだった。

 六年前、落石事故により非業の死を遂げた第一王子。父王と対立しつつあった彼が命を落とした事件が、果たして人為のないものであったのか――それを疑う声は、この国の奥深くで常にささやかれ続けていた。

 顔を蒼白にした王が、うろたえながらも首を振る。


「な……なにを、あれは事故だ……!」

「事故ねぇ。まあ、それでもいいです。今さら詮無いことだ。……兄上がご存命なら、あなたの進退はまだしも穏やかに問われたでしょうが、残念ながらいらっしゃいませんので。悠々自適のご隠居生活とはなりませんが、まあ、因果が巡ってきたのだと諦めてください」


 手を挙げたユールディクスに呼応し、軍人が王を拘束する。

 それでも無礼だと喚き続ける王の姿を、ユラはぼんやりと眺めていた。


 これが、この国の選択だった。これが正しい方法なのだと言われたような気がした。

 多くの人間が関わり、秘密を守りながら手順を踏み、多くの意志を固めて――頭上の存在に「否」をつきつけた。

 ユラにはできなかった。そうしようとさえ思わず、おそらく不可能でもあった。

 けれど、それでも、後悔が湧き出ることを止めることはできなかった。

 どうしてここにいるのかさえ、疑問に感じていた。自分の存在に、生きながらえていることに、何の価値もないような気がした。

 涙さえ出てこなかった。


 ニッツフェンが一団を離れ、ユラの元へ歩み寄ってきた。

 毛布に包まれた様子を見て不安になったらしい。ユラを気遣った警護官が代わりに説明を買って出た。低めた声のやりとりが耳を掠める中、不意に、ニッツフェンの声が苦々しさを増した。


「ログイット、ご苦労だった。……怪我を負ったか」

「軽傷だ。大事ない」


 黒い服が所々塗れていた。

 血の臭いが鼻をつき、遠かった現実感を目の前につきつけた。

 ――殺したのか、というニッツフェンの怒りに滲んだ問いかけを、ログイットは肯定した。

 そのままユラの前に立ったログイットが、痛ましげな顔で口を開く。

 考えるより先に、その言葉を遮っていた。


「謝らないで」


 口にした後で、本心だと思った。

 固く拳を握りしめ、ユラは捲し立てるように言った。


「仕方なかったんだって分かってるわ。契約違反でもない。ちゃんと理解してる。……だから、謝らないで」

「……すまない」


 謝るなと言ったばかりだ。

 かっとなって顔を上げたユラを、ログイットは、感情の見えない目で見下ろした。


「彼は、あまりにも危険だった。自己中心的で強い信念を持つ確信犯だ。……ここで逃がした場合、第二のガンプリシオを作ることは予想に難くない。見逃すことはできなかった」

「……黙ってよ……」

「君の希望も、ニッツの指示も、裏切ることだと理解している。だが、この国のために必要なことだった。勝手だとは思うが、俺の独断だということだけは――」


 カップを倒して立ち上がったユラが、力の限りログイットの頬を張った。

 しん、とその場が静まり返る。

 肩で息をしながら、ユラは怒りに震える声で言った。


「……謝るなって言ってる。嫌ってほど理解もしてる……! 心配しなくても約束は守るわ。ちゃんとあなた達に有利な証言をしてあげる。……だから、もう、余計なことばっかり喋らないで。誰も言い訳なんて頼んでないわ!」


 足にまとわりつく毛布を跳ね飛ばすようにして、ユラがきびすを返す。

 怒りに満ちたその背中を目で追い、ニッツフェンはこの上ない渋面でログイットを見た。


「……ログイット。お前――」


 苦々しく飲み込んだ言葉の先を、警護官が女性らしい率直さで口にした。


「わざと、あんな言い方を?」

「……いえ」


 出てきたのは否定だったが、取り沙汰する価値もない。

 警護官は呆れの色濃い渋面で、かぶりを振った。


「確かに、怒りは原動力になります。彼女には適切だったかもしれませんが……それにしても、もっとやり方があったでしょう」

「その通りだ、ログイット。下手をすれば、協力を拒まれるところだった」

「……ああ。すまない」


 ログイットは従容としてうつむくだけだ。

 警護官はため息を吐き、ユラが去った方角に足を向けた。警護の任はまだ解かれていない。一人にして欲しいとユラ自身が望んでも、その身の価値を考えれば、守る人間が必要だ。

 ふと、彼女は思い出したように足を止めた。


「一つだけ申し上げると――だから、貴方は女性にもてないのだと思います」

「え」

「気は回るのですから、せめて好意のある相手くらいには、その無駄な自己犠牲精神を押さえなさい。……では、失礼」


 虚を突かれたログイットが、去っていく背中を呆然と見送る。

 ニッツフェンは打つ手なしとばかり、片手で顔を覆ってため息を吐いた。


 


 


 


 廃屋の裏に回り、ユラはやり場のない怒りに壁を叩いた。

 しびれて痛いばかりで気など収まらない。腹の奥を焦がすような激情に振り回され、唇を噛んでその場にしゃがみ込んだ。

 ログイットの発言は分かり切ったものばかりだ。目新しさなど何もない。――ユラが自分に言い聞かせようとしていた内容、そのままだった。


 わざとあんな言い方をしたのだとわかっている。

 だからこそ余計に腹が立つのだ。一発殴ったくらいではとても収まらない。


 泣き出したいという能動的な気持ちを、ようやく思い出していた。

 挑発されてそうするのは我慢できない。ひたすら唇を噛んで耐えているところに、足音が近づいてきた。


 思わず身を固くしたが、いやに軽い足音だった。

 まさか、と顔を上げたユラの目に、予想通りの少女の姿が飛び込んでくる。


「ユラ!」


 大きなリボンを揺らしながら駆けてくるティティを、ユラは唖然と受け止めた。

 地面についた両膝が砂利で痛みを訴え、これが現実なのだと思い知った。


「ちょ……ちょっと、冗談でしょ、どうしてこんなところにいるのよ! 危ないじゃない……!」

「とうさまが行かせてくれたの!」

「な……」

「ごめんなさい。だって、ユラのことしんぱいだったんだもの」


 怒りに火をくべるような新事実だ。どうやら兄の方も尋常な人間ではなかったらしい。

 怒鳴るに怒鳴れず声を失う。会ったこともないお貴族様を頭の中で殴り飛ばしていると、ティティがユラの両腕に手をかけ、真摯な面もちで顔を覗き込んできた。


「けがをしていない? どこか、いたいところはない?」

「……ないわよ」

「うそ。なきそうだわ。だれかにいじめられたの? ロギー君?」

「……別に、そんなのじゃないのよ。大丈夫だから」


 ため息のような声で答えると、小さく柔らかな手が頬に触れた。

 思わず身を引きそうになる。

 ティティの眸は、春の空のような、澄んだ色をしていた。


「ユラ、言ってくれたわよね。かなしくないときには、かなしまなくていいって。

 でも、だめよ。ほんとうにかなしいときは、がまんしちゃだめ。……かなしいときには、ちゃんと泣かなくちゃだめなの」

「……何言ってるの。平気よ。大丈夫」

「もうっ」


 ティティが頬を膨らませた。


「だめじゃない、ユラはおとななんだから。こどもをこまらせちゃだめ!」

「……なによ、それ。大人しく泣けってこと?」

「うーん……よくわかんないけど、がまんしちゃだめってこと!」

「まったく……どこから拾ってきたのよ、変な屁理屈……」


 まだ笑えると言うことが不思議だった。けれど、苦笑することに失敗して、喉が引きつった。

 張りつめていた感情が、堰を切って溢れだした。

 悲しかった。苦しかったし、悔しかった。自分の無力さが嫌で堪らなかった。何もかも失ったような気になっていた。

 それでも、守りたかった全てを失ったわけではないのだ。


 ティティがユラの頭を抱えるように抱きしめる。子供体温のあたたかな身体を掻き抱き、ユラは嗚咽を押し殺すようにして泣いた。

 願えるなら、きっと、こんな子供になりたかった。

 疑う余地もなく愛されて、何の迷いもなく愛情を分け与えられる。屈託なく笑い、怒り、泣くことができる。満ち足りて完成された、できすぎた理想の形。

 ――本当は、理解している。そんなもの、ただの幻想の押しつけだ。ティティにとっては良い迷惑だろう。

 それでも、今だけなら。変に背伸びをした度量を見せるこの子が相手なら。

 身勝手な感傷の投影を、許して貰える気がした。


 夕日が沈む。

 赤く染まった空が、宵の紺碧へと変わっていく。

 身に馴染んだ闇が訪れるまでの短い猶予は、ただひたすら、ユラに優しいものだった。


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