西海会社 - West sea company ⑩
「アーニャちゃんがそんなこと言ってたの?」
但馬たちがエリオスに説教されて帰ってくると、残っていたアナスタシアとブリジットの様子がなんだかギクシャクしていた。表面上は花かんむりなんかを被って仲良さそうに見えるのだが、但馬は少々気になった。
ともあれ、ブリジットの怪我は大したことなかったが、ハンググライダーが壊れてしまったので、その日の訓練は終わりになった。エリオスも激おこなので仕方ないだろう。
その後、余り怒られ慣れてないリオンがシュンとしょげ返っていて可哀想だったから、マイケルの家で男4人で男子会をし、宴もたけなわの頃合いに、エリックたちにリオンを任せて、但馬は一人で離宮へ向かった。
ブリジットは但馬の来訪を驚いていた。夜になるとリフトが止まるので、今日はもう来ないだろうと思っていたからだ。しかし、自分の彼女の様子がおかしいのに放っておくのもなんだろう。
寝殿に通してもらい、侍従が退室した後、昼間アナスタシアと何かあったのか? と尋ねると、最初は否定したが暫くして、但馬たちが居なくなった後の二人のやりとりを話してくれた。
「実は、結構よく言われるんですよ。兄さんの晩餐会でも嫌というほど聞かされました。女の子ならお姫様に生まれたかったって思うのは、ある意味仕方ないことなのかも知れませんし、普通なら気にしないんですけど……」
アナスタシアはそう言うタイプではないし、今までそんなことおくびも見せたことが無かった。それが唐突にそう言われたので面食らったらしい。そのままの意味で取ってもいいとは思えず、その意味を考えていたら何も言えなくなり、会話が続かなくなったそうだ。
「そうかあ……」
但馬も正直なところ意外であったが、
「もしかしたら、その直前に、ああしろこうしろ言われたのが嫌だったんじゃないかな。彼女も悩んでるみたいだし、そう言う時って周りからいろいろ言われると腹立つだろう?」
「そうかも知れません……軽率でした」
しかし、だからと言って庶民と違って、おまえはずっとお姫様じゃないかなんて言われたら、ブリジットも立つ瀬がないだろう。ちょっと意地悪で彼女らしくないと但馬自身も思った。もちろん、アナスタシアはそんなつもりで言ったわけではなかったのだが……
「少し考えが至らなかったみたいです。働かなくても暮らしていけるなら、やりたいことだけやってればいいのにって。自分の願望を押し付けちゃったんですね」
お姫様もそうだが、別に王族は働いていないわけじゃない。寧ろ、皇帝などは毎日インペリアルタワーに通って休みが無いくらいだ。彼女はまだあまり公務というものを経験していないが、後継者なのだから、いずれその立場が入れ替わる。そう考えると、ブリジット自身がお姫様をやめたいと思う気持ちも分かる。
公人というものは、意外と自由がないのだ。但馬だって、それを身にしみて感じていた。もし仮に、自分が大臣でなかったら、今頃エトルリアかティレニアに向けてとっくに出発しててもおかしくないのだ。ところが今は、世界樹はおろか、その国にさえ近づけない。
「でも……どうして先生、彼女をこちらへ連れてきたんですか?」
そんなことを考えていたら、ブリジットが疑問を呈した。
「え? どうしてって?」
「アナスタシアさんがお仕事を大事にしていたことは先生も分かっていたでしょう? だったら、あのままカフェで働いていれば良かったのに……」
アナスタシアの借金が無くなったとは言っても、それで残りの人生遊んで暮らせるわけではない。いや、仮に彼女がメイドくらい気楽な人間だったら、但馬にたかって暮らしていけるだろうが、そういうことを考えられる子じゃないのだ。何かしら仕事をしてないと落ち着かなかったろう。
だから、環境を変えずに、少しだけ仕事量を減らしてあげるとか、そういう調整で良かったのにとブリジットは言ってるわけだ……
それは確かにそうだ……でも、あの時、少し考えてしまったのだ。あのまま、自分たちが首都で暮らしていて、但馬は毎日のように王宮を訪問して、王族との関係を築いていったら、いずれ今のままじゃ居られなくなるだろう。
そうなった時、彼女はどうするのだろうか。どうなっているのだろうか。一緒に、暮らしていられるのだろうか。自分は、どうしたいのだろうか。
そう考えた時、ブリジットと彼女を一緒には居させたくないと思ったのだ。二人が仲良くしている姿を見たくなかったのだ。自分でも、なんでなのかは分からないが……
いや、やはり、カンディアでの出来事に、心の整理がついていなかったのかも知れない。
だが、もちろん、そんな自分の迷いなど見せられないから、但馬は努めて平静に言った。
「……あの子がカフェで働いてたのは、俺が命令したからなんだよね。命令っていうか、辞令だけど」
「はい」
「元々、あの仕事をやりたくて始めたわけじゃなかったから、仮に満足してくれてたとしても、俺が嫌だったんだよ。なんだか、彼女の将来を閉ざしているような気がして。だから、借金が無くなって彼女が自由になったら、いろいろチャレンジして自分の道を見つけて欲しかったんだ」
それは本心だった。これは自分の彼女にも申し訳ないが譲れない気持ちだった。なんやかんや但馬は目覚めてからの長い期間を、アナスタシアと二人で過ごしてきたのだから、自分がこれからどうなろうとも、彼女の行く末を見届けたいと思っていた。彼女自身がやりたいことを見つけて、充実した毎日を送って欲しいと思っていた。
「でも、そう考えると、まだまだ自分の気持ちを押し付けてたのかも知れないな」
しかも、それだったら、ティレニアのことを彼女に話せばいいくせに、そのことについては、但馬はまだ彼女に何も伝えていなかった。
自分の都合に彼女を巻き込むのが嫌だったのは確かだ。もしかしたら、ティレニアと言う国に彼女が利用される危険性だってある。でも結局は、アナスタシアが自分の出自を知ったら、国に帰りたいと言い出すかも知れないのが嫌だったのだろう。
言ったほうがいいのだろうか。言わないほうがいいのだろうか。自分は別の人と結婚するかも知れないというのに……? ランの言葉が突き刺さる。
「先生にとって、やっぱりアナスタシアさんは特別なんですね」
そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか。意気消沈した感じのブリジットが小さく呟いた。それは絶対に、自分の彼女にさせていい表情ではなかった。
彼女は但馬がアナスタシアを好きだったことを知ってるのだ。そしてカンディアで振られたことも。それでも、但馬のことが好きだと言ってくれる相手に、これはないだろう。
但馬はポリポリと頭を掻くと、
「そんなことないよ。ブリジットの気にしすぎだ」
「駄目ですよ、そんなこと言っても。嘘だって顔に書いてあります」
ブリジットはふくれっ面を見せると、
「先生、ちょっとそこに座ってください」
と言って但馬を睨みつけた。
こりゃ怒られるのかな? と観念した但馬が、いそいそと彼女に進み出て正座をすると……彼女は前ではなく、但馬の横に並び、チョコンとその形の良い頭を、彼の膝の上に乗せた。
「……なにかな? これ」
「えへへ、膝枕です。一度やってみたかったんですよ」
普通、男女が逆だろうに……ゴロリと横になったまま、ブリジットが但馬の顔を見上げてくる。
「先生がアナスタシアさんのことを好きだったってことは知ってます。いきなり忘れろって言っても、無理ですよ。だから、許します。でも、嘘はいけませんよ? 嘘をつかれちゃうと、信じられなくなってしまうから」
「……すみません」
「大丈夫です。そんなことで嫌いになったりはしませんよ。でも……恋人は私なんですからね、もっと恋人らしく扱って欲しいです。手を繋いだり、膝枕したり、二人っきりで、もっとイチャイチャしたいです」
「夜景の綺麗なレストランでデートしたり」
「いいですね」
「おっぱい揉んだり、セックスしたり」
バチンとほっぺを引っ叩かれた。にこやかに笑っては居るが、その笑顔が怖い。
「すみません、調子に乗りました」
但馬が素直に謝ると、ブリジットはぷりぷり怒った顔を見せてから、すぐにくるくると表情を七変化させて、心なしか上気した赤い顔をしながら、いつぞやみたいにキュッと両腕でそのデカいおっぱいを寄せつつ……
「その……先生がどうしてもって言うなら、ちょっとくらいなら触ってもいいですよ……」
「いや、それはない」
但馬が即答すると、彼女は軽くショックを受けてから、せっかく勇気を出したのにといった感じにほっぺたを膨らませてから、プイッと横を向いた。彼女のふわふわの髪の毛が太ももをくすぐると、得も言われぬ気分になった。ブリジットは可愛い。本当に自分にはもったいないくらいだ。その横顔は凄く整っていて、本当に物語の中の登場人物のようだった。
「おーい、怒るなよ」
「先生は、ちょっとデリカシーに欠けると思いますよ」
「面目ない……俺だって、あんまり慣れてないんだよ」
「そそ、そうなんですか?」
「二人っきりでやることって言ったら後は……じゃあ、キスする?」
「えっ!?」
今、横を向いたばかりの顔が、もうこっちへ戻ってきた。
「ななな、なんでそうなるんですか」
「いや……だって、手は繋いだことあるし、膝枕は今してるじゃん。そしたらまあ、キスかなあって……」
「だだだ、駄目ですよそんな。そう! そうでした! 先に夜景の綺麗なレストランでお食事がまだでした。だからまだひゃいっ……早いですよ、舌噛んだ」
「よいではないか。減るものでもあるまい。誰も見てはおらぬぞ」
「なんでいきなり口調がスケベな王様みたいに変わるんですか! 見てますよ! お天道さま……は、今は夜だから、そう! お月様が」
但馬はゲラゲラ笑った。
「月が見てるって、詩人かよ」
「むむぅ~……!」
ブリジットは唇を尖らせると、プイッとまた横を向いていしまった。なんだかその様子があまりにも可愛らしかったから、そのふわふわの髪の毛を手櫛でサラサラと梳いてみたら、彼女はまたギュッと肩を竦めて恥ずかしそうに俯いた。別におっぱいを強調しているわけではない。
「な、なんか……先生、感じ変わりましたよね?」
「えっ、そ、そう……??」
そのままブリジットの頭を撫でていたら、顔を真っ赤にしたまま、彼女がボソッと呟いた。童貞が精一杯格好つけていただけなのだが、確かに言われてみると、こんなのは自分のキャラではないかも知れない……但馬は彼女の横顔を見つめたまま、それから逸らすように視線を上げたら、2つの月が煌々と夜空を照らしていた。
「誰かが見てる……か」
確かに、但馬は変わったかも知れない。正直なところ、ほんの少し前までの彼は、ブリジットと付き合っていても実感が沸かないというか……語弊はあるが、猛獣と付き合ってるような怖さがあった。何しろ、力では絶対に敵わない相手なのだ。普通、女の子が男に対して思うなら分かるが、立場が逆だと、なんとなく白けるところがあった。
だから冗談でおっぱいをネタにしたり、男友達を扱うようなことも平気でやれた。でも今は違う。何というか、好きな女の子を手に入れたら、天使じゃなくて普通の女の子になってしまったのとは違うが、それに近い感じで、彼女が特別では無くなった。
あの聖遺物を手に入れた瞬間から、彼女も、自分が守らねばならない女の子になっていた。
あれが自分の人間性までを変えたのだ……但馬は月をじっと見つめながら言った。
「実は……ティレニアに行こうかと思ってて」
「……? どうしたんですか、突然」
但馬はリディアの海岸で別れてから今までにあった経緯を伝えた。
「このまま行けるだけのところを調べてるんじゃ埒が明かないと思ったんだ。それで、他の世界樹を巡りたいんだけど、今のところ、一番現実的なのは、ティレニアとの国交を正常にすることだと思うんだよね」
ただ、アナスタシアのことは話さなかった。バツが悪いとかではなく、話すなら本人からが筋だろう。
但馬の真剣な様子を見て、ブリジットは膝から頭を上げて正座した。
「やっぱり……急に雰囲気が変わったのは、そういうことだったんですね?」
「うん……更にいろいろ調べる内に、もっと自分が変わっていくかも知れないし、ロクでもないことも起こるかも知れない。だから、先に断っておこうかと思って。こんなんでも付いてきてくれるかい?」
ブリジットは穏やかな笑みを浮かべると、
「何を今更……そんなの聞くまでもないですよ。だって私は、先生のことが好きなんですよ?」
それはヴィクトリア峰でシモンの敵を討った時から変わっていない。初めは憧れに近かったかも知れなかったが、今はもう、その気持ちがヒシヒシと感じられるくらい、彼女の愛は本物だった。だから但馬も彼女のことが好きになったんだ。
「ありがとう。これからもよろしくね」
だからもう、フラフラしてるわけにもいくまい。
「えーっと、はい……あの、先生、顔が近いんですけど……」
「どうせ月しか見てないじゃん」
今度首都に戻ったら、皇帝にティレニアとの国交についての意見を述べよう。元々、エトルリアを宗主国と仰いでいたから無かった国交なのだ。その関係性は解消されたのだから、どこに遠慮する必要があると言うのか。今やアナトリアは世界に名だたる列強の一つなのだから。
ギラギラとその野心をむき出しにした但馬は、そう言って、彼は彼女の口をふさいだ。彼女はそれを戸惑いながらも受け入れたが……すぐにその唇を離すと、
「……月以外が」
寝殿に続く廊下から、侍従たちがバタバタと逃げ去ってく音がする。
「王族、プライバシーがねえっ!!」
但馬の情けない声が夜空にこだました。
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翌日。壊してしまったハンググライダーを修理すべく、朝早くから新しい竹材を取りに山に向かった。
昨日、お説教したせいで、リオンをすっかりしょげさせてしまったエリオスは、それを気にしてソワソワしていたが、当の本人はエリックたちと沢山遊んでだいぶ気が晴れていたらしく、もう気にしてはいないようだった。
その対比に含み笑いを隠しながら、但馬は竹を手に入れると、グライダーを組み立てるために高原へと向かった。最近の仕事はもっぱら将来に残すつもりである技術の執筆作業であり、せっかくだから飛行機についても書いておこうと思っていたのである。決して遊んでるわけではない。
ともあれ、誰に言い訳しているわけでもないが、アナスタシアたちは普通に仕事があるので、夕方から参加することになっており、その間、但馬たちはブリジットと合流して、先に作業を始めていた。
本当なら彼女は、西海会社の探検船団と共に首都へ戻って皇帝に報告をしなければならないのだが、昨日、自分のせいでハンググライダーを壊してしまったから、それを気にして船団に一日待ってもらい、落とし前をつけてから帰るつもりらしい。
まあ、ぶっちゃけ、ほんのちょっと飛んだことでモチベーションが上がっていて、こっちの作業の方が面白いという気持ちもあるのだろう。探検船団はまだかまだかと、ヤキモキして待っている皇帝を思うと苦笑いが浮かんでくるが。
ところで、喜々として作業を行うブリジットと共に、リオンのテンションも高かった。やはり、昨日感じた通り、彼はブリジットのことが好きなのかも知れない。
将来、息子がライバルになったりしたら嫌だなあ……などと思いつつ、親子って年の差でもないのに、浮かんでくる妄想は落ちぶれた白髪の但馬が若い二人に足蹴にされてる姿ばかりで、そのことに軽く打ちのめされながら、作業は順調に進んでやがて夕方になった。
夕方とは言っても、そこは熱帯地方のハリチであるから、まだまだ日は高かった。
陸は海と違って暖まりやすく冷えやすい。その関係で日中の山には上昇気流が発生しやすく、いい風が吹き始めたところで、3人が高原へと上がってくると、待ってましたとばかりにみんなで機体の調整を始めた。
ハンググライダーが一日で修復されたように、アナスタシアとブリジットの仲もなんとかなったようだ。初めこそ、ほんのちょっぴり遠慮している様子だったが、すぐにいつものように打ち解け始めた。やはり、女の子同士気兼ねがないのか一緒に作業をしている。その姿にホッとしつつ、但馬たちは数回の調整飛行の後に、昨日と同じく急勾配からの滑空訓練を行った。
「つーか、昨日より調子よくね?」
「だよね。今日取ってきた竹が良かったのかな。リオン、偉いぞ!」
「ううん。あのね。オジちゃんが取ってきてくれたの」
リオンにそう言われるとエリオスは満更でもない感じで鼻を鳴らし、よせば良いのにその姿をからかったエリックたちが追いかけられていた。
実際、ハンググライダーの調子は明らかに昨日と比べて良くなっていた。昨日の反省を踏まえて、出来るだけ頑丈そうなものを探して持ってきた甲斐がある。アナスタシアも手応えを感じたらしく、何回目かの滑空の後に、
「滑空だけなら海の方へ飛んで行ってもいいかも」
と言い出したので、
「いや、それは流石に危ないでしょう」
「そっかなあ」
「初心者のうちは、慣れたと思った頃が一番危ないんだよ。まだまだ離着陸の練習をした方がいい。それに、ここはなんやかんや高度が高いからね。降りるまでに時間がかかるだろうから、きっと疲れちゃうよ」
牧場はヴィクトリア峰の中腹にあり、標高は千メートル近くはあった。風も強いし、いきなり突風が吹いてバランスを崩したら怖いだろう。緊急用のパラシュートもないのだ。
「う、うーん……そうだね。そういう時、落ち着いてリカバリできるように練習するよ」
「うんうん。昨日のブリジットみたいになったら、下手すりゃ死ぬからね」
「うっ……その節はご迷惑かけてすみませんでした」
そんな具合に練習は続き、牧場の亜人たちが物珍しそうに見守る中、やがて日も傾いて来た。
アナスタシアは飽きること無く飛び続け、機体の操縦にもだいぶ慣れてきたようだった。時折、吹きあげる上昇気流に乗って、ふわりと浮き上がったり、十メートルくらい上空を滑空しながら、器用に機体を右へ左へと旋回させてみたり、緊急着陸を想定し少し速い速度で着陸態勢に入ってみたり……
かなり上達の跡が窺えるようになってくると、みんなのテンションも上がってきた。エリオスは、今日はもう大丈夫そうだなと思ったのか、邪魔をしないように部下のいるリフトの小屋へと向かい、リオンたちは草原を駆けまわり、滑空するアナスタシアを追いかけたり、その真下へ入って手を振ってみたり楽しそうにしていた。
これだけ上手く乗れるなら、ハーネスも付けて空気抵抗を減らすことも考えたほうがいいかも知れない……そんなことを考えながら、上空を飛び回る彼女を見上げていたら、
「う~……羨ましいです。私もやっぱり飛んでみたい」
「おいおい、昨日の今日で自重しろよ?」
「分かってますよ……でもいつかまたチャレンジしてみたいですね」
まあ、彼女の性格上、やるなとは言えないが、
「せめてアルミフレームが作れるようになるまでやめとけ。大臣たちの胃に穴が開いちゃうから」
「おーい! 先生! 姫様!」
上空からアナスタシアの声が聞こえる。
見上げるとさっきよりも高い場所で、彼女が手を振っていた。どうやら、上昇気流に上手く乗ったらしい。
「凄い! あんなに高く……」
「うーん……大丈夫かなあ。風が強くなってきたんだな、そろそろ終わりにして、また明日にしようか」
「ええ? せっかくあんなに飛べるようになったんですから、もう少しだけ続けましょうよ」
「だから、その油断が危ないんだって。もう結構長いあいだ飛んでるし、疲れてるだろう。上空は冷えるんだ」
すると、彼の言葉に呼応したように、ピューッと強い風が吹いてきた。思った以上に冷たいその風に、ブリジットがブルブルと身を震わせる。
「うっ……ホントですね。そろそろやめたほうがいいかも」
「上着持ってこなかったの? ほれ、これ着てろ」
但馬はそう言うと、自分が羽織っていた上着を彼女の肩にかけた。彼女はそれを嬉しそうに羽織り、礼を言ったが……その目が赤く潤んでいる。
「ん? どうしたの?」
「いえ、今の風でちょっと……目にゴミが入ったみたいで」
「ああ、ああ! 掻いちゃ駄目だ。どれ、見してみ?」
但馬はそう言うと、彼女の上から彼女の眼を覗き込んだ……
その風は上空にも届いていた。
海から吹き上げた風が突発的に強い上昇気流となり、それを捉えたアナスタシアは、すかさず態勢を立てなおすと機体を傾けて旋回を始めた。
上昇気流は真上に吹く。トンビはそれを捉えるために、くるくると弧を描きながら、遥か上空へと登っていく。アナスタシアはそう言っていた但馬の言葉を思い出し、機体を傾けてその場でくるくると回ってみた。
すると上昇気流を捉えた機体が、グングンと上へ上へと昇っていく。さっきまでとは比べ物にならない力で、押し上げられてるようだった。
「凄い……」
どこまでも昇っていけそうな感覚に思わず我を忘れていた。気がつけば、高原はずいぶん下の方にあった。
「怒られるかな……?」
まだ初心者なのだから、高く飛ぶのはやめろと口を酸っぱくして言われていた。つい、約束を忘れてこんなに高く昇ってきてしまったけれど、彼は怒っていないだろうか……
アナスタシアは不安になりながら、数十メートルの高さから、小さくなった但馬の姿を探した。エリックとマイケルが、飛びすぎたアナスタシアを見て、不安そうに手をフリフリ怒鳴り声をあげていた。代わりにリオンは楽しそうに笑っており……
そして彼らから少し離れたところに、但馬はいた。
ブリジットに覆いかぶさるようにして……
手を置かれた彼女の肩には、いつの間にか彼の上着が掛けられていた。
二人は恋人同士なのだから、そういうことをしていてもおかしくはないのだ。
分かっていた……それは分かっていたのだが……
アナスタシアは視線を上空へ向けると、機体を傾けて上昇気流を探した。さっきまで捉えていた上昇気流はまだその場にあり、機体はそれを捉えて上へ上へとグングン昇っていく。
エリックたちが何かを叫んでいたが、もうその声は聞こえなかった。
聞こえるのは、ただ、耳を打つ風の音だけだ。
ふわり……っと、最後にもう一押しあって、機体は上昇を終えた。
見渡せば周りには何もなく、手が届きそうなくらい、雲が近かった。
世界は広い。そして丸い。我々は地球と言う丸い球体の上に居て、それは宇宙空間に漂っている。
但馬の言葉を思い出した。
遠い、西の空は藍色に染まりつつあり、瞬く星が綺麗だった。高度1千メートルはあろうはずなのに、ちっとも怖くはない。ただ、感情が抑えきれなくて涙が出た。止めどなく、涙が溢れた。
「本当は……」
どうせ、誰にも聞こえないから、彼女は叫んだ。
「本当は……私が先に好きになったのに! ……私の方が、先に好きになったのに!」
でも、それを手放したのは紛れも無く自分なのだ。自分からだったのだ。
「わあああああああああああ~~~~~!!!」
叫んでも、叫んでも、景色は変わらない。アナスタシアはもう、海の上まで到達していた。振り返ると遥か後方で、みんなが叫んでいる様子が見えた。それは小さくて、もう誰が誰かの区別もつかない。涙に滲んで何も見えない。
アナスタシアはそのまま海の上で、グルグルグルグルと回転しながら飛び続けた。
多分もう、引き返してもあそこには戻れない。
あの日々にはもう、戻れないのだ。
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「どどど、どうしよう先生。このままここで待ってたら戻ってくるかな?」
「いや、もうあんなに距離があると……多分無理だ。アーニャちゃんもそれが分かってて、海に向かってるんだと思う。このままだと海上に不時着するぞ」
「やべえ……すぐ追いかけないと!」
高原に取り残された但馬たちは、突然、高く高く飛び上がってしまったアナスタシアを呆然と見送るしか無く、パニックに陥っていた。
ブリジットの目のゴミを取っていたら、エリックとマイケルが騒ぎ出した。一体どうしたのだろうか? と思ったら、但馬の代わりに上を見ていたブリジットが、アッと叫んで上空を指差した。
多分、強い上昇気流に乗っかったアナスタシアが、あっという間に上空まで昇っていってしまったのだろう。但馬が気づいた時にはもう、彼女は100メートルは上に上がってしまっており、戻ることを断念したのか、一目散に海の方へと飛んでいった。
この時間帯、海の方には逆に下降気流が起きているから、かえって危険のはずだ。しかし、戻るように言ってももう聞こえないようだった。
「こっちに戻ってくるかも知れないから、リオンはここで待機しててくれ。エリックとマイケルはリフトで下まで降りて、開けた場所に着陸するようにアーニャちゃんを誘導してみてくれ」
「わかった」
「多分、海に降りるだろうから、ブリジットは離宮から港に連絡して、応援を頼んでくれないか?」
「わかりました。先生は?」
「俺はこのまま、まっすぐ追いかける」
但馬はそう言うと、斜面を走って降りて行ってしまった。まっすぐ追いかけると言っても、そこに道はない。何を言ってるんだ? と思ったエリック達であったが、宣言通りにまっすぐ道無き道を駆け下りていく但馬を見て、度肝を抜かれた。
「なんじゃありゃ、すげえ……先生、アナスタシアのことになると人が変わるよな……」
「おいっ! そんな悠長にしてる場合じゃないぜ」
マイケルに脇腹を突かれたエリックは、ブリジットに聞かれたと思ったのか、バツが悪そうな顔をして駆けていった。
ブリジットも彼と同意見だった。
但馬にとって、やはりアナスタシアは特別だ。悔しい……正直な気持ち、それはある。でも、仕方ないことなんだ。パンパンっと顔を叩くと、彼女はびっくりして見守るリオンに、
「途中でエリオスさんに声かけますから」
と言って駆け出した。
今から船を出しても、彼女が不時着するまでに間に合うだろうか? その心配はあっても、自分にはどうすることも出来ない。とにかく最善は、一秒でも早く港に連絡をつけることだろう。
すると、彼女のその願いが天に届いたのだろうか? 離宮の方から侍従とエリオスが連れ立ってこちらへ走ってきた。
「おーい!」
彼女が手を振って呼ぶと、彼らは一目散に駆け寄ってくる。もしかしたら、アナスタシアが飛び立ったところを見て、何かあったかと気を利かせて来たのだろうか?
「姫! 丁度良かった。今呼びに行くところだったのだ。社長はどこだ?」
「こちらも丁度良かったです。さっきのあれ見てたのでしょう?」
「なんのことだ?」
エリオスはキョロキョロと周りを見渡している。どうやら但馬を探しているようだ。どうしたのだろうか? と思っていると、エリオスと一緒にダッシュしてきたのだろうか、ゼエゼエと息を乱しながら、侍従がブリジットの腕をガシっと掴んでいった。
「ぜえぜえ……ブリジット様! 至急、王宮までお戻りください」
「ええ、ですから、今戻るところだったのですが」
「こちらではなく、ローデポリスの……皇帝陛下が……」
侍従は息も絶え絶え叫ぶように言った。
「先ほど、連絡がございまして……皇帝陛下が倒れられ、現在、意識不明とのことなのです!」
何を言ってるのだ? この人は……
ブリジットは頭が回らなくて、呆然と立ち尽くした。
彼女の肩で、但馬の上着が風に吹かれて揺れていた。もう間もなく夜が訪れようとしている世界は、夕日に照らされて、赤く染まりはじめていた。






