第42話 第2次世界大戦後の子ども達の現実に哀しくなりました。
第2次世界大戦後、僕はフランスでジャンヌと結婚生活を営み、末娘のファネットを育てる日々を結果的には送ることになった。
それこそ、フランスに住むと決めた時点で、僕は海兵本部に対して予備役編入願いを出しており、それは日本の軍縮の流れからすぐに受け入れられた。
だから、僕は予備役編入に伴う昇進もあって、予備役海兵隊中将として、悠々自適の年金生活をフランスで送ろうと思えば送れることになった。
とはいえ、そんな僕からすれば自堕落生活を送るには、50代の僕はまだまだ若過ぎた。
だから、息子を介したコネまで駆使して、フランスのサン・シール陸軍士官学校の非常勤歴史講師等の職を得て、それなりに僕はフランスで働き、その報酬も併せて、妻子を養う生活を送った。
その一方で、第2次世界大戦後の世界は、平和とは中々言えないのが現実で、僕の子ども達はその現実への対処に振り回された。
僕は、子ども達と手紙のやり取りをするたびに、溜息を吐く羽目になったのだ。
長女の幸恵は、平和な生活を送れたが、それでも心を痛めねばならなかった。
幸恵は、母のキクの跡を継ぎ、料亭「村山」を経営するようになった。
史実と同様に、第2次世界大戦終結前後に、キクの結婚相手の「村山」の花板が急死したこともあり、キクは料亭経営から徐々に手を引き、幸恵に料亭経営を譲ったのだ。
そして、「村山」は横須賀の海兵隊御用達の地位を占めるようになって繁盛はしたが。
海兵隊は、後述するように第2次世界大戦後も世界に赴かねばならず、それは「村山」の客にも、微妙に昏い影を落とさざるを得なかった。
表目上は明るくとも、影が見えてくる。
幸恵が、心を傷めるのも無理のない話だった。
総司にしても、チベットやウイグルの動乱に際して、現地政府と中華民国政府の仲裁のために、日本海兵隊の一員として、現地に赴かざるを得ない羽目になった。
チベット等の現地政府が、住民は独立を支持している以上、独立が当然と主張するのに対し、中華民国政府は、住民は中華民国への帰属を心から望んでいる以上、それを援けるのが当然と主張するのだ。
この主張は、それぞれの住民、民族、宗教等が絡んでいて、ある意味、どちらも正しい主張を行っているともいえる。
だから、ほとほと日本は手を焼くことになり、海兵隊員の犠牲者は絶えず、総司は心を傷めた。
アランに至っては、言うまでもない。
仏印や北アフリカといった仏領植民地の独立運動に、アランは仏陸軍士官として対処した。
僕の助言もあり、綺麗に植民地を独立させよう、とアランは動いたが、実際問題として、そう上手く行くものではない。
アランが壊れねば良いが、と僕やジャンヌ、カテリーナ、カサンドラらは心配することになった。
そして、僕にしてみれば、最も意外な事態を引き起こしたのが、千恵子だった。
千恵子は、第2次世界大戦終結後、土方伯爵家の援助もあり、東京帝国大学医学部への編入学を無事に果たすことになった。
出産と育児の合間を縫って、医学の勉学に励み、千恵子は医学博士と呼ばれる身になった。
何故に、そこまで千恵子は頑張ったのか。
それは、千恵子の第2次世界大戦の経験がもたらしたものだった。
実際には、それこそ戊辰戦争以来、陰ではささやかれていたことだったが、日本の社会で現実に大問題に戦争神経症がなったのは、第2次世界大戦がきっかけだった。
特に中国戦線帰りに戦争神経症患者が多発した。
(原因は言うまでもないだろう)
これに対処するために、日本政府、軍は力を注ぐことになり、予備役編入された軍医士官の千恵子も、夫や弟達が心配なこともあり、戦争神経症治療の勉強をして医学博士と呼ばれる身になったのだ。
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