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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
グレートジャーニー(玉葱とクラリオン after story)
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NY探訪編⑯

 空は狭いものだと思っていた、部屋の天井みたいなものだと。下を向いていた方がずっと貰いは大きかった。この重力の井戸から抜け出したら、宇宙がどこまでも広がっているなんて、とても信じられなかった。


 物心ついた頃にはニューヨークで母と暮らしていた。家は貧乏でいつもお腹をすかせていた。母はフードバンクなんて制度があることすら知らず、いつもボロボロになって働いていた。きっと救いを求めれば誰かが助けてくれただろう。でも彼女は一度だって誰かに助けを求めたりはせず、そうやって援助を受けられる人が世の中にいる、ということすら知らずに育ってきた。そういう家庭に生まれたのだ。


 それでも彼女には音楽があり、それが彼女の拠り所になっていた。家には古ぼけたコンポが一台だけあり、擦り切れそうなCDがセットされていた。いつも掛かっている昔流行した音楽が、彼女の創作だと知ったのはもっと大人になってからだ。


 ニューヨークは広いようで狭く、売春婦はみんな顔見知りみたいなものだった。結局、人間は似た者同士で寄り集まる。彼女らには互助組織みたいなものがあって、母はいつもそこで子供たちの面倒を見ていた。


 理由は単純。ピアノが弾けるから。


 母は子供たちに求められるままにピアノを弾いて、古い歌も流行りの曲も、彼女に掛かれば耳コピなんて一瞬だった。そんな母のことを子供たちは純粋に尊敬し慕っており、自分は息子として母を誇りに思っていた。


 でも、仲間はそんな母のことを、表向きは良くしてくれていたけど、裏では陰口を叩き、利用することばかり考えていたようだ。生まれた国も育ってきた環境も違う母のなにかが、彼女らには鼻についたのだろう。彼女らは事あることに嫌がらせみたいにちょっかいを掛けてきた。母はその事に気づいていたが、気づかないふりでこき使われていた。作り笑いの上手い人だった。


 そんな生活を続けてたせいか、体はいつまで経っても小さいままだった。夜は殆ど眠れず、腹いっぱい食べられることは稀だった。あの頃は夜に出ていく母が何をしているかは分からなかったが、直感からあまり良いことじゃないのは分かっていた。だから止めて欲しかったけれど、言えば彼女の機嫌が悪くなるから、いつか言わなくなっていた。


 結論から言ってしまえば母は売春婦だったわけだけど、まだ小さかったから、当時の自分には分からなかった。たまに怖い男の人がやって来て、家を追い出されることがあったけど、そういう時は別の売春婦が面倒を見てくれた。その人に客が来たらまた別の人へとたらい回しだ。


 そんなある日、そういうのとは関係ないことで揉めたことがあった。いつもなら追い出されるはずが、あんたは隠れていなさいと部屋の奥に押し込められて、玄関では母が男となにやら口論をしていた。


 今思えばあれが父親だったのだろう。口論は長い間続き、男の怒鳴り声が聞こえ、母はヒステリックに叫び、泣いて縋り、そして捨てられ打ちのめされていた。自分は怖くて隠れているしかなかったが、とにかく言われた通りじっと息を潜めていたら、やがて母のすすり泣く声だけが聞こえてくるようになり、恐る恐る外に出てみたら、玄関で母が泣いていた。


 慰めようとしたが触った途端あっち行きなさいと突き飛ばされて、どうすることも出来なかった。手持ち無沙汰のままじっと見ていることしか出来ず、それが自分にとって苦痛だった。何か彼女を慰めるものはないかと考え、外へ花でも摘みに行こうと思い立った。女性はみんなお花が大好きなのよと、いつか母が言っていたから。しかし、今思えばそれは間違いだった。多分この時、母は自分にも見捨てられたと思ってしまったのではないか。


 外は寒くて、息は白く、手はすぐ真っ赤になった。花を探そうにも冬なのでそう簡単には見つからず、ようやく遠くの公園に見つけたときには雨が降っていた。帰り道には雨は雪へと変わり、辺りは真っ暗になっていた。やっと家に帰り着いたときにはずぶ濡れで、手はかじかんでいた。もちろん花束なんてもんじゃなくて、せいぜい数本の小さな花を握りしめて玄関のドアを開けると、天井からぶら下がっている母の姿が見えた。


 上手く首が絞まらないと相当苦しいと言うけれど、母の顔は紫色に変色し、その目は飛び出て充血していた。その苦悶の表情が玄関に佇む自分を捕らえて、足がすくんで動かなかった。苦しさから引っ掻いたのか首から血が滴り落ちていて、真っ赤に染まった爪がめくれあがっていた。弛緩した体から汚物を垂れ流し、床を黒く汚して、酷い臭気が立ち込めていた。


 自分はぶっ壊れた警報装置みたいな悲鳴をずっと上げていたらしく、それがうるさくて様子を見に来た近所の人に、母の死体はすぐ発見されたようである。その後は警察が来たり、大使館が来たり、色々あって自分は日本の祖父母の家に引き取られることになった。


 言葉も通じない異国の地で、母が死んだのもあって、その頃のことはもう殆ど覚えていない。ただ、娘に先立たれてしまった罪悪感からだろうか、祖父母には随分気を遣って貰っていたから、割とすぐに新しい環境にも慣れていった。


 自分で言うのも何だが、自分は成績優秀で友達も多く、わがままを言うことなんて一度もなく、理想的な学生を演じきれていたと思う。それを祖母には見抜かれて、そんなに無理をしなくていいのよと言われたものだが、全然無理なんかしてないよと笑ったものである。でも自分に良くしてくれる祖父母に心配を掛けないようにと振る舞いながらも、心の奥底ではいつも考えていたのだ。


 どうすれば、母を救うことが出来たのだろうか。何をしていれば、彼女は死なずに済んだのだろうか。いやそもそも、自分なんて生まれてこなければ、彼女が苦労することも無かったんじゃないかと。


 もしあの時、自分が外に飛び出していかなければ、母は死なずに済んで、今も変わらず2人ニューヨークで暮らしていたんだじゃないか。それで幸せだったかどうかは分からないけど、少なくとも彼女は生きていられた。死者はもう、幸せを感じることすら出来ないのだ。彼女が死ぬくらいなら、自分なんて居なくなってしまえばよかったのだ。


 だから……


 欧州の世界樹でAIプロメテウスにいきなりこの街に連れてこられて、自分が小さな子供になっていて、そして母が生きていることに気づいた時、なんとかして彼女を生き長らえさせようと思った。


 母を父から遠ざけ、支援を受けることを覚えさせ、音楽のサポートをして、売春から足を洗わせようと試みた。それでも彼女は仕事をやめなかった。そんなことする必要はもうないのに、彼女はいつまでもそれを続けて、そして最後には必ず父が現れ、彼女は傷ついて死んでしまうのだ。


 でも次の瞬間にはまた最初の日に戻っていて、彼女は何事もなく生きているのだ。だから今度こそ彼女を救おうと、手を変え品を変え色んな方法を試してみたのだけれど、毎度毎度、最後に彼女は死んでしまう。今回はアンナやブリジットが現れて、今までとは大分経過が違ったけれど、やはり結果はいつもと変わらなかった。


 母が首を吊ってる家の前で、世界がまた崩壊していく。砂の城が波にさらわれるように、世界を洗い流していく。最後にはいつも真っ白になる。


 どうすればこのループを抜け出すことが出来るのだろうか。


 世界が音を立てて崩れていく。


 もう感覚がない。


 目を閉じて、開ければまたあの日に逆戻りだろう。そしてまた繰り返すのだ。決して終わらない、母と過ごした終わりの数日間を。


 彼の意識は消えつつあった。このループも駄目だったとポインタを解放し、また次のループを開始しようと演算が始まる。世界コードが再入力され、また新たなニューヨークの街が形成される。その住人として彼が過去に出会ったあらゆる人々がNPCとして生成され、騒音が街を埋め尽くす。そこにはまた、母が生きているはずだった。


 今度こそ、母を救ってみせる。例えこの身が砕け散ろうとも……しかし、その時、声が聞こえた。


「いいえ、まだ終わっちゃいないわ……ハリー!」


 その声に、ハッと目を見開く。すると真っ白な光の中に、誰かが差し伸べる手が見えた。薄れゆく意識の中で、彼は手を伸ばそうとした。体は感覚がなく、もう殆ど言うことを聞かない。それでも指先を向けるくらいは出来たが、その手を掴むことは出来そうもなかった。彼は諦めかけたが、そんな彼の手を光の向こうから現れたもう一本の手がぎゅっと握りしめた。


 その瞬間、世界はパンと弾け飛ぶようなキラキラした光に包まれ、彼の体は宙に舞い上がり、上昇するような落下するような不思議な感覚が体を突き抜けていって、全面白に染まる視界の向こう側から、誰かを称える万雷の拍手の音が響いてきた。


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― 新着の感想 ―
チクショー 泣いちゃったよ…
そういえば母親とアメリカ暮ししてたみたいなこと言ってたなあ 読み返すとシオンはBIOSPHERE 2.0 ④で書かれてる但馬の母親ほぼまんまだな 帰国タイミングの違いはシミュ上のつじつま合わせかなんか…
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