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涙の乾かないうちにーシナモン珈琲ー

作者: 中村 かなた

アパートの一階の片隅に、時代から取り残された遺失物の様なピンクの公衆電話。

携帯がこれだけ普及しているのに、大家はこの電話を取り外さない。

「万一のためや。」

にべもなく言った。

「携帯も機種によっちゃあ圏外になることもあるらしいし、特にあんたの部屋は繋り難いで。古臭い電話やけど、鳴ったらあんじょう出てや」

入居した時に、大家に言い含められた。

「めったに、そんなことあらへんやろけど。」

粘り付く様な京都弁だ。


アパートは築三十年。一階と二階に四部屋づつ。トイレ、シャワールーム、炊事場は、各階共同。洗濯機が一階にふたつ。これも共同だ。ガスは大家から予めコインを購入し、メーターの投入口へ必要なだけそれを入れて使う。ガス漏れの安全対策だろう。

部屋は六畳一間。サッシのドアーと窓。一間の押し入れと、玄関には半畳のコンクリートの三和土が備えられていて、家賃が三万円ならまずまずの一人暮らしだ。

総合病院も近い。少し歩けば東大路に突き当たり、商店街や市場で賑わっている。

散策しようと思えば、東福寺、泉涌寺、足を延ばせば博物館がある。


しかし遠い。

大学までへたに渋滞に巻き込まれてしまうと四十分はかかる道のりだ。

それなのに不思議とアパートの住人は、優紀と同じ大学へ通う女子学生ばかりだった。

通学距離が長いという悪条件に勝るメリットを彼女たちは何処に感じ取っているのだろう。


優紀にも最近ようやくそのメリットが何なのか判りかけてきた。

そのひとつは、河原町での途中下車。

京都で一番の繁華街だ。探せない物は何も無い。

ふらりとバスを降り、ウィンドウショッピングに余念のない日もあれば、友人とパン屋の階上でレディース定食を頼みランチと果てしないお喋りの日もある。

鴨川の土手に膝を抱えて無口な時。円山公園のベンチで日向の昼寝。清水あたりで観光客のふりをする。


何もかもが楽しい。優紀は、自分が学生という正当な理由を与えられ、ロングステイを許された観光客のような気がしていた。

滞在理由を尋ねられたら、紛れもなくサイトシーイングと言おう。

ゴールデンウィークには五月病よろしく、一目散に実家に帰ったことが、まるで嘘のようだ。


学生生活は順調に滑り出していた。ただひとつを除いては。


四条通りと河原町通りが交差するところ。スイーツショップの階上のカフェで、優紀はイズミと軽い食事をとっていた。

カンパーニュの薄切りに数種類のリーフとクリームチーズ、ターキーハムを挟んだサンドイッチ。ミネストローネスープ。それにオーガニックの珈琲を添える。

完璧。お洒落に決まってると自己満足しながら、サンドイッチを頬張る。

窓際に席をとったので、眼下には交差点が広がって見える。信号が替わる度、人の波がうねる。

とりどりにまとった色彩がモノクロームの横断歩道にビー玉をころがしたように溢れるのを見ているのは楽しい。

「優紀とおったってつまらんなあ。」

イズミが退屈がる。

「あんた、ウチやからええけど、相手が男の時は、そういうの止めなあかんで。」

優紀の気分が何処かへ跳びがちなのをイズミはいつも許してくれる。

一緒に居てもお互い違うことを考えていることが結構多い。

二人の友情はそれで成り立っている。

私達という名称で括ってしまわない気安さというのも有りだ。

「あっ、サクや。」

「え、うそ。」

サク。優紀の好きな先輩をイズミはそう呼ぶ。優紀も彼のいないところで彼をそう呼ぶ。

柵田晋。だからサク。まんまじゃん。突っ込みどころだ。

「ほら、マジあそこ。」

イズミに促されて、その指差す方向を見る。

「ほんとだ。」

それだけ言うと、後は言葉にならなかった。サンドイッチの味がしない。

もそもそと噛み砕いて無理やり喉へ流し込む。オーガニック珈琲がだいなしだ。

黙ってた方が良かったかな。でもいずれ分かることだし。

イズミは優紀がポロポロと涙を零し始めたので少し後悔した。


サクは女連れだった。それもキャンパスではちょっと目立つ子だ。

背の高いサクの腕にぶら下がるようにして、ショッキングピンクのTシャツが揺れている。

「ダサッ。最悪やん。」

イズミがぼそりと呟いた。

ださくてもいいから、あれ私がやりたかった。

優紀は涙が止まらない。胸が詰まってるというのに、もくもくと食べる。まるで義務みたいに。


終わっちゃったんだ。私の気持ちは、カケラも伝わっていなかった。

何やってんだろう。ばっかみたい。

サクの嬉しそうな、でれでれした顔。見たくなかった。サクはもっと大人でクールでなきゃいけない。


しかしそれは妄想にすぎない。こうあって欲しいという希望的観測だ。それにはまってくれるかどうかは彼の責任ではない。


サクの心を掴みそこねた優紀。しっかり掴んだピンク色の彼女。何が違ったというの。


どうってことないよ。

始まりもしていない恋だったから。でも終わりだけは確実にやってきた。

彼はサークルの一年先輩だった。出会ってすぐ好きになった。

社会人を何年か経験した後大学に入学したという話だから、優紀よりずっと年上だった。TVの製作会社に勤めていたらしく、自然とそういう話も話題に上る。

とても新鮮にみえた。

いつだって一緒に居たかった。肩が触れ合うくらい、指先が触れ合うくらい、すぐ側に居たなら、きっと思いが伝わる。もう伝わっているはず。

そんな夢みたいなことを考えていた。


柵田は眼鏡をかけていた。眼鏡の硝子を透して見える彼の表情は、薄ぼやけてはっきりしない。

そういえば、高校の時に好きだった先輩も眼鏡をかけていた。硝子が乱反射して、彼の瞳の色彩が漆色だったか鳶色だったか、もう覚えていない。それと似ていた。

彼の真意が何処にあるか解らないまま、優紀からは好きだと切り出せないでいた。


なんだかいい感じやん。イズミの言葉に奢っていたんだろう。このままフェイドインできる恋があったっていいかもしれない。根拠のない淡い期待。

でもそんなことが起こるわけはなかった。


部屋は狭いけれど、誰に気兼ねすることもない。

泣くだけ泣こう。そう。都合のいいことに、涙だけは無制限に溢れてくる。

ヘッドホンで聴いている、男性デュオのヴォーカルが、高音のサビのところで微妙に掠れる。切ない歌詞に重なって、涙が涸れそうになると涙腺を司どる感情のスイッチを押してくれる。

二箱めのティッシュを膝に抱え、涙を拭いてはまた泣く。

泣き声が漏れたって、窓の向こうは閑散とした墓地が広がっているだけ。一階の住人はみんな帰省していて誰もいない。聞き咎める人はいないのだ。


一枚のアルバムをオートリバースで聴いていた。三回めを聴き終えたあたりで、窓の外が夜の静寂な青から朝の清冽な透明へと色を変えた。

ウィンドウタイプのクーラーが左側に収まっているので、カーテンが四分の一ほど閉まらない。そのわずかな隙間からそれがわかる。そして記憶が途絶えた。


子供の頃は、電話に出るのが怖かった。

受話器の向こうには優紀の知らない無限の世界が広がっていて、そこから聞こえて来る声は、感情の根拠が希薄で捕らえどころがない。

「優紀ちゃん、電話に出て!ママ手が離せないから。」

母の黄色い声が飛んで来る。

でも体が痺れて動かない。

脳と脊椎だけで生存しているSF小説の住人が、電解質溶液に浸りながら私の脳波に電気信号を送っている。

声も出ない。助けを呼べない。口だけが魚のようにぱくぱく動く。

これは夢。起きるんだ優紀。

叫んだ。ふっと力が抜けていきなり目が開いた。やっとのことで脳が覚醒した。

今、私叫んだ?ようだった。

頭がぼんやりして瞼が重い。泣きすぎたせいだろう。時計の針はやがて正午を迎えようと重なり合う準備段階だ。


悪夢の原因は電話の音。そう、電話が鳴っている。アナログな音が空気を伝って優紀の耳もとへ届いてくる。

--ヤダ。あの電話鳴ってる。

誰のために、何のために?気味が悪い。あの電話はもう一生鳴る事なんてないんじゃないか。そう思っていた。


出ない。決めた。音が止む。ほっとした。でも疑問符だけが残る。

ほっとしたのも束の間、電話は再び鳴り出した。


きっと間違い電話。出ない。タオルケットを頭からかぶり、ローリーポーリーのようにベッドに転がった。

鳴り止まない。

「あんじょう、でてや」と言った大家の平べったい顔が浮かんできた。

褪せたピンク色の電話は、迷子の子供のように頼りなげな音を震わせていた。

「わかったよ。出るよ。」

優紀は電話をなだめて受話器を取った。

「もしもし、風の輪荘です。」

電話の向こうの無限の世界と繋がった。

「良かった。繋がった。」

男の安心した息使いが、優紀の耳を掌で覆うように優しくひろがった。

「中嶋優紀さんて、居ますか。」

電話は優紀宛てにかかってきた。優紀は身構えた。

「誰、ですか。」

「俺、八神潤。田嶋?」

「だけど・・・。」

八神潤って、誰だっけ。しばらく考えてやっと思い出した。

「ああ、先輩?」

「なにそれ。俺ってそんなに存在感無い?」

「そんなんじゃないけど。思ってもみなかったから。」

「そんなに希薄だっけ?俺達の関係って。」

何言ってんだか。希薄でもなければ濃厚でもない。

サークルの先輩後輩という関係以上でも以下でもない。いたって普通だと思う。ただ、どうしてこの電話に、自分宛てに連絡をよこして来たのか不思議だ。

それに馴々しい。嫌な感じ。

ここはアパートの入口だ。道路からまる見えの所で喋ってるのも落ち着かないので、携帯の番号を教えて電話を切った。

部屋に戻るとすぐさま着信音がマックスの音量で鳴り始めた。

携帯を片手で開いてボタンを押す。

無登録の番号だから判りやすい。

「はい、田嶋」

いつも通りに出る。

電話に出る度、イズミに言われる。

「なんや色気ないなあ。どないかならへんの。男に嫌われるで。」

そう言われてもどないもならない。私とイズミは男性に対する価値観がかなり違う。イズミの方が、現実的で適確だ。優紀はどちらかといえば、理想派、でなくて空想派だ。夢みがちに瞳をウルウルさせて状況に酔っている間に、まるごと恋を持っていかれてしまった。

「恋に恋してたらあかんで。やっぱ寝たもん勝ちやな。」

イズミは平気で言ってのける。そんなURLジャンプなど、優紀には当分できそうにない。


「鼻声だけど、夏風邪でもひいた?」

潤が尋ねる。潤は文学サークルの先輩だ。同人誌を発行していて、いつも彼の短い詩が表紙を飾っている。彼の詩は難解で近寄り難い印象を与える。

そのとおりの人なのだろうか。

優紀は、初めての人と会話を交わすように用心した。

実際、サクとの感情のやり取りに熱中していたせいで、サークルの数少ない男子生徒とは、ろくに話もしていない。

潤とこんなふうに親しく話すのは、初めてと言ってよかった。

「今から会えないかな。」

潤が唐突に言った。

「渡したいものがあるんだ。」

「今からっていっても、準備してたら1時間はかかるよ。急いでも。」

「大丈夫。待ってるから。」

昨日の今日だ。気乗りがしない。優紀は口ごもった。

「俺としては、デートに誘ってるわけなんだけど。とにかく待ってる。一時間後、丸善の前で。」

それだけ言って電話は切れた。

気乗りはしないと言っても優紀の心は傾いている。優柔不断。一番嫌な性格が顔を覗かせた。

「そんな。一時間後って言ったって、バスの時間だってあるし。」

と言いながら、優紀は焦って準備を始めた。

洋服やメイクをチェックする暇もなく、慌ててカッターシューズを爪先にひっかけアパートを出た。


風のない盆地の午後。照り付ける太陽に溶けそうなアスファルトの上。陽炎が揺れる。


自販機でペットボトルのお茶を買い首筋にあててバスを待つ。ひんやりして気持ちがいい。

バスの中はエアコンがきいている。吹き出た汗が一気に引く。バスのドアの開閉する空気音、独特の匂いは眠気を誘う。

六系のバスは、東大路を真っ直ぐ道なりに走る。

八坂神社を右手にバスは大きく弧を描き、四条通りへと左折する。


優紀は四条河原町でバスを降りた。コンクリートに反射する熱風と人いきれに圧倒されそうになりながら、河原町通りを三条へ向かって歩く。

賑わい豊かな街だ。どこの路地にだって自分なりの隠れ場所をみつけることができる。

昨日、サク達二人はこの通りの何処に居場所を見つけ、逃げ込んだのだろう。

優紀は同じ通りを同じ方向へ歩いてゆく。

その姿がとぎれとぎれにショーウインドウに映し出される。


ふと足が止まった。

不格好な自分の姿が目の前にある。

どうして私なんかが、サクのことを好きになって、恋が始まるなんて期待したのだろう。

何も始まるわけはない。最初から、一歩も二歩も引いている。もっと可愛く生まれていたら、この恋もきっとうまく立ち回れた。

サクの左腕はもとからピンク色の彼女の居場所なんだ。

潤には会えない。

そこは私の居場所ではない。そんな気がする。


優紀は踵を返した。来た道を逆に歩いてゆく。丸善はすぐそこなのに、基次郎のように潤の心の中に、レモンを置いては来れない。

携帯を片手に取り、一時間前の無登録の番号を探す。

中央のボタンを押すと.番号が点滅して潤を呼び出している。

「ねえ!どうして。」

強い口調で呼び止められた。左手を掴まれて振り向いたら潤の真剣な顔がそこにあった。潤の右手に握り締められた携帯から、着信音が流れている。


昨日の延長線上に今があり、昨日の悲しみがあたりまえのように心の中に滑り込んで来る。

優紀は舗道の真ん中で涙ぐんでしまった。

優紀の手首を掴んだままの潤は、優紀の肩を自分の胸にそっと抱き寄せた。

木綿の白いティーシャツには日向の匂いが微かに残っている。優紀はその匂いに包まれていた。

安堵感は心の枷を解き放つ。グラスに注がれ満ちる発泡水に似ている。優しい音を立て心の底辺から立ち上ぼり、上澄みへ向けてゆっくり広がっては消えてゆく。


優紀を抱いたまま人目を避け路地へ入った潤は、ビルの壁にもたれ、優紀が泣きやむのを待った。

--参ったな。

女の子を腕に抱くのは初めてじゃない。けど、いきなり優紀とこんなシチュエーションになってしまうなんて、戸惑ってしまう。

潤は携帯を持たない方の指を優紀の首筋にぎこちなく置いてみた。


仰向くと、ビルの稜線に鋭角に切り取られた真夏の空色が目に染みる様に煙っている。

「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど。」

潤は優紀が泣いている原因が自分にあると勘違いしている。

たぶん困った顔をしている。そろそろ泣きやまなければ、潤に悪い。

優紀は潤の胸から顔を上げた。

「あっ。」

潤のティーシャツの少し依れた衿ぐりに、優紀のリップグロスが滲んでいる。

「へいき、へいき。」

潤は携帯をジーンズのポケットにねじこんだ。


澱んでいた空気が一気に流れ出す。


潤は、路地に突き出た喫茶店の看板を目指して歩き出した。

ジーンズの腰にぶらさがったバックスキンのチョークポーチが揺れ、金属製のフックが軋む音がする。


会っていきなり抱擁シーンになってしまうなんて、お互いに気恥ずかしかった。


喫茶店の中は薄暗く、それをうやむやにしてしまうには、好都合だ。

板張り風の床の上に古いジャズのストリングスが、降り積もってゆく。

足もとがここちいい。

珈琲の専門店らしく、メニューに珈琲の名前がいくつも並んでいる。豆の名前だったり、焙煎方や抽出方だったりする。

潤はエスプレッソ。優紀は、

「シナモン珈琲。」

名前で選んだ。

「どうして帰ろうとしたの。」

口調が優紀を咎めていた。

「じゃあ聞くけど、どうして私なんか誘ったの。」

優紀が咎め返した。

「それにあの電話番号、なんで知ってんのよ。」

「アパートの?村井に聞いた。」

村井比呂。アパートの二階に住んでいる卒業生の名前だ。アパートは学生専門なのだが、彼女は職場が近いので、そのまま契約を更新して住んでいた。

比呂は短気大学部を今年卒業している。潤は大学の方の二回生だ。すんなり繋らない。

気になるが、それ以上問い詰める立場ではない。

「俺の質問の答えは?」

答えなければならない。

「自信なくて。」

「なんの?誘ったのは俺だし。それでいいじゃない。」

「なんで私なのかな。」

潤は前髪をかき上げた。浅黒い肌に切れ長のはっきりした目。優紀を見つめて言った。

「人を好きになるのに理由がいるかな。」

「えっ」

もう一度聞いて確かめたかった。

もう一度言うかわりに、潤はウエストに挟んでいた包みを背中から取り出し、優紀の前に差し出した。

「開けてみて。」

包みから滑りだしたのはベージュの布で丁寧に丁装された一冊の本だった。

金色の文字で立原道造詩集と刻印されている。

サークルの何人かと古書店をはしごした時、見つけたものだった。高価だったのでそうっと書架の、もとあった場所へ戻しておいた。

誰も知らないことだった。でも潤は見ていた。

優紀は表紙の匂いを嗅いだ。古い図書館の日だまりの匂いだ。


うれしい。

優紀を抱き寄せた時、潤の意志とは違う方向へ逃走し集中した身体中の体液が、規則正しい場所へ拡散して行った。


正直、彼女に悟られはしないかとどぎまぎしていた。中学生じゃあるまいし、ばかばかしい。どうかしている。


「うれしい。」


言葉のあまりの素直さに、思考回路が弛緩した。


優紀の泣いていた理由のひとつに心当りがある。


それを知っていて、彼女を誘い出した。


俺はずるい。

彼女の心の深淵に鋭く刻まれた隙間に、素早く潜り込んだ鮫のように狡猾だ。


優紀が柵田に恋心を抱いているのは、誰もが知っていた。


柵田自身もそれを知っていた。彼女の気持ちをほかの女のそれと天秤にかけて量っていた。


人の想いがそんなふうに量れるはずはない。柵田は分りやすい方を選んだのだ。


ひらたく言えば、やっちまったってことだろう。


まんざらでもない相手なら、そこから慣れ親しみ、始まり、溺れる恋だってある。


もし今の彼女なら、強く誘えば、俺のアパートに連れ込む事だってできる。


八坂を下った安井神社の辺りは、ラブホテルがひしめいている。なにげなく路地へ入ってしまえばきっと付いて来る。今夜、彼女を抱いてしまうことさえ簡単にできてしまいそうだ。


そんな危うさが、彼女の表情に見え隠れしていた。


ウェイターが珈琲をステンレスのトレーに載せて運んでくる。


エスプレッソのカップは少し小振りで、暖かい乳白色をしていた。

ついさっき、潤の鎖骨のあたりに触れていた、優紀の頬の柔らかさに似ている。


優紀の前には、薄手の白いボーンチャイナ。ついさっき、優紀の首筋を撫でた、潤の掌の皮膚の薄さに似ている。


ソーサーにはシナモンのスティックが添えられている。


この恋は、そんな安易さで始められない。


優紀を初めてキャンパスでみかけてから三ヶ月。ためらうことなく抱き続けた想いがある。


今までとは違う。そろそろ俺は、俺を偽らない言葉で表現するべきだろう。


難解な詩は、鎧にしかすぎない。立原道造の詩に心動かされる君が羨ましい。


金色の心は、いつか俺に与えられるだろうか。傷つかないよう。傷は早く癒えるよう。


しかし、そんな物はいらない。君と恋に墜ちてしまいたいだけなんだ。


優紀はシナモンスティックで珈琲をかきまぜた。


シナモンの香りがわざと置き忘れてきた様々なものを思い起こさせてくれる。


ひとくち啜って、優紀は眉間に皺を寄せた。シナモンの香りが勝ち過ぎていて飲めたものではない。


シナモンはスパイスだ。利き過ぎるとなにもかもがぶち壊しになる。


俺みたいだ。スパイスなんてそんな上等なものではないだろうけれど。


「こうしたらいいかもね。カプチーノにシナモンいれたのあるし。」


潤は、優紀の珈琲にミルクを多めに注ぎ、砂糖をいれて掻き混ぜる。そしてスプーンを舐めた。


「大丈夫。飲めるよ。旨い。」

「美味しい?ほんとに?」


「俺のも。エスプレッソカプチーノ。」

潤が面白がって、自分の珈琲にミルクと砂糖をいれる。

優紀が、他愛なく笑う。笑い声がテーブルを転がって椅子にこぼれる。ジャズのメロディーがその音を五線譜にひろっていく。


「あっ。ほんと、いける。潤のもシナモンで掻き混ぜなきゃ。」


「俺のはいいよ。」


今、潤って呼んだ?私。


今、潤って呼んだ?俺のこと。


珈琲はいつもブラックで飲む。甘いのは好みではない。しかし、そうでなきゃならない時もある。


胃にもたれそうな甘ったるい恋の始まりがあってもいい。

優紀。俺、この恋、始めていいかな。


潤は、真っ直ぐ優紀をみつめた。


潤。私、この恋に飛び込んでいいかな。

優紀は暖かいシナモン珈琲の甘みを確かめながら、上目遣いに潤をみつめた。。


床に降り積もる、ジャズナンバーが、スターダストに変わっていた。


夕暮れまでここに居よう。


一話完結で、どこにでもあるラブストーリーを贈りたいと思います。ひとつのストーリーが他のストーリーにクロスオーバーして・・・巡っていきます。

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― 新着の感想 ―
[一言] ストーリー展開の方法・・・というか物語の視点を誰に置くのか。それがはっきりしていません。その点も含めて全体的に読みにくかったです。
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