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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第八章
299/418

どんなに世界が平和でも

 玄関の鍵もかけず、門扉を蹴りあげて但馬は道路に飛び出した。家の前の細道を抜けてメインストリートへとやってくると、街はもう朝を迎えた人々で賑わいつつあった。但馬はそんな人混みの中を、周りの迷惑を顧みず、ただ一直線に駆け抜けた。


 道行く人の肩にぶつかるたびに怒声が浴びせられる。中には彼に掴みかかってこようとする者さえいたが、そのボロボロの衣服と目を真っ赤に泣き腫らした異常な形相に恐れをなして、結局誰も関り合いになろうとしなかった。


 人混みがモーゼのように割れていく。その見窄らしい男が宰相であると気づいた者は、恐らく誰もいないだろう。哀れな者でも見るかのような、蔑みの視線の中を但馬は駆けた。


 周りなんてもう何も見ちゃいなかった。ただ目の前の地面を蹴ることだけに集中していた。電話の主は一言も喋らなかった。だから相手が誰かは分からない。但馬の家なんて誰だって知っているんだし、もしかしたら、家に入る姿を見咎められたのかも知れない。こんな必死になって走っても、そこには但馬の望んでる人なんか居なくて、誰かが慌てふためく但馬の姿をこっそりと眺めて笑ってるのかも知れない。それでも、蜘蛛の糸ほどの望みがあれば、それで構わなかった。但馬が走る理由なんてそんなものだった。


 メインストリートの雑踏を抜け、東区の城門にぶつかるようにして駆け、林立する家の軒先を風でガタガタ揺らしながら、彼は疾風のように駆け抜けた。先へ行けば行くほど人混みは深くなり、ぶつかる人の数も多くなって、終いには正面衝突した相手に思いっきり殴られもした。それでも彼は駆け続けた。他に何も考えられなかった。


 やっと港に着いた時には、全身が汗だくになっていて、立っているのもやっとなくらいにクタクタになっていた。でももうそんなの気にならなかった。大体、いつから但馬は働き続けていたというのか。とっくにくたびれきっていて、感覚なんて麻痺していた。


 潮風が鼻を突く波止場を眺めても、人混みの中に目的の人は見つからない。ボオオオーーーッと腹の底から響くような汽笛を上げて、巨大な客船が黒煙を撒き散らしていた。


「アーニャちゃん!」


 但馬が叫ぶ。桟橋には、数百人を一度に収容する客船に乗り込む人々が、規則正しい列を作って並んでいた。密集する人の群れは都会の雑踏みたいで、肩が触れ合うほど隣にいても誰もが無関心に、みんな俯いたり海の方を眺めていたり、彼の声にはまるで反応しなかった。


「アーニャちゃん!」


 やっぱりあの電話はイタズラだったのかも知れない。アナスタシアはこの中に居ないか……もしくは港の別の場所にいて、ここで探していても無意味なのかも知れない。


 けれど但馬は諦めきれずに、その行列の中からたった一人の人を探して、桟橋を縦横に駆けまわった。


「アーニャちゃんってば!」


 但馬は人々の列をかき分けて、一人一人の顔を覗き込むようにしてアナスタシアのことを探した。


 そんな彼の必死な姿に、苛立たしそうにチッと舌打ちをする人が居る。まるで可哀想な者でも見るように、哀れみの視線を投げつけるものも居る。中には但馬が誰であるかに気づいて目を丸くする人も居た。だが殆どの人たちは関り合いになることを避けて、但馬のことを気にしていながらも、気づかない振りをして地面ばかりを見つめていた。


 もしかして、やっぱり見当違いだったのだろうか……これだけやっても見つからない彼女に、但馬が諦めかけた時だった。


「おい馬鹿っ、こっちだ!」


 人々の喧騒の間から、一人の男の声が響いてきた。但馬はハッとして顔を上げた。見れば客船の列の中央付近で、こちらに向けて手を振ってる男がいる。人混みに紛れてその顔は見えなかった。だがその声は覚えていた。ほんの数日前に再会したばかりの、懐かしい友の声だった。


 トーの呼ぶ声が聞こえた但馬が彼の方へと歩いて行こうとすると、その彼の振る手を必死になって押しとどめようとする影が見えた。その二つ結びの黒髪が、風になびいて揺れた瞬間、但馬は全身に稲妻が走ったような衝撃に見舞われた。


「アーニャちゃん!」


 その叫び声に反応するかのように、ビクリと揺れた彼女の影が弾けるように駆けていく。但馬は人混みをかき分け、必死になってその後姿を追った。船を待つ人の群れに揉みくちゃにされながら、時に罵声を浴びながら、二人の男女がまるで波間に浮かぶ木の葉みたい揺れながら、人混みの中を流れていく。


 アナスタシアはどうにか人混みからぬけ出すと、一目散に船に向かって駆けていった。少し遅れて但馬も列から飛び出すと、彼女の後を死に物狂いで追いかけた。昔の彼なら追いつけなかったかも知れない。でも今の彼に不可能なことはない。


 やがて二つの影は船へと続くタラップの上で重なった。乗船する客を案内しようと出てきた乗務員が驚いてる前で、但馬の手が彼女の腕をガッシリと捕らえた。


「放してっ!」

「放すもんかっ!」


 捕まえられた手を振りほどこうと暴れるアナスタシアを、但馬は羽交い締めするかのように抱きしめた。彼女はそれでも逃げようとして、体を折り曲げて暴れていた。


「放して、先生。もう話は済んだはずだよ。私はもう、あなたとは一緒に居られないっ!」

「だったらどうして電話をかけてきたんだっ!」

「それは……」


 アナスタシアの動きが止まる。


「俺はもう君のことを放さない! だってこの手を放してしまったら、君は死んでしまうんだろう? あの日、あの後、どんなに後悔したと思ってるんだ。そんなのはもう、嫌なんだ! 絶対絶対、嫌なんだっ!」

「そんな勝手なことを言わないで。私がどうしてあなたの元から去ろうとしたかわからないの? この数日間で分かったじゃない。私が行かなきゃ、この騒動は終わらないんだよ。私が行かなきゃ、本当に世界は滅びてしまうかも知れないんだよ?」

「滅んでしまえばいいだろう! 君を犠牲にすることでしか救われない未来があるのなら、そんなものはぶち壊してしまえばいいッ!」

「なんでそうなるの!? そしたら先生もみんなも死んじゃうんだよ?」

「例え、どんなに世界が平和でも、君が生きていなければ何の意味も無いんだよ!」


 但馬の叫び声が桟橋にこだまする。痴情のもつれと思っている人々の視線が突き刺さった。アナスタシアの肩がビクッと震えて、彼を振りほどこうとしていた手が力なく垂れ下がった。但馬はそんな彼女の小さな肩を、今度こそ逃すまいと、ギュッと力強く抱きしめた。


「ずっと好きだったんだ。一目惚れだった。あの日、水車小屋で君に出会ったその瞬間から、ずっと君のことしか考えられなかったんだ。君と話したい、君に触れたい、君と一緒に居たい……だけど君にはシモンが居たから、俺は諦めるしかなかったんだ。それでもずっと好きだった。2人で暮らし始めた時だって、本当は君に手を出したくてずっとうずうずしてたんだ。君が自分のことを差し出そうとした時は、本当は我慢しきれなくて何度も手を出しそうになった。でもそのたびに自己嫌悪が押し寄せてきて、苦しくて、切なくて、悲しくなった。君のことが好きだったんだ。君と一緒にいられることこそが、かけがえのない大切な物だって思ってたから、絶対にそれを手放したくなかったんだ」

「でも……先生は、姫さまを選んで……」

「それは君が嘘を吐いたからだろう!!」


 ボオオーッと、汽笛が港じゅうに轟いた。それは出発の手続きを始める合図の汽笛であり、タラップの前で従業員がオロオロしていた。もう時間がない。これを逃したら、彼女を連れ戻すことは出来なくなる。


「レベッカから話を聞いた。君が何を考えていたか分かってたら、あんな選択はしなかった。俺はあの時、君に嫌われてしまったんだと思って、それでも君との日常を手放したくなかったから、君を諦めなきゃいけなかった。それが間違いだって気づいた時、俺には別の女の子が居た。俺は……あの子のことだって好きなんだ……それがずるいことだって、卑怯なことなんだってことは分かってる。だから、君を諦めて、その子との未来を考えても見た……でも、駄目なんだ……君じゃなきゃ駄目なんだ。君の居なくなった生活の中で、俺はそのことに気がついた。だから、今度こそは間違えない。あの日、あの時、君が俺から去ろうとした時から、もう一度やり直させてくれ」


 但馬は抱きしめていた彼女を放すと、ぐるりと反転させ、その強張る肩をギュッと握りしめた。そして、泣きそうな彼女の目を見つめて、宣言した。


「俺は、例え世界を滅ぼしてでも、今度こそ君を選ぶ!」


 それは事情を知らない人からしたら、ただの臭いセリフでしかなかったかも知れない。


 だがそれは紛れも無く、但馬が決断した、この世への裏切りだった。


 アナスタシアはそれになんとか反論しようとして口を開いたが、何の言葉も出てこなかった。胸の奥がギュッと締め付けられて、言葉じゃなくって涙の方が溢れだす。それでも何かを言わなきゃいけないと、アナスタシアが口をパクパクさせていたら、その戸惑う唇に彼の唇が重なった。


「ずるいよ……」

「逃げよう、アーニャちゃん。いつまでも、どこまでも……これからは、ずっと一緒だ」


 但馬が手をとって引き寄せると、アナスタシアはもう抵抗しなかった。男女の色恋沙汰なんて見慣れていない人々は、2人のやり取りにどう反応していいのか分からない感じで、パチパチとまばらな拍手が起こったり、忌々しそうな舌打ちがあちこちから上がったり、そして多分、但馬の正体に気づいた何人かは、目を丸くしてオロオロしていた。


 そんな中、たった一人、ニヤついた男が二人に向かって手を振った。トーは但馬がアナスタシアを選んだことを見届けると、そのまま黙って背を向けた。きっと、自分は何も見ていないと言いたかったのだろう。


 但馬はそんな友達に声を掛けたかったが……但馬波瑠が皇帝ブリジットの恋人であることは、この国の誰もが知っている。もうそんなことをしてる余裕もないんだとばかりに、アナスタシアの手を引っ張って駆け出した。


 そして2人の逃避行が始まった。


 だがそれは希望への道のりではなく、絶望への旅路だということは、2人にはよくわかっていた。


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