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016

 宵の市民病院は、ちょうど仕事が一段落したところだったのか、ひっそりとした空気の中にあった。慌ただしく運び込まれる傷病者も、容態を急変させた入院患者もいない夜というのはめずらしい。つかの間の平穏に気を休めているかのようだ。

 案内された詰め所でもさほど待たされることなく、呼び出されたドクターが姿を見せた。不思議そうなその顔は、俯きがちなユラの説明が進むごとに難しさを増していったが――最後まで聞くと、眉間を押さえ、まずは安堵の息を吐いた。


「何とも、まあ……。君たちが無事であることが、せめてもの救いだな」

「悪かったと思ってるわ。フラットの破損分は、弁償する」

「ユラ。私が言いたいのは、そんなことではないのだがね」


 ドクターが渋面でかぶりを振る。ユラは気づかない素振りで、話を進めた。


「ともかく、今日は戻らないで欲しいって話よ。巻き込まれるような顔見知りはドクターくらいだから……迷惑をかけるけど、警戒していて欲しいの。神殿がすぐに動くはずだから、明日のうちには安全が確保できるはずよ」

「それは何よりだ。……君は、戻らないつもりかね?」

「……近いうち、ガンプリシオを離れることになると思うわ」


 痛ましげなドクターの目を見ていられずに、視線を落とした。同情を嫌ったわけではない。どんな顔をすればいいのかわからなくなるせいだ。

 自然、早口になった。


「荷物は、人に頼んで処分して貰うことになると思う。先払いしてる家賃の契約期間が過ぎるまでに空けておくつもりだけど、もし都合が悪かったら、ラクツェル商会に連絡して。喜んで引き取ってくれるはずよ」


 欲しがっていた魔工具の買い取り額を考えれば、おつりが来るだろう。その支払先をドクターにしてしまうという算段だとは、口に出さなかった。こうでもしなければ受け取って貰えないのは、目に見えていたからだ。

 ユラが顔を上げないまま、用意していた言葉を全て口にするまで、ドクターは何も言わなかった。

 やがて言葉が尽きてしまうと、沈黙が居たたまれないほど痛くなる。

 別れの言葉を考えているうちに、ドクターが、ひどく穏やかな声で話し始めた。


「……ユラ。私は、君の倍以上の人生を生きてきた。大して劇的でもないが、喜びも、悲しみも、後悔も、諦めも、多くのものを積み上げてきた人生を経て、今の私がいる。……君にとっては説教臭いだけかもしれないが、これで最後だ。聞いてくれるかね」

「……その言い方、断らせる気なんてないでしょ」

「とんでもない。嫌だと言われれば諦めるとも」


 食えない笑みを向けられ、ユラは細く息を吐いた。

 壁際を守るログイットをちらりと見たが、止めてくれとも、席を外せとも言いにくい。結局、渋面のまま、無言の了承を示した。

 ドクターは静かに、笑みを深くした。

 まるで教師のような、父親のような、慈しみのある笑みだった。


「君が最初に挨拶をしに来たときのことを、今でもよく覚えているよ。あの頃の君は、今よりもっと取っつきにくくて、周囲の全てに心を閉ざしているようだった」

「……そんな昔の話、覚えてないわ」

「そうかね。……あれから二年だ。君は、日々を真面目に働いてきた。年頃の娘の楽しみに目もくれないで、周囲との関わりさえ断って、たった一人で。まるで――贖罪をするかのように」

「なっ……」


 かっとなって顎を上げたが、ドクターの分厚い手がユラの肩を押さえた。

 深い色の眸がユラの目を覗き込む。耳を塞ぐこともできないまま、諭すような声を聞いた。


「もう、十分ではないかね」


 ユラはむずがるように首を振った。

 そんなつもりはないと言いたかった。贖罪のつもりなどない。そんな謙虚な感情はない。あるのは、ただの負い目だけだ。

 そのままうつむいてしまうユラに、彼はゆっくりと言葉を続けた。


「重荷を捨てろとは言わない。だが、君はそろそろ、君自身を幸せにする方法を考えるべきだ。君の努力を認めるべきだ。……過去を忘れる必要はないが、いつまでも足下しか見ていないままではいけない。君が形にしたい未来を、十年先の自分の生き方を、ちゃんと考えるんだ。ユラ」


 泣きたいような気持ちで、ユラは唇を噛みしめた。

 二年間、ずっと、一人でやってきたつもりだった。

 大家の心配性をお節介だと思っていた。面倒に感じたことさえある。

 それなのに、自分を見ていてくれた存在がいることが――こんなにも、嬉しい。

 答えないままでいるわけにもいかない。喉を詰まらせる感情をどうにか押し込めると、ユラは大きく息を吐いた。


「……できるかは、わからないけど……努力してみる」

「いい子だ」

「ちょっ……もう!」


 分厚い大きな手が、子供扱いに頭を撫でていく。

 振り払うより先にさっと逃げられ、ユラは膨れっ面になりながら、乱れた髪を手櫛で直した。


「……信じられない。何してくれるのよ」

「いやすまない、ちょうどいい高さにあったものだからね」


 悪気のかけらもない笑い声を立て、ドクターはその笑顔のまま首を傾げた。


「さて、ガンプリシオではかねてより住宅が供給過多でね。私のフラットも空き部屋が出ている。一部屋くらい、埋まりっぱなしの部屋があっても問題ないだろう」

「ちょっと、ドクター……」


 話の続きを察したユラが、困惑を滲ませる。彼は構わず続けた。


「何年先でもいい。荷物を取りにくるついでに、幸せになった姿を見せにきてくれないだろうか」

「……何年先になるんだか」

「何年でも待つとも。まあ、私が生きているうちだと嬉しいがね」


 ログイットが背を預ける扉を、看護婦が叩いた。

 急患が入ったという連絡にドクターが応じ、ログイットに笑みを向けた。


「後は君に頼もう、ログイット。ユラを守ってやってくれ」

「……はい。必ず」


 頼んでないんだけど、というユラの渋面は、二人とも気づかない振りをした。

 病院を後にしても、まだ、地に足が着いていないような気がした。

 街は仕事帰りの人々がまばらに家路を急いでいる。あちこちから夕飯の支度をする湯気と匂いがただよい、郷愁にも似た実感を覚えた。――この常闇の街は、紛れもなく、人々が生活している場所なのだ。

 ふと、二歩後ろを歩いていたログイットが、ぽつりと呟いた。


「……かなわないな、ドクターには」


 雑踏に紛れそうな声が耳に届いてしまい、ユラは足を止めて振り返る。

 散々悩んで、ようやく口を開いた。


「……大泣きしたあとじゃなかったら、多分……ちゃんと聞けなかったんじゃ、ないかと思うけど」

「え?」

「お節介なのはドクターだけじゃないってこと」


 話は終わりとばかり横を向くユラに、ログイットが笑った。


「ユラは結構、素直だよな」


 ユラは眉根を寄せて、ログイットの感想を黙殺した。

 やがて商店街にさしかかった。予想よりも捌けていなかった人混みに一瞬まごついたが、不思議がるログイットを連れて酒店に向かった。


「何を買うんだ?」

「お酒以外の何だっていうのよ」

「いや……それはそうなんだが」


 手頃な安酒のボトルを見比べながら、ユラは肩をすくめた。


「これから、面倒な話をするんでしょ。素面じゃとてもやってられないわ」

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