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025

 翌朝は、空に蓋をしたような曇天だった。

 照射数値は晴天時よりも格段に落ちる。不幸中の幸いというものだろう。胸を撫で下ろす大人たちの中で、寝不足のティティは眠たげに目を擦っていた。今にも船を漕ぎだしそうな様子を見て、ログイットは抱っこを提案したのだが、首を振られてあえなく撃沈していた。


 駅に向かう道すがら見た人々は、誰もが頭を布や帽子で覆い、傘を差し、身を屈めるようにして足早に歩いていた。駅には人が溢れかえっていた。押し掛けたその場所で、なかなか手に入らない切符を待っているのだ。焦燥と怯えと怒りをない交ぜにした顔は、どこか疲労感を漂わせていた。顔や手を炎症で赤くしているのは、多くが女性や子どもで、その光景の痛々しさを増していた。

 幼い子どもには心の傷になりかねない光景だ。眠気もあってごねるティティにニッツフェンが有無を言わせずストールを被せ、視界を遮断して駅の中へと足を進めた。

 列車は当然のように一等客室だった。権力を振りかざして確保するのが二等客席であるわけがないが、ユラには慣れない場所で居心地が悪い。

 今にも目蓋がくっつきそうなティティがまずコンパートメントの中に入り、当たり前のようにユラの袖口を引っ張った。

 王子様の皮肉が脳裏を過ぎったが、ここで振り払うほど悪人にはなれない。視線で助けを求めたユラに、ニッツフェンは冷ややかな色の目を伏せ、軽く肩を竦めただけだった。諦めろということらしい。

 ユラがしぶしぶ扉をくぐったとき、後ろで陽気な声がした。


「うんうん、じゃあ私はこっちに入ろうかな」


 機嫌良く告げた王子の後ろ首を、ニッツフェンがぞんざいに掴んだ。そのままずるずると引きずって、隣のコンパートメントに放り込む。

 目を疑いながら見送り、ユラは唖然と呟いた。


「……あれ、曲がりなりにも王子様でしょ。あんな扱いでいいわけ?」


 同じく硬直していたログイットが、驚いたようにユラを見た。


「聞いたのか?」

「勝手に喋ったのよ。聞きたくて聞いたわけじゃないわ」

「そうか……」

「何よ?」

「いや、何でもない」


 含みのある口調にユラは顔をしかめたが、答えが返ってくることはなかった。

 ログイットは備え付けのブランケットを取り出し、ユラに手渡した。


「ティティ、あまり眠れなかったみたいだから。少し眠らせてやってくれないか」


 眠たげな瞬きをしていたティティが、急に目が覚めたように顔を上げた。


「ロギー君、どこ行くの?」

「大丈夫、すぐそこにいるよ。呼んだらすぐ聞こえる」


 ティティは不満げに唇を曲げ、眉根を寄せて首を振った。


「だめよ。ロギー君はここにいなきゃ」

「えっ? い……いいのか?」

「だって、ユラはロギー君と一緒にいたいんだから。ロギー君が、かってにどっかにいっちゃだめなの。だからね、ここにいなきゃだめなの。わかる?」

「ちょっと、何言って……」


 ぎょっとしたユラが否定しようとするが、視界の端に必死に拝んでくるログイットを見つけて声を詰まらせた。

 ――分かっている。ティティは意地を張りながらもログイットを引き留めたくて、ユラをだしに使ったのだ。ここは大人になって黙認してやるべきだ。

 それでも認めたがらない衝動が喉を突き上げたが、ユラは手の平に顔を埋めることで、どうにかそれを飲み込んだ。

 二人分の視線が突き刺さる。「好きにしたら」と返して横を向いたユラに、「恩に着るよ」と小声で言って、ログイットはティティの隣に席を取った。

 ティティが唇を曲げて、ユラの隣を指さす。


「だめ、ロギー君はそっち」

「だってティティ、もう眠くなってるじゃないか。ユラによりかかったら、ユラが大変だぞ」


 渋るティティに言い聞かせている様子は、若い父親に見えなくもない。手を焼いている辺りがそれらしいのだ。そんな二人を他人事として眺めるのは、そう悪くない気分だった。

 ティティもなかなかに意地っ張りなところがあるようだったが、あっという間に眠気に負け、今はログイットの膝に頭を乗せて健やかな夢の中にいる。

 現金なものだとユラが笑ったとき、不意にログイットと目があった。

 その瞳の色に、新鮮さを覚えた。想像していた黒よりも青に近い。夜明けの群青だ。これまで明るいところで見たことはなかったので、思わずまじまじと見入っていると、ログイットが気付いて首を傾げた。

 何でもないと返して、ユラは窓の外に目を向けた。

 ガンプリシオを離れ、列車の窓を固く閉ざしていた鎧戸は既に上げられている。刈り取りを終えた田園が穏やかな光に包まれ、どこまでも続いているかのような錯覚を覚えた。

 嘘のように平穏で、美しい景色だった。


「……目が痛くなりそう」


 声に出たのは無意識で、ユラはばつが悪そうに身じろぎした。

 ティティの頭を撫でながら、ログイットが少し笑う。


「そうだな。日光がこんなに明るいなんて、俺も今まで実感していなかった」

「そうね。街路灯の明かりは演色性が低いから、色がちゃんと判別できていなかったんだわ」

「それで、さっき見ていたのか」

「……まあ、そうね」


 なんとなく気恥ずかしくなって言葉を濁すと、ログイットが首を傾げながら、ユラの顔を覗き込んだ。


「……何?」

「ユラの目、大体思っていたのと同じだ。気の強そうな紅茶色」

「一言余計よ」


 むっとして顔を逸らしたユラに、ログイットが声を潜めて笑った。


 シティは近いようで遠い。着いた頃には日が暮れ始めていた。

 かつてガルフォールトの交通要所だったガンプリシオは、三十年前には鉄道の発達によって、そして五年前には魔工事故によってその機能を縮小し、このレジョン中央駅がガルフォールトの玄関口となっている。

 初めて足を踏み入れる駅舎は、華やかで重厚な煉瓦造りだった。赤茶と白の対比が美しく数学的で、かつてこの国が手にしていた栄光を、今もまだ留めているかのようだ。

 駅舎の天井を見上げていたユラが、ちらりと眉をひそめた。

 ティティが目聡くそれに気づき、ユラの手を引く。


「どうしたの?」

「……何でもないわ」


 笑みを見せたユラに、ティティが不安そうに小首を傾げる。

 人混みでざわめく周囲を確かめ、ニッツフェンは疲労を伺わせない眼光で言った。


「私はこれから情報を集める。ログイット、お前は一度、ティティを連れて自宅に戻れ。明朝六時に私のオフィスに来い」

「わかった。……ニッツ、兄さんと話せるだろうか」


 駄目で元々の頼みだった。ニッツフェンは顔をしかめたものの、肯定の頷きを返した。


「まあ、無理ではない。取り計らおう」

「ありがとう」


 胸を撫で下ろすログイットを横目に、ユラはニッツフェンの後ろ姿に問いかけた。


「それで、私はどうすればいいの? 特に指定がないなら、自分で宿を取るけど」

「いや。警護の関係上、こちらと行動を共にして欲しい」

「わかったわ」


 スーツケースを引こうとしたユラを引き留めたのは、またしてもティティだった。

 とっさに腕に抱きついた少女を振り切ることもできず、ユラは苦り切って足を止めた。


「……ティティ……あのねえ」

「ユラ、おうちにきてくれないの?」


 いつそんな話が決まったと言いたくなったが、潤んだ目で見上げられて、さすがにそれは口にできない。

 言葉を選ぶ沈黙を見かね、ログイットがティティの肩に手を置いた。


「ティティ、わがまま言っちゃだめだ。ユラにはユラの都合があるんだから」


 ユラの腕にしがみついたまま、ティティが頭を振る。

 いつもの聞き分けの良い少女からは考えられない頑固さに、ログイットは戸惑いながら、咎める口調で呼びかけた。


「ティティ」


 ぐっと唇を曲げ、ティティはうなだれてユラの腕を放した。

 すっかり悄気てしまって幼子の姿に、空気が気まずいものになる。


「ごめんなさい……。ユラがいたら、あんしんできたから……それで……」


 ユラは天井を仰いだ。これを断れるのは、よほど肝の据わった人間だ。


「……ああもう、わかったわよ。今日だけ泊まらせてもらうわ。これでいいでしょ?」

「ほんとう!?」

「まったく……ねえ、この子、将来とんでもない悪女になったりしない?」


 話を振られたログイットはきょとんとするばかりだ。

 これは騙される側の人間だと判断して話を切り上げ、ユラは出口に向かってスーツケースを引き始めた。

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