018
言い訳を許されるのなら、お互い、疲れていたのだ。
ユラはただでさえ行動を制限されることに慣れておらず、おまけに神殿にも商会にも大家にも、行く先々でログイットのことを囃されて二重に苛立っていた。ログイットはログイットで、神経を尖らせる対象が増えた上に、ユラの不機嫌にあてられて無意識に消耗していた。
ついでに言うなら、タイミングも悪かった。
あわただしく方々との連絡調整を終え、ようやく一息ついたところだった。だからこそログイットは身内と接触を持とうとしたのだが、慎重を期するあまり、自分が戻らなかった場合の対応を事細かにユラに指示したのもまずかった。
聞いているうちに不穏の気配を漂わせはじめたユラは、やがてくっきりと眉間に皺を寄せ、顎を上げて言い放った。
「ああそう。だったら、その間に商会に行って、外套を受け取ってくるわ」
「……は……!?」
もちろんログイットは止めた。危険だと言葉を尽くして説得したが、不機嫌になったユラは、もちろん、聞く耳を持とうとしなかった。
「外套なんて、そんなに急ぐようなものじゃないだろう。俺が戻ってからでも……」
「ついさっき、戻らないかもしれないって言わなかった? そうしたら半日むだになるわね」
「それは万一の可能性で――」
「神殿だって、見張りだか護衛だか知らないけどその辺に置いてるじゃない。あなたに文句を付けられるほどの無謀じゃないわ」
下手に感情論を理屈づけるだけ、たちが悪い。
とうとうそっぽを向いたユラにログイットは説得を諦め、深々と、長いため息を吐き出した。
「……わかった」
ログイットはそのまま部屋を出ていった。
ユラは怪訝な顔で、扉が閉まるのを眺めた。
保安上の理由で、部屋の格は惜しまなかった。廊下に続く扉を開けてすぐという状況では気が休まらない。ベッドルームの向こうには、心ばかりのリビングがある。
そのまま外出したわけではないだろうが、いやに素直に引き下がったように思えて眉を寄せ――はたと、物音に顔をしかめた。
まさかと思って扉に手をかければ、外開きのはずの扉が開かない。
「……やってくれるじゃない……!」
鍵は内鍵だ。おそらく扉の向こうで、机だのチェストだのが山積みになっているのだろう。
頭に血が上ったユラに、おとなしくログイットの帰りを待つという選択肢はなかった。
――改めて振り返ると、何とも大人げない話だ。
人通りの多い街道を歩きながら、ユラは白い息を吐いた。
スーツケースに詰められるだけ詰めてきたとはいえ、手持ちの素材で組める術式は限られる。おまけに扉向こうのバリケードの材料は、賠償額など考えたくもない高級家具だ。壊すわけにはいかない。
目まぐるしく方策を比較検討し、自宅の保管庫を恋しく思いながら苦労して術式を組み上げて、見事に扉を開ける頃には、動力源たる怒りはすっかり爽快感に取って代わられていた。
要は、頭が冷えてしまったのだ。
実を言えば出かけるのも面倒になっていたのだが、それはそれで面白くない。重い腰を上げて商会に出向き、外套を受け取って、寄り道もせず帰路についた。
(……何をしているんだか)
夜だろうが昼だろうがガンプリシオの空は真っ暗であるままだ。それでも、人通りは圧倒的に昼の方が多い。
巷で言われるほどガンプリシオの治安は悪いものではないが、ユラのように昼夜を逆転してしまう人間は、この町では稀だ。多くは懐に時計を抱き、針の指し示す時間とともに暮らしている。
人の気配に耐性が低いユラにとっては、すれ違う人間が多いだけでストレスだ。積もっていく疲労に、またため息が落ちた。
(挑発したのはこっちだけど、だからって、あそこまでする? 自分だってうろうろ出歩いてたくせに、あの過保護っぷり……)
こみ上げてきた衝動にどうにか耐え、ユラは眉間を揉んだ。監視の目がある中で、地団駄を踏んでいるのはばつが悪い。
ユラの報告を得て、《神殿》の行動は驚くほど早かった。セシロトの《青い箱》事件の首謀者が初めてその足跡を見せたのだ。新たなる脅威への警戒、重要証言者の安全確保、重犯罪容疑者の捜索――一夜にしてそれらの手を打ったようだとログイットから聞かされて、ユラは唖然とするしかなかった。
ユラの自由は、《神殿》が与えた対価の一つだ。だからこそ彼らはユラを無理に保護下に置こうとはしない。だがそれも、次の拠点をどこに移すか決まるまでだ。お互いに落としどころを探すやりとりだが、おそらくは、落ち着ける場所を用意するまで、一時的に《神殿》に身を寄せることになるだろう。
この先のことを考えると、胸に暗い影が落ちた。
(……私は、どうしたいんだろう)
今度こそ逃げおおせたいのか。それとも、裏切った相手に断罪されたいのか。詰られたなら気が済むのだろうか。――謝ることもできないのに。
胸にたまる鬱屈が、足取りを重くする。
真新しい外套のポケットに手を入れ、指先に当たったものを取り出した。
琥珀のような楕円の石だ。表面に刻まれているのは、三枚の葉と片皿天秤――セシロトの文様だ。燃やしたカーテンから生成されたその石は、予想していた以上に、致命的なほど身元を隠すつもりが感じられなかった。
神殿に渡せば目の色を変えて解析し、有力な手がかりを掴むに違いない。
(どういうつもりなの……クランヘルム)
鍵はかかっているが、おそらく、中に詰められているのは位置情報だ。とうてい、裏切者に渡すようなものではない。
ユラがこれを《神殿》に引き渡すことはないと、たかをくくっているのだろうか。
そのとおりになっているのだから笑えない。
いつだってそうだった。あの男は、逃げ道を奪った上で、ユラに選ばせるのだ。
(性格の悪さは相変わらずみたいね。……渡せるはずなんてないのに)
ユラは二年前、すでに目的を遂げている。禁術を告発したのは、神殿に恩を売りたかったわけでも、誰かを憎んでいたわけでもない。再びかつての仲間を売る理由はなかった。国という支援者を失い、権力を失い、追われる身となったクランヘルムに、脅威があるとは思えない。
我が身が危険にさらされても、その思いは変わらなかった。
憎まれて当然だし、彼らにはユラを憎む権利がある。裏切るのは一度で十分だ。
素直に復讐されてやるしおらしさまでは、さすがに持ち合わせていなかったが。
目を伏せて呼吸を整え、顔を上げようとしたとき――不意に、右手を引かれた。
驚いて振り返ったユラに、目線の遙か下から、舌っ足らずな声が勢いよくぶつかってくる。
「レディー、ぶしつけにごめんなさい! ログイット・キルク・ジルセスをごぞんじ?」
心底からぎょっとした。
ログイットの名前が出てきたからというだけではない。なぜなら、ユラの手を引いたのは、ここにいるはずのない少女だったからだ。
まっすぐで無垢な瞳。愛らしい顔立ち。お日様と同じ色のふわふわした髪に、後ろ頭には焦げ茶の大きなリボン。年齢は、確か八歳だと言っていたはずだ。
写真で見たそのままの天使――ログイットの姪っ子が、まっすぐにユラを見上げていた。




