その子には名前が無いの
アンナの言葉に不審な点を見つけたアーサー達は、彼女から詳しい話を聞くべく街を探し回った。リーゼロッテはそのことを気にしてはいたが、アンナと再会するのが怖いからと、うじうじして店から出てこなかった。
剣聖は思っていたのと違ったなと感想をつぶやきながら、アーサー・アトラス・エリックの三人は手分けしてアンナを探そうと街へ散っていった。何かあったら店に戻ってきて報告し合おうと言う約束だったが……しかし、三人は探し始めてものの十分程度で、すぐに店の前まで戻ってきてしまった。
アンナを探そうと思っても、街の至る所に親衛隊が居て彼女を探しているらしく、こんな状況で彼女が姿をあらわすとは思えなかったからだ。
「ここまでするものか? そりゃ、魔法を使ったアンナも悪いが、泣いてる子供に手を上げた兵隊の方がもっと悪かろう」
「たかがメンツに拘って、アナルの小さい奴らね、プンプン」
「どうしますかねえ、これじゃあ探しようもないですよ」
「そうね。あの子のことだから、もう街から出ていっちゃったかも。一人でなんでも出来る子だから、心配はいらないけど……」
「いや、一緒に剣聖に会ってくれると言ってたんだ。あいつが約束を違えることはないだろう」
「そうですねえ……じゃあもう少し探してみますか。俺達が探してるのを見かけたら、向こうから出てきてくれるかも」
「そうだな、そうしてくれ。俺は宮殿に向かおう。シリル殿下にお願いしたら、親衛隊を少しは抑えられるかも知れん」
「そうだといいっすけどね」
三人は情報交換だけすると、また各々街へと散っていった。アトラスは城壁に沿って、エリックは街の中心を主に、アーサーは宮殿へと雪降る街をそれぞれ歩いていった。
サンタマリア宮殿に戻ってきたアーサーは、侍女にシリル殿下への言伝をお願いすると、今度はリリィに会いに大聖堂へ向かった。侍女が言うには、殿下は弟であるガルバ伯爵に弱くて、あまり強いことが言えないそうである。ただ、伯爵はリリィには甘いらしいので、そう言うお願いをするなら、あっちに言ったほうが良いですよと勧められた。
国の様子もおかしければ、家庭の事情も面倒くさいようである。アーサーはあまり長居したくない国だと思いながら、雪を踏みしめながら来た道を戻っていった。
視界は真っ白に染まっており、もしかして吹雪いてくるのだろうか、横殴りの牡丹雪がポツポツと頬に当たる度に、針みたいな鋭い痛みが走った。視界不良の雪道をうなだれながら、来た時に自分が付けた足跡を頼りに黙々と進んだ。
と……そんなアーサーの前に、突然、小さな影が飛び出してきた。その小さな影はキョロキョロと辺りを見回して、アーサーの姿に気がつくと、積もったばかりの雪をかき分けるようにして、彼のもとへと歩いてくる。
「むむ、ちびっ子ではないか。どうしてこんなところに」
それが剣聖の店に置いてきた年少の子だと気づいて、アーサーは驚いた。店とここでは結構な距離がある。アーサーのことを追いかけてきたのだろうか。本当にちょっとでも目を離すと、これくらいの子供はどこまでも行ってしまうものだ。息せき切って走ってくる子供を、彼はしゃがんで迎えてやった。
「王子~。見て。オバちゃんにもらった」
すると子供は嬉しそうに、自分の手にはまった毛糸の手袋を彼に見せびらかした。どうやら編み物を習っている剣聖にプレゼントされたらしい、アーサーはそれは良かったねと一緒に喜んでやってから、
「それは良いのだが、一人でこんなとこまで来ては駄目だぞ。今頃、店から消えたちびっ子のことを剣聖様が探してるかも知れん」
「ごめん」
「まあ、来てしまったものは仕方ないが……それから、剣聖様のことは今度からオバさんではなく、お姉さんと言うのだ」
「どうして?」
「作法みたいなものだ、深く考えてはいかん。お茶碗を持つ時は必ず左手で持つみたいに、年配の女性にはそう言っておけば万事うまく行く」
「わかった」
アーサーはそう言ってから子供のことを抱っこすると、仕方ないので一旦店まで戻ろうと歩き始めた。
「しかし、店と大聖堂では逆方向だ、二度手間になるかも知れん。帰ったらアンナが見つかってればいいのだが……」
「ミンストレル……お姉さんを探してるの?」
「そうだ……ミンストレルのことは好きに呼んでもいいぞ」
するとちびっ子は少し考える素振りをしてから、
「……お姉ちゃんなら、あっちの方に居るよ」
と言って、今まさにアーサーが行こうとしていた大聖堂の方角……つまり世界樹を指差した。
「どうしてそう思うんだ?」
「さっき見かけた」
アーサーが首をひねってると、子供はさも当然といった感じでそう言った。
店と宮殿と世界樹は、ちょうど正三角形の頂点の位置にあった。だから、ここまで歩いてこれるなら、世界樹に行くのも大して違わない。
「そうか……じゃあ、先にあっちから行こうかな」
アーサーは本当に子供の行動半径には驚かされると反省しつつ、さしてこの子の発言に疑問は持たずに、大聖堂へと足を運んだ。
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世界樹の遺跡の中でリリィと遭遇したアンナは、彼女に誰と話していたのかと問われて、咄嗟に嘘を吐いた。イルカに自分のことを話しちゃいけないと言われたからだ。そのイルカはリリィの登場と共に口を閉ざして、空飛ぶ風船みたいに周囲をプカプカ浮いているただのオブジェと化していた。
自分だけだんまりを決め込んで、追求されたら嫌だなあ……と、ドキドキしながらリリィの言葉を待っていたが、彼女はアンナの独り言だという言葉を信じ、代わりにアンナが背にしていたポッドに手を突きながら、残念そうにため息を吐いたのであった。
その表情に少し疑問を覚えたが、アンナは今は自分の独り言から話を逸らすのが先決だと、彼女に改めて世界樹に入ってしまったことを詫びた。
「うん? そうじゃな、勝手に入ったのはけしからんが、誰も責められはせん。ここに入るには特別な才能が必要なのじゃが……やはり、血筋かのう」
血筋と言うと、魔王のことを言ってるのだろうか……アンナが暗い顔をしていると、目が見えないというのにもかかわらず、リリィがそれを敏感に察し、
「そなたの父も母も、両方共入れたのじゃ。これは凄いことじゃぞ? この国に住む者の中で、最初の部屋に入れる者ですら両手で数えるほどしか居ないはず。そんな特別な才能を両親から受け継いだそなたがここに居るのは当然のことと言えよう」
「お母さんも……リリィ様は、お母さんのことを知ってるの?」
アンナは目をパチクリした。彼女が母を亡くしたのは10年前、4歳の時のことである。母の話はあまりよく覚えていなかったのだ。
それもそのはず、ビテュニアでアナスタシアは、方伯の庇護を受けるためにその過去を隠していた。魔王とのつながりを、誰にも喋ることが出来なかったのだ。だから彼女は母の詳しい過去を何も知らなかった。
寧ろ、彼女が愛おしそうに語った、父親の事のほうが詳しいくらいだった。方伯の庶子として生まれた音楽家の父親……世界中をキャラバンで旅した愉快な父……そんなものは現実に居なかったのに、母はいつも懐かしそうな目をしながら彼のことを語ってくれたのである。あれは一体、誰のことだったのだろうか……
今にして思えば、それが人々を苦しめる魔王のものだと言うのは想像がつくが、どうしても母の語る理想像と魔王のイメージが重ならず、アンナはいつしか母の過去について、あまり詳しく知ろうとは思わなくなっていった。思い出せば、母が居ない現実が辛くなるし……
魔王のことが憎めなくなる……
だから考えないようにしていたが……気が付けばアンナは、目の前にいる母親そっくりな女性にそれを尋ねていた。
「ふむ。知っていると言えば知っておる。そなたの母アナスタシアは、一時ではあるが、サンタマリア宮殿で暮らしておった時期がある」
「……お母さんが!? 一体、どうして」
「おや、知らぬのか? そなたの母親はそれはそれは凄いヒーラーだったのじゃ。今はヒール魔法という奇跡が使えなくなってしまったから、歴史の中に忘れ去られてしまったが……アンナはヒーラーという職業のことを知っておるかの?」
「う、うん。昔は傷ついても魔法ですぐに治せたって」
「アナスタシアはただのヒーラーではなく、病気まで治せるという特別な才能を持っておってな。余の母上は、生まれつき体が弱くて、しょっちゅう病気や怪我をしておったのじゃが、彼女がアクロポリスに来てからはとても体調が良くなってのう……この国にいる間は、請われて宮殿に滞在しておったのじゃ。余も、聖女の生まれ変わりとか、奇跡の子なぞと呼ばれておったが、そんなものは霞んでしまうくらい、そなたの母は凄い術者じゃった……まあ、出自を聞けば納得じゃが」
「出自……? お母さんは、リディアで生まれ育ったんじゃないの?」
するとリリィは少し困惑したように口を噤み、暫し考え事をするように低く唸り声を上げていた。やがて恐る恐るといった感じに、
「アナスタシアは、そなたに何も語らなんだか……無理もないかも知れぬ。そなたの母は、とてもご苦労なされた方じゃったからのう……良いじゃろう。思えば余とアナスタシアは血縁者のようなものであるし、その余からそなたに母のことを話してやるのも何かの縁なのかも知れぬ」
「え……? お母さんとリリィ様は親戚だったの?」
するとリリィは苦笑いを浮かべながら、
「そうではないのじゃが、いや、もしかしたらそうかも知れぬの。余はアナスタシアの伯母に当たるのではなかろうか……アンナよ、そこに透明な水槽が見えるな。そこに何か入っておるか?」
リリィはそう言って、アンナの背後に有るポッドを指差した。アンナはキョトンとして振り返ると、
「ううん、なにもないよ?」
彼女がそう答えると、リリィはがっかりしたようにため息を吐いてから、
「さようか……実はそこには、数年前まで、人が入っておったのじゃ」
「……人!?」
「そう……それはクローンと呼ばれるもので、簡単にいえば、余の双子の妹みたいなものじゃった。これだけ言ったら察しがつくやも知れぬが、そう、余の実の両親は、父シリルと亡き母ジャンネットではない……余はそのポッドの中から生まれてきた、聖女リリィのクローンじゃ」
ポカーンとするアンナに対し、リリィは自分の生まれた理由を話して聞かせた。1000年前、聖女リリィが死の間際に、自分のクローンを残そうとしたこと。アクロポリスではそれが失敗して、彼女はティレニアで改めてそれを成功させたこと。アクロポリスのクローンは、その後皇国の初代皇王となって、その血筋が脈々と受け継がれてきたが、限界を迎えたこと。そして勇者がリリィを生み出したこと。
「余はそのポッドから生み出された。実は、ティレニアでは巫女と呼ばれる存在が、同じ方法で作られておった。アンナのお祖母さんがそれに当たる」
アンナの祖母は儀式を受けていずれ死ぬ運命にあったが、それを嫌った世話人の男が彼女を連れて逃げてしまった。そうして生まれたのがアナスタシアである。
「余は目が見えぬからわからぬが、余とアナスタシアはよく似ておったそうじゃのう」
「……うん。すごくそっくりで、びっくりした」
「それはこういうカラクリじゃ。余は聖女リリィのクローン、そしてアナスタシアはクローンの娘じゃった。遺伝的にかなり近い存在だったというわけじゃ」
そしてリリィは、想定外の事実に戸惑っているアンナに対し、少しだけ真剣な顔をして言った。
「そなたは、余を人ではない何か、不自然な存在であると思うか?」
「ううん。リリィ様は……お母さんと同じだし、そんなことを言ったら、私だっておかしな存在になっちゃうよ」
「そうじゃの。余は最初、この事実を知った時、父母と血のつながりがないことを知ってとてもショックじゃった。じゃが、そんなことをいつまでも気にしてはいられまい。人は生まれてくる家を選べぬ。じゃから、誰と誰から生まれたことではなくて、誰と生きるかが肝心なのではないか。例え余のように人間ですらない存在でも、ひどい親の元に生まれてくる者達と比べれば、ずっと幸運じゃった。その幸運を受け入れ、感謝せねばならぬ。血は繋がっていなくとも、心は繋がっているのじゃから」
そうリリィが自分に言い聞かせるように語った言葉は、自然とアンナの心を打った。リリィとアンナは似た者同士なのだ。アンナもある日突然、祖父と血がつながってないことを知った。母が亡くなったショックもあって、一時は心を閉ざしたが、だからといって、それまで育ててくれたことがチャラになるわけではない。
あの日、アーサーに言われて、祖父に会いに行って良かった。そして、すべてのことが終わったら、ちゃんと祖父のもとへ戻ろうとアンナは思った。
「そんなわけで、血の繋がりといえば、実は余とそなたにも繋がりがあるのじゃ……もしも何か困ったことがあれば、いつでも訪ねておいで。そなたは余の姪っ子みたいなものじゃからの」
「う、うん……でも、姪じゃなくて、孫とかじゃない?」
「……そなたは余の好意をさっそく無碍にするつもりか。やはり困っていても助けてやらぬぞ」
「あ、ごめんなさい……お姉……ちゃん?」
リリィはクスクスと笑ってから、アンナを抱きしめるようにしながら頭をなでた。背丈はアンナの方がずっと大きかったのだが、なんだか母に抱かれてるような、とても落ち着く感じがした。
思えば母が死んでから、どれだけの月日が経ったというのだろうか。もう覚えていないが、もしも母が生きていたなら、アンナはとっくに彼女の背丈も追い越してしまっていたのかも知れない……
そんなことを考えながら、リリィの抱擁を受けていると、そのリリィが突然何かを思い出したように、はぁ~っとため息を吐き、
「妹か……アンナよ、度々聞いてすまぬが、そこにはもう何も入っておらんのだな?」
リリィはそう言って、また空っぽのポッドを指差した。もちろん手品じゃあるまいし、見るたびに何かが入ってたり無かったりしたら大変である。
「うん……無いけど。本当に、ここに人が入っていたの?」
するとリリィは頷いて、
「うむ。そこには余のスペアボディというのが入っておった。もしも余に何か不測の事態があった時に、次期皇王になるはずの体じゃった……言うなれば余の、妹か娘みたいなものじゃ」
ところがそれが5年ほど前に忽然と姿を消してしまった。何が起こったのかを調べたくとも、元々、端末を操作してリリィのクローンを作ったのは勇者である。誰もその方法が分からなくて、ある時、可能性にかけてビテュニアに居たサリエラを召喚したのだが、残念ながら彼女でも何が起こったまではわからなかった。
これにリリィの叔父で親衛隊の親玉であるガルバ伯爵が動揺した。
前皇王が亡くなった今、皇王の証である世界樹の遺跡に入る能力を有しているのはリリィだけである。そのリリィに何かあった時に、代わりになるはずのスペアがなくなってしまっては、皇家が断絶の危機に立たされたようなものである。
残念ながらリリィにはまだ伴侶が居らず、子供も居ない。実を言えばこれまで結婚に何度も失敗している経緯もあった。きっと最初の婚約でケチが付いたのだろう。シルミウム方伯の息子アウルムとの結婚がご破産となると、また様々な国から縁談が舞い込んだが、当時保守化へと一直線に突き進んでいた国内の世論が許さず、良縁はあってもことごとくが潰された。
何しろ戦争にまで発展してしまったのである。皇王の権威を利用されるのを極端に恐れた当時のガルバ伯爵率いる保守党は、姪の可愛さもあってか、彼女の結婚を邪魔してしまったわけである。
それが痛恨の極みとなって跳ね返ってきたガルバ伯爵は、慌てて姪の結婚相手を真剣に探し始めたのであるが……
「二十歳やそこらの小娘ではあるまいし、この歳となると、どうでもいい男の子供など孕みたくもない。よく知らぬ男に言い寄られたところで、これっぽっちも興味が湧かぬ……叔父上はそれでも誰でも良いから選べとおっしゃるが」
リリィは首を振り振り、長い溜息を吐くと、
「はっきり言って、他人の都合で人生を振り回されるなんて、もうまっぴらじゃ。一度は皇家のためにと腹をくくったが、皇家こそ腹をくくるべきなのじゃ。本当なら母上の代で、潔く滅んでおけば良かったのじゃ。あの親衛隊なる醜い輩を見よ。余のような存在を生み出してまで、今の体制を維持して、何の意味があったのか。世界樹はもうとっくにその役目を終えているというのに、古い体制にしがみつかねば生きて行けぬようでは、この国に未来はあるのかのう」
リリィから飛び出した思わぬ愚痴に、アンナはタジタジになった。正直言って政治のことを言われてもさっぱりわからない。ただ、彼女が無理やり結婚させられそうになっていることだけはよく分かり、彼女は女としてそれは許せないとばかりに言った。
「私は、人の都合で結婚なんてしちゃいけないと思うよ。ちゃんと自分の意見を言えるリリィ様は偉いと思う」
「そうじゃろう? そなたは話せるのう」
「リリィ様は好きな人とか居なかったの?」
するとリリィは痛いところを突かれたと言わんばかりに口ばしを引きつらせながら、
「うっ……そうじゃな。そんな立場でも無かったゆえ、考えたことも無かったが……」
彼女は暫し黙考してから、何度目かのため息を吐き、
「余はそもそも出会いが少なかったでのう……今まで興味があった男は一人だけじゃ。しかし、その男と余が結ばれるようなことはありえないじゃろう」
「どうして? ……死んじゃったとか?」
「その男は、今は魔王と呼ばれておる」
ドキンと、アンナの心拍数が跳ね上がった。母、アナスタシアと同じ顔をしていて、今やアンナの唯一の血縁者だという目の前の女性が、よりにもよって、母と同じ人を好きになっていたかも知れない。
もしそうなっていたら、アンナの世界はどんなふうに変わっていたのだろうか。いや、そもそもアンナは生まれてこなかったのだから、関係ないかもしれないが、どうしようもなく興味が湧いた。
だから、アンナは思わず聞いてしまった。多分、彼のことをそう呼んだのは、初めてのことだったかも知れない。
「……お父さんは、どんな人だったの?」
『アーニャちゃん。聞くんじゃない』
と、その瞬間、たった今まで存在すら忘れていたオブジェと化していたイルカが喋りだした。本当に、自分の都合のいいときしか喋らない奴である。アンナは声を出すわけにもいかず、黙ってリリィの声を聞いていた。
「ふむ……勇者か。初めて出会った時は自由闊達な男で、自然と人々が集まってくる魅力的な男じゃったのう。どこへ行っても友達がおって、いつも楽しそうにしておった……それが、数年後に再会した時は正反対になっておった。ろくにお供も連れずに、この国に来たのは戦争の仲裁のためで、しかめっ面でギラギラしていた。色んな重荷を背負わされて、はっきり言って可哀想じゃった」
「……ここに来るまでの間に何かあったの?」
『聞く必要はない。情が移ると、戦いづらくなる』
「恋をした」
アンナの質問にイルカの雑音がかぶさる。しかしそんな雑音をかき消すくらい、甘くて苦い返事が返ってきて、アンナは息を呑んだ。
「亡国アナトリア皇帝ブリジットは余の幼馴染で親友と呼べる間柄じゃった。そなたの父はその親友の恋人なのに、他に好きな子が居るという、一見すると軽薄にも思えるが、本当は不器用な男じゃった。きっとその罪悪感が義務感に変わっていったのじゃろう。アナトリア帝国を大きくするために、どんどん自分を犠牲にしていった。そうすれば、親友が喜ぶと思ったのじゃろう……」
「……宰相になれたのは、恋人の贔屓じゃなかったの?」
「とんでもない。あれは紛れもない実力じゃよ」
『アーニャちゃん。こんなことで揺らいじゃ駄目だ』
「政治に向いていると言えば向いておった。繊細で、人を惹きつける言葉を持っていた。実は芸術家肌の男だったんじゃないかのう。ピアノが得意で時折弾いていたという。アクロポリスでの晩餐会では、余とダンスをしてホールの注目を一心に集めおった。本当は、行商でもして世界各地を回っていた方が似合ってるような男じゃった」
「お、父さんは……」
『アーニャちゃん』
「ん?」
「お母さんが、いつもお父さんのことをそう言ってた。音楽が大好きな人だったって」
「さようか。もしかしたらそうじゃったのかも知れぬのう……ところで」
『僕達の目的は魔王の抹殺……彼が生前どうだったかなんてものは今の魔王には関係無……』
「ふむ……やはり、誰かおるのう……」
イルカの声がピタリと止んだ。
「これだけ雑音が入れば余にも分かる。何かが騒いでおるのではないか。アンナよ……そなた、何か隠してはおらぬか?」
アンナは心臓が止まるんじゃないかと思った。イルカの存在がバレた……? しかし、このイルカは普通の人には見えないのでは……いやしかし目の前にいる人は只者ではない。ならば本当のことを話してもいいのでは?
戸惑うアンナが言うべきかどうか迷っている時だった……
「ひゃ~! これは驚いた!!」
ドタドタと入り口の方から何やら騒がしい声がする。世界樹の中、ましてや最奥のメイン区画まで人が入ってくるなんてことはまずあり得ない。それが今日はアンナだけではなく、また別の人間もとなると、とても信じられないことで、リリィは一体何が起きているのかと恐怖に怯えて、咄嗟に側に居るアンナにしがみついた。
目が見えないのと、この場所では感覚が狂うことで、彼女はより恐怖を覚えていたようであるが、対するアンナの方は、その声でやって来たのだが誰かすぐに分かっていたし、寧ろリリィの追求が躱せたことにホッとした。
「リリィ様、大丈夫だよ」
と言うアンナの言葉が示す通り、そのすぐ直後に観音開きの大きな扉からひょっこりとアーサーが顔を覗かせた。
「おお! ここに居たのか、探したぞアンナ。リリィ様、ごきげんよう」
「な……なんと、そなたはアーサーであるか? どうやってここに入ってきたのじゃ」
「え? やっぱり勝手に入っちゃまずかったんですか。ほら見ろ、ちびっ子、怒られてしまったではないか」
「ごめん」
子供の声が聞こえてきたリリィは今度こそ本当にたまげてしまい、腰を抜かしそうになった。しがみついていたアンナがよろける彼女の体を支えると、リリィは口角に泡を飛ばしながら、
「ま、まだ他にもおるのか? ど、どれ……そなた、こちらへこい」
言われた子供は目をパチクリしながらアーサーのことを見上げる。彼はリリィは怖い人じゃないからと言うと、抱っこして彼女の元に子供を連れて行った。
リリィはようやくそこに居るのが大人ではなく、小さな子どもだと言うことが分かり、子供の前で動揺を見せるのは恥ずかしいと思ったのか、少し落ち着きを取り戻してから、その小さなシルエットを探るように触りながら言った。
「そ、そうか……そなた、小さな子供であったか……む?」
「すみません、リリィ様。勝手に入ったことは謝りますから、怒らないでやってください」
「余は小さな子に怒ったりなどせぬ……と言うか、そなたがここに連れてきたのであろう?」
「あいや、それが……」
アーサーはここに至る経緯を話した。アンナを探して宮殿にいったらこの子がやって来たこと。アンナの居場所なら知ってると言うから大聖堂までやって来たこと。大聖堂には不思議と人気が無く、勝手に入っていいのかな? と思いつつも、子供に導かれて世界樹の根本までやって来たこと。
そして、アーサーにはその入口が見えなかったのに、子供に手を引かれて歩いていたら、いつの間にか何だかよくわからないが中に入れてしまい、驚いている彼に子供が、更に奥があるからと言われて、ついてきたらここに出たこと。
「では、ここに入れたのはその子のお陰じゃと……?」
「アンナが入ってくのを見かけたそうですよ」
「そんなはずは……」
リリィだけではなく、アンナも目を丸くしている。アーサーは理由がわからないので、何をそんなに驚いているのかと漠然とそれを眺めていたが、やがてリリィが難しい顔をしながら、何かに気づいたかのように言った。
「むむ……これ、小さき子よ。そなたの名はなんと言う?」
すると子供は困ったように頭をブルブルと横に振った。目が見えないリリィにはそれが分からないだろうと、アンナが代わりに、
「その子には名前が無いの」
「なんだと? そうだったのか?」
するとリリィではなくアーサーの方が驚きの声を上げた。そういえば、いつも一緒にいるくせに、一度も名前で呼んだことがなかった。それで不便に思ったことも無かったので気にしていなかったのだが、まさか名前が無いとは思いもよらなかった。
「前線にはそういう子が結構いるから……みんな自分で好きな名前を名乗るか、私みたいに自然に通り名がついたりするんだけど、この子はおとなしいからかな。結構、長くいるんだけど、誰かに名前で呼ばれてることはなかったかも」
「……アンナ。この子とはいつから一緒におったのじゃ?」
「さあ……気がついたら前線に居たから。私があそこにたどり着いた頃には、もう住み着いていたんじゃないかな」
前線で子供たちに混じって食い扶持を稼いでいたアンナは、本当はそれどころじゃなかったのだが、それでもそんな彼女が見過ごせないくらい、目の前の子供は幼すぎて放ってはおけず、面倒を見てやるようになっているうちに懐かれてしまった。
以来、子供はアンナにべったりで、どこへ行くにもついてくるようになった。尤も、それも最近ではアーサーに取られてしまったのであるが……
「そうか……では、およそ5年ほど前……」
リリィはそうつぶやくと、子供の顔を間近でマジマジと見つめた。もちろん、それで彼女の目に何かが映るわけではなかったのだが、彼女はまるで何かに納得するかのように、二度三度と頷いてから、
「名前がなくては不便じゃろう。どれ、余がそなたの名前をつけてやる」
と言い出した。するとアンナが難色を示しながら、
「他の子達と不公平だから、自然につくのを待ったほうが……」
と返したが、リリィはカラカラと笑いながら、
「ならば他の子達にも名前をやろう。余は名前を付け慣れておるからのう」
「洗礼名ですか。それじゃあ、カンディアが復興したら、教会も建てなきゃな」
アーサーがしみじみとそんなことを言っていると、リリィはニコニコと子供の頭を撫でながら、
「そなたの名前は今からリリィじゃ。リリィと名乗るが良い」
「え? リリィ様の名前を下さるのですか?」
正直なところ、ここにいる女性があまりにも有名だから、子供にリリィと名付けるのは珍しいことではなかった。だが、その尤も有名なリリィがわざわざ自分と同じ名前を付けるのは非常に光栄なことであり、アーサーはそれを誇らしく思いながら、
「良かったな、ちびっ子……いや、リリィ。貴様は今日からリリィだぞ」
「リリィ……?」
「そうじゃ。リリィよ、これからもこの二人のことをよろしく頼むぞ」
どちらかと言うとこの二人の方が保護者であったが、リリィがそう彼女に言うと、小さなリリィは嬉しそうに頷いた。リリィはまるで娘にでもするかのように優しく微笑むと、その小さな頭に手をやって、慈しむようにそれを撫でた。






