NY探訪編⑧
暗い路地裏を駆けていた。手にはクリスマスプレゼントを持って。見上げる空は異常に狭く、ここがビルとビルの谷間だということを示していた。周囲は暗く、進行方向から来る光が、建物のシルエットだけを浮かび上がらせている。心做しか地面が近く見えるのは、いつもより視界が低くなっているせいだろうか。
アンナは自分が小さな子どもになっていることに気がついた。腕を振るたび視界の隅にちらつく、小っちゃな手でそれが分かった。体が小さくなったせいか体は思うように動かず、走っているとすぐに息があがってしまった。
彼女はどこかのビルに駆け込むと、入ってすぐの階段を上り始めた。普段の彼女なら二段抜かしでいける距離を、一段一段踏みしめながら、よちよちとしか上がれない小さな体に苛立ちながら、それでも彼女は懸命に上り続けた。
階段をよじ上るたびに、手にしたプレゼントの包装がカサカサ鳴って、彼女はラッピングが破けてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。それでもなんとか階段を上り終えた彼女は眼の前にあったドアへと駆け寄っていくと、いつもなら何も言わずに開けるドアをわざとトントンノックした。
返事は無く、沈黙が返ってきた。それでも中の人に見つからないよう、彼女はプレゼントを背中に隠しながらドアをそっと開くと、いま帰ったよと中に向かって声を掛けた。何故か異様に雰囲気が重く、空気が淀んでいた。部屋の中は電気が点いていなくて薄暗く、奥に進むのが怖かった。それでも、いつも暮らしている自分の家のどこに怖がる要素があるのかと自分に言い聞かせながら、彼女が靴を脱いで家に上がると……玄関を入ってすぐの部屋にそれはあった。
ガラガラと引戸を開いてすぐのリビングに、天井のライトにロープを引っ掛けて、首吊り死体が出迎えてきた。
足が地面についてなくて、宙に浮かんでプラプラしていた。
アンナは腰を抜かして床に尻もちをついた。
そして、そのつま先から膝へ、大腿部へ、胴体へと視線を辿っていけば、キュッとしまった首の上で、憎悪に染まる母の顔が彼女のことを見下ろしていた。
苦悶に満ちたその目は閉じること無く、ビー玉みたいに光沢の無い瞳が彼女のことを凝視している。それがまるで、おまえが悪いんだと言ってるような気がして、彼女は逃げるように背中を向けると、這うようにして玄関の外へ飛び出した。
そんな彼女の背後からは、おまえが悪いんだ、おまえが悪いんだと言う声が響いてくる。どこまでもどこまでも、おまえが悪いんだおまえが悪いんだと言う声が延々と追いかけてくる。その呪詛はまるで脳に刻まれてしまったかのように、どこまで行っても、いつまで経っても止むことはなかった。
***
ビクッと全身の筋肉が伸縮して飛び起きた。その拍子に狭いベッドのパイプに頭をぶつけて目から火花が飛び散った。アンナは頭を抱えてうずくまりながら、ウンウンとその痛みに耐えた。
彼女は涙目越しに、周囲の様子がいつもと違うことに気がついた。狭い六畳ほどの部屋の中には、剥き出しのハンガーラックに掛けられたオーバーコート、ところどころ浮いている白い壁紙、部屋を横断するように吊るされた洗濯紐には女物の下着と子供の半ズボンが掛けられており、天井ではゴーゴーとエアコンがすごい音を立てていた。
足を誰かに蹴られたような気がして目を向ければ、同じベッドの下の方で小っちゃな子供が寝ていた。ちょうど、アンナに潰されるような格好で眉間に皺を寄せて寝苦しそうにしている。ちゃぶ台の上には昨日食べた鍋が片付けられず放置されており、それを見てアンナはやっと自分がどこにいるのか思い出した。
昨日は確か、偶然知り合ったシオン親子に頼まれて、クリスマスパーティーで演奏をしたんだった。その後、彼女の家で晩御飯をご馳走になって、それで意気投合してバンドを組まないかと持ちかけられたのだ。
アンナは消えた父を探しにこの街に来たわけだが、今までとは様子が違うこの街に長期滞在するには、どこか拠点を構える必要があった。ならばシオンの世話になるのも悪くないと思い、その話に乗ることに決めた。もちろん、父が見つかったらまた世界一周の旅に戻るつもりでいると伝えたが、彼女はそれでも構わないと言った。
シオンに言わせれば音楽というのは一期一会で、その時を逃したら二度と会えない風景を切り取っているようなものなのだそうだ。和音というのがそもそも音と音がぶつかりあって、新たな心地よい音を形成するものではないか。仮にアンナが一陣の風のように去ってしまうとしても、それが今音楽をしない理由にはならない。そんな風に言われると確かにそんな気がしてきて、アンナは暫くの間この親子のお世話になることに決めた。
しかし、ブリジットたちに何も言わずに決めたはいいが、彼らは今ごろどうしているのだろうか。出来ればちゃんと断っておきたいのだが、どこにいるか分からないし、どうしたものかと悩んでいると、
「アンナ、やっと起きたの? だったら、そこの寝坊助も起こしてちょうだい」
アンナがベッドの上でぼーっとしていると、洗面所の方から歯磨きしながらシオンが顔を出した。言われたとおりにベッドの隅っこで死んだように眠っている子供を揺すり起こしていると、やがて歯磨きを終えた母親が戻って来て、
「そんなんじゃ駄目よ」
と言って、ゴロゴロ息子の体を転がしてベッドから落っことしてしまった。
「ちょっと、可哀想じゃない?」
「平気平気」
抗議したが慣れた様子で彼女は洗面所へと戻っていった。実際、子供の方も慣れた様子で、床の上であくびをかましたと思ったら、特に何も言わずにスタスタと洗面所へ消えていった。アンナは、世の中にはいろんな親子が居るもんだなと思った。
「あれ? 二人でお出かけ? いってらっしゃい」
親子に洗面所を独占されてしまったので、自分は朝のギター練習をしていると、外出の準備を終えたシオンが戻ってきた。その横には半ズボンをサスペンダーで吊り下げて、おめかしをした息子が立っている。そんな二人を見送ろうとしていると、
「何言ってるのよ、アンナも行くのよ」
「行くってどこへ?」
するとシオンは真剣な表情で、
「ここで暮らしていくなら覚えておきなさい。月曜の朝と言えば狩りなのよ」
「狩り……?」
狩りならばエルフには劣るが、アンナもそこそこの腕前はあるから、足手まといになることはないだろうが……しかし、この街のどこで狩りをすると言うのだろうか? こんな人口密集地では大物は期待出来そうもないし、そもそも親子は武器すら持っていない。
一体、どういうつもりだろうか? と不思議だったが、早くしろとせっつかれるので、彼女は渋々洗面所で顔を洗うと二人に引きずられるようにして外へ出た。
パーティーがあった昨日はクリスマス・イブだったから、今日は正真正銘クリスマスの朝だった。街はキリストの生誕を祝う人々で賑わっており、あちこちにサンタクロースの赤い服が見え、クリスマスプレゼントを貰った子供たちの幸せそうな声が響いている。
そんな光景を目にしながら、今日も相変わらず渋滞して進まない道路に沿って暫く行くと、展示場みたいな近代的な建物の前に行列が見えた。
あれはなんだろう? と思っていたら、どうやらここが目的地だったらしく、親子は吸い込まれるように列の最後尾に並んだ。騒がしいその行列の先を見れば、看板にフードパントリーと書かれてあって、赤い服を来た従業員らしき人々が忙しそうに、列に並ぶ人々に向かって話しかけていた。
何を聞いてるんだろうと思っていたら、やって来たスタッフにシオンが親子三人無収入だと言っていた。どうやら収入を聞いているようだった。どうもここは貧しい人に食料を配っている場所だったらしく、彼はノートに何かを書き入れてから特に何も言わずに去っていった。
そうと知ってから改めて行列を見てみれば、シオンみたいに小綺麗にしている人もいれば、ボロを纏ったホームレスらしき人々も大勢並んでいた。収入を聞かれて突然泣き出す綺麗な洋服を着た女性が居たり、いくら話しかけてもぼんやりしている虚ろな男性や、中には食べ物を貰えるというのに怒り出す人まで居た。なんでなんだろう?
そうこうしていると行列が動き出し、会場の中に入れば、大きな体育館みたいな場所に信じられないくらい沢山の食料が積んであってビックリした。どれもこれもロディーナ大陸出身のアンナからすればご馳走みたいだったが、上限は決まっているが好きなものを取っていいらしい。だからみんな早く来て行列に並んでいたのだ。シオンは、アンナが来たことで貰える量が増えると言って喜んでいた。
プラカードに書いてある順路に従って歩いていき、シオンに言われるまま食品をカゴに詰めていき、アンナは玉葱1袋に豆の缶詰4個、冷凍ひき肉500gにパスタ1キロ、ハムにじゃがいもにバゲット4本、チーズにバターに卵に豆乳と、とても一人じゃ食べきれないほどの食品を、無料で、ほんの数分で手に入れてしまった。
ロディーナ大陸でも教会が炊き出しをすることくらいはあったが、こんなにお腹いっぱい食べられるなんてことは有り得なかった。どうしてこの人たちはこんなに大量の食料を恵んでくれるのか? とシオンに聞いてみたが、彼女は「さあ?」と言うだけで答えてはくれなかった。多分、答えなんかないんだろう。
なんとなしに振り返れば、そこには笑顔よりも暗い顔をしている人のほうが多かった。さっき表で怒っていた男がまだ怒っているようで、スタッフに囲まれながら移動していた。あんなのさっさと追い出せばいいのに……
その様子を眺めていたら、シオンにこっちに来いと手招きされた。ついていくと食料庫の隣には、これまた大量の洋服がアウトレットモールみたいに陳列していた。アウターにシャツにズボンにスカートはもちろん、イヤーマフに手袋、靴に下着まで、選り取り見取りの洋服が取り揃えられている。
サイズもいくらでもあって、なんだここは、倉庫かな? と思っていたら、スタッフがアンナの服装を見るなり好きなのを選んで持っていってくれと勧めてきた。
まさかと思ったが、どうやらこれもタダで配っているらしい。流石に悪いと思って辞退しようとしたが、ここにあるのは全部誰かが捨てるつもりで寄付してくれた物だから大丈夫だと言われ、寧ろ、遠慮しようとするその態度を褒められてしまった。
唖然としながらシオンと一緒に陳列棚を周り、息子の着替えと一緒に色々選んでもらった。アンナは暖かいセーターとダウンのジャケット、ブラウスとスカート、それから編み上げのブーツを手に入れ、下着まで一緒に包んでもらった。見たところ全部新品と変わらず、スタッフは不用品と言っていたが、とても信じられなかった。
新しい洋服に着替えて施設を出ると、外にはまだ行列が並んでいた。これがみんな食うに困って集まってきた人間なのか……一体、どれほどの人が食料を求めてここにやって来るんだろうかと思っていると、親子が二軒目に行こうと言い出した。なんの冗談かと思ったら、この街にはこの手の施設がまだいくつもあると言うから目玉が飛び出そうになった。
この街の常識は自分が生きてきた世界とはかけ離れて過ぎていて、まるで夢を見ているようだった。というか、これだけの物資は一体どこからやって来るのだろうか……? 街の外は無限の荒野が広がっていたはずなのに、彼らはこの狭い空間にひしめき合うように住んでいる。
何かがおかしい……それは分かっているのだけれど、アンナにはまだ何がおかしいのかが良く分からなかった。






