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032

 ログイットの立ち姿はひどく自然で、隙がないものに見えた。無駄口を叩かず隙を狙っているのが分かる。鋭い視線が、クランヘルムを無感動に射抜いていた。 

 その目が何を覚悟しているのか、手に取るように感じられた。

 だめだ、と、本能的な危機感がユラを突き動かした。


「……クランヘルム、もうやめて! こんな方法じゃ、まともな国はあなたを受け容れない! もっと他に、やり方があるはずよ……! 建前の正しささえ捨てるつもりなの!?」


 クランヘルムの目がユラを見る。

 無駄だと分かっても叫ばずにはいられなかった。必死になって続けようとした言葉は、だがしかし、後ろから伸びた鉄の掌が喉に食い込んだことで、強制的に終わりを告げた。


「ぐっ……」

「博士!」


 喉笛を捕まれたまま持ち上げられる。焦りを含む声が聞こえた。警護官がログイットと何か言い合っているようだが、よく聞こえない。

 霞む目で見下ろした仮面は当然のように無機質だったが、激情家だったかつての同僚の憤怒が見て取れた。

 涙が滲んで、唇をかみしめた。

 ――恨まれることも、憎まれることも、覚悟の上だったはずだ。

 その覚悟が薄っぺらなものだと分かっていたからこそ、せめて、今度は踏みとどまっていたかった。

 結局は自己満足だ。やり方が間違っているのはユラも同じだ。結局、一欠片も伝わらない。


「グエル。やめるんだ」


 咎めるようなクランヘルムの声に耳を貸さず、黒装束は、振りをつけるように大きく腕を動かした。

 異様な膂力はすでに目にしている。このまま宙高く放り投げて高窓辺りにぶつけられれば、あっけなく人生が終わるだろう。

 振り子のように揺さぶられる中、せめてもの抵抗に相手の袖口を掴んだ。

 飛び込んできたログイットが剣を振るう寸前、冷ややかな二重声音がその場を支配した。


「まったく――君は本当に、聞く耳を持たないね。グエル」


 勢いをつけて投げ出される直前、巨躯が唐突に力を失った。

 黒装束が音を立てて倒れる。糸の切れた操り人形のようだった。

 床を滑るようにして転がったユラに、警護官が急いで駆け寄る。彼女はせき込むユラを助け起こし、敵を警戒しながら安否を尋ねた。


「博士、ご無事ですか!?」


 体中があちこち痛い。擦り傷と打撲だらけだが、骨は折れていないはずだ。

 頷くだけでかろうじて答えたユラは、懸命に気を保ちながら顔を上げた。

 黒装束は倒れ伏したまま、ぴくりとも動かない。


「クランヘルム……!」

「心配することはない、それはただの入れ物だ。本体に影響は――」


 一度距離をとっていたログイットが、皆まで言わせず下段から斬りかかる。

 生じさせた氷を盾にして打ち払い、クランヘルムは剣呑に目を眇めた。


「行儀の悪い犬だね。話し中だよ」


 ログイットが飛び退いた場所を、落雷のような轟音とともに閃光が穿つ。

 廃屋がびりびりと震えるかのようだった。

 ログイットが再び間合いを取り、クランヘルムを見据える。

 その顔には激情や怒りといったものはない。冷静な殺意を集中力に変え、打開の糸口を探している。


「そこのバルコニーから横槍をいれてきたのも君か。爆発はどうやって避けたんだい?」

「……攻撃がくることが分かっているなら、その場から動けば避けられる」

「なるほど、理にかなっているね。……では少々実験しよう。主題は人間の反応速度と、術式起動時間の差異だ」


 邪気もなく微笑んだクランヘルムが、指を交差させて右手を持ち上げる。

 ボッと鈍い音を立てて生まれた炎の帯が、駆け出したログイットを追うように尾を引いてひらめく。かと思うと出現した氷の固まりに跳ね飛ばされ、ログイットは床を転がるように受け身を取った。

 体勢を戻すより先にログイットが手を閃かせる。

 クランヘルムは顔の前で手を開いた。

 銀色のナイフは薄い手袋を破ることさえなく、軽い音を立てて床に落ちた。


「無駄だと、そろそろ分かってもいい頃だろうに」


 冷ややかな声が笑みを含んで言う。

 非現実的な戦闘に見入っていた警護官が、ユラを助け起こしながら、譫言のように呟いた。


「……にわかには理解しがたい光景です……。一体、どうなっているのか……」


 まったくもって正論だ。

 おそらく逆方向の運動量を生成すことで相殺しているのだろう。理論上こそ不可能ではないが、馬鹿馬鹿しいほどのコストと叡知の産物だということは、容易に想像がついた。


 ログイットとクランヘルムの間には、攻撃手段に圧倒的な差がある。自然、ログイットは防戦に回っていた。

 だが、決定的な手傷を負う気配はない。

 クランヘルムが手数を重ねるごとに、その回避は攻撃を見極めたものへと変わっていった。

 読まれていることに気づいたクランヘルムが、愉快げに声を上げた。


「……なるほど! さっきの発言は、僕の行動を誘導するためか! 面白い!」


 立て続けに雷撃が続く。ログイットは敵の手元を見据えながらそれを避けていったが、収まる頃には、大きく距離が開いていた。

 ログイットは床に積み上げられた廃材を掴み、勢いをつけて相手に投げつけた。

 木の板が回転しながら宙を飛ぶ。さすがに虚を突かれたクランヘルムが、大きく腕を打ち振るって氷の壁を出現させた。

 耳障りな音とともに伸びた氷壁が、木材を引っかけるようにして弾き上げる。真っ二つに割れて空を舞った木板の残骸が、凍り付いた床に落ちて空気を震わせた。

 クランヘルムが初めて焦りを見せた。それは、形勢の逆転を予感させるものだった。


「……暗器が尽きたかと思えば、ずいぶん大味な真似に出たものだね」

「使えるものは使う主義だ」


 言うなり、ログイットが再び廃材を投擲した。

 それを追うように床を蹴って走り出す。

 炎が右上から迫る。身を屈めながら走り抜けることで潜り抜けたが、炎は大蛇のように急降下して襲いかかる。

 髪を焦がしながらバックステップでかわしたところに、矢のような稲妻が横薙ぎに飛んできた。

 氷だという予測を外したログイットは、とっさに足下の廃材を踏み上げた。

 空気が破裂したような音を立てて廃材が割れる。直撃は免れたが、床に残った雷までは避けられなかった。

 ログイットが右足を庇うようにして、苦痛の表情を見せた。

 クランヘルムが口角を持ち上げる。――見逃されるはずのない隙だった。


 鏃のような氷が生成され、ログイットの足下へ食いつくように伸びる。

 飛び退いたログイットは正確な目測で、氷の山を踏み台にクランヘルムの頭上を飛び越えた。


「なんだと? ……まさか!」


 姿を見失ったクランヘルムの肩に、重みがかかる。

 足を掛けられたのだと認識した時には、前のめりにバランスを崩していた。

 ログイットが空中で大剣を振りかざす。

 「やめて」と、ユラの口から無意識の声が出た。


「博士?」

「やめて、だめ……

 ……殺さないで……!!」


 ユラの叫びに顔色を変えた警護官が、とっさにユラの目を覆った。

 分厚い掌で、視界が闇に包まれる。

 形容しがたい水音混じりの、重い音が鼓膜を打ち、何かが、床に倒れた。

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