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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第四章
112/418

二人の帰る場所

 その後の対応は割と手間取った。但馬が倒れることなんて誰も想定しておらず、いざ仕事を割り振ろうとしても、スケジュール自体彼の頭の中にあるから、わからないことが多かったのだ。


 取り敢えず片っ端から関係各所に連絡を入れ、但馬が抱えてる案件を一つ一つ精査し、急ぎのものは親父さんが引き継ぎ、その他はフレッド君が関係各所と調整、エリオスは但馬が家から抜け出さないように監視、お袋さんとアナスタシアが食事や身の回りの世話係に決まり、みんな喫緊の課題を片付けに散っていった。


 それにしても、簡単に割り振っただけでも但馬の仕事は異様に多く、おまけに地域が限定されていない。国家事業から子供のお使いみたいなものまで幅広く、何でそこまでして仕事を抱え込んでいたのだろうかと首をひねりながら、みんなが玄関から外に出たら、家の周りを取り囲むように人垣が出来ていた。


 但馬が倒れたと聞いて続々と人が集まってきたようで、それをブリジットが連れてきた近衛兵たちがさばいていた。どうやらあらぬ噂が立っているらしく、中には但馬が死んだと思い込んでる人もいて、いちいち説明しても次から次へとやってくるから埒が明かず、理解したらしたで今度はお見舞いの品を持ってきたりするので、どうにも収集がつかなかった。


 この対応を誰がやるかと困っていたところ、


「ここは私が引き受けますから、みなさんはみなさんのお仕事をよろしくお願いします」


 ブリジットが玄関前に椅子を引きずってきて、まるで門番のように腰を下ろした。腰から剣を鞘ごと引き抜き、地面に突き立てると、周囲の空気が一変した。多分、この門を突破できるのは世界でも一握りの人間だけだろう。


 近衛兵たちが早く城に戻るように諫言するも、


「私が王宮に閉じこもってることで、先生の役にたつのであれば、黙っててもそうしてますよ。そうじゃないでしょう? 今必要なのは何か、状況を把握してください。決まりきった仕事しか出来ないのであれば、そんな人少なくとも私には必要ありませんから」


 と、結構きつく言われては何も言い返せず、彼らはため息を吐くとやってくる見舞客の対応に散っていった。こうなったらもう、ブリジットは梃子でも動かないだろう。説得するよりも、但馬の無事を周知した方が手っ取り早い。


 それを見送りつつ、ブリジットはため息を吐いた。売り言葉に買い言葉とは言え、但馬とやりあってしまった。ただ、ちょっとあのガキっぽい言動が許せなかったのだ。どうしてこんなにもいろんな人達に心配されてるのに、その気持ちを汲めないのか。但馬はもっと楽天的で、そういう人じゃ無かったはずなのに……


 但馬が倒れたと聞いた時は目の前が真っ暗になり、世界がひっくり返るくらいショックを受けた。あまりにも悲しくて死にそうになりながら飛んできたら、部屋の中から駄々をこねるような声が聞こえてきて、ほっとすると同時になんだかムカムカ来たのだ。


 でも、本当に無事で良かった。


 でも、本当に無事なのか?


 二つの相容れない感想が錯綜して、どちらが本当の自分の気持ちか分からない。ただひとつ分かることは、但馬はやっぱりちょっと変だったなと言うことくらいだ。最近のアナトリアの発展は目覚ましく、その殆どに彼が関与していた。王宮に閉じ込められて逢えなくなっても聞こえてくるその評判に、自分も頑張らなきゃとそれを支えにしていた。


 しかし、久しぶりに見た但馬があれなのだ。彼の華々しい評判の影で、もしかして知らず知らずのうちに、彼に辛い役目を押し付けていたのではないか。無理をさせすぎていたのではないか。


 エリオスを責めるつもりはない。彼は彼の役目をちゃんと果たしている。ただ、かつては同じ護衛であったから、自分が居れば……ずっと一緒に居られれば……と思ってしまって悔しいのだ。


 後悔しても取り戻せない時間にイライラしながら視線を上げたら、門の向こうでこちらの方をおっかなびっくり見ていた街の人達が蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 



 みんなに寄ってたかって説教されたせいで不貞腐れた但馬は、部屋のベッドで布団に包まってぶつぶつ文句を垂れていた。立ち上がって大暴れしてやりたい衝動に駆られていたのだが、本当はそうしたくても出来ないくらいに体力を消耗していた。ずっと気力だけで立っていたようだ。こうやって体を横たえて見ると、自分がどれだけ疲れていたかが分かったが、それすらも癪だからプンスカ怒りながら悪態をついていた。


 それでも医者に何か食べさせたほうがいいと言われていたお袋さんは、一人息子を立派に育て上げた経験と、最近ではリオンの面倒をずっと見ていたお陰で、子供の癇癪には慣れっこだったらしく、根気よく但馬の悪態に付き合ってくれた。


 最初はおかゆを持ってやってくる彼女に対し怒鳴り散らしていた但馬も、何度も同じことを繰り返しているうちに段々ほだされ、最終的には受け入れた。普段は肝っ玉母さんらしく乱暴な物言いをする彼女であったが、病人相手には非常に優しく、いくら悪口を言っても一向に気分を害すること無く愛想を絶やさないので、次第に但馬も自分が情けなくなってきて、ついに折れた。


 ネギたっぷりで生姜と塩のきいたおかゆを啜るように流し込んでいると、もういい年した男が情けないと思えてきて、ポタポタとおかゆに涙がこぼれた。それに気づかない振りをして、台所を片付けにいくと出て行った彼女の後ろ姿を見送り、但馬は今度こそやるせなくなって、より一層塩味のきいたおかゆをかきこんだ。


 ヒール魔法のお陰で傷ついた胃壁は全快していたが、それでも久しぶりに取り入れた食物に、胃袋が刺激されてじわじわと痛んだ。体中の細胞組織が栄養を取り合って暴れているかのようだった。体がぽかぽかとして暑くもないのに汗が吹き出て、体が生きろと命じているのか、目がランランとして神経が研ぎ澄まされる。


 だが、それも束の間の出来事で、すぐに疲労感が戻ってくると、今度は久々の食事で栄養を余すこと無く取り込もうとする胃袋に血液が集中してきて、貧血みたいにクラクラしてきた。


 まぶたが勝手に降りてきて、眠るまいと努力するのだが、体が全く言うことを聞かず、彼はおかゆの皿を放り投げると、ついに力尽き倒れるようにベッドに沈んだ……


 ……暗い暗い部屋の中で、但馬は一人孤独だった。四方八方全てが見渡すかぎりの闇であって、それがどこまで続いているのか、必死に叫んでも誰の返事も帰ってこない。


 それは広い何もない空間に自分がいるからだろうか。それとも、実はそんなのはただの気のせいで、単に自分がまだ目や耳や口がついてないただの肉塊だからなのではないだろうか。


 どこからともなく光が差して、鏡のように磨かれたどこまでも銀色に輝く壁の中に映しだされた、いつかメディアの世界樹の中で見た機械に制御されたカプセルの中から、ドロドロに溶けた肉の塊が溶け出すようにこぼれ落ち、地面に達するとプルプルと震えながら何かを探すように這いずりまわる。


 但馬はその恐ろしい光景から逃げ出そうと必死に藻掻くのだが、鏡越しに映ったそれは自分の周りにはどこにも無く、どちらへ逃げて良いのか分からず、ただ気持ち悪い体の感触と、シュルシュルシュルシュルと何かがこすれる音が響いて、気が狂いそうになりながら鏡の中の肉塊に怯えながら、自分の体を探して必死に這いずりまわっている時、ようやく彼は自分こそが這いずりまわる何かであることを知るのだ。


 途端に但馬は恐怖心に思考の全部を根こそぎ持ってかれて、一心不乱に助けを求めて絶叫するのだが、その声はどこにも反響しない。そもそも、声など出ていない。鏡面の中には醜い肉塊がプルプルと蠢いているのだ。それには目も耳も口も何もついていないのだから、その叫びはどこにも届かない。


 ガバッ!


 ……っと、但馬はビクビク震える体を起こした。


 やけに喉が乾くと思ったら、全身汗まみれでシャツが体に張り付いていて、最悪の目覚めだった。呼吸は千々に乱れてまるで全力疾走してきたあとのようだった。


 額から流れる玉のような汗が目に入って痛い。但馬はブルブルと震える手でそれを拭い取ろうと思ったのだが、自分の手が動くよりも先に、そっと額にタオルがあてがわれ、優しく汗を拭きとっていった。


「……アーニャちゃん……」


 ぜえぜえと呼吸を乱しながら顔を向ければ、気がつけばいつの間にか、ベッドの横でアナスタシアが但馬のことをじっと見下ろしていた。いつ眠ってしまったのだろう。どのくらい眠っていたのだろう。


 室内は日が陰って薄暗く、そろそろ電気を点けたほうが良さそうな頃合いだった。窓から指す陽の光は赤く染まり、それがアナスタシアの真っ白な頬を染めて、セピア色の中に溶け込む映画のワンシーンのようだった。


 見られたか……但馬は体を起こすと、唾液を飲み込み、呼吸を整えて、どうにか平静を装おうとした。取り敢えず咄嗟に寝汗でぐしょ濡れになったシャツを引っ張って、


「悪いんだけど、着替えさせてもらえないかな?」


 と言って、彼は口だけで笑みを作った。


 アナスタシアはコクリと頷くと、すでに用意してあった寝巻きを手渡し、


「手伝うから、脱いで?」


 と言うので、流石にそれは恥ずかしいからと断ったのだが、


「じゃあ、せめて上半身だけでも拭く。拭かせて」


 と言われては、乙女じゃあるまいし、仕方なく観念して着替えを手伝ってもらった。


 冷たい水を絞ったタオルで拭かれると、びっしょりだった背中から汗が蒸発して、なんとも気持ちよかった。しかし、自分の浮き出たあばら骨がみすぼらしくて、恥ずかしくなった但馬は彼女からタオルをひったくると、前は自分で拭いた。


 着替え終わった彼はシーツを取り替えるからと言われてベッドから降りると、手近にあったソファに座り、彼女がシーツを取り替える後ろ姿を眺めた。


 うなされているところを見られたと思ったが、特に何も言ってこないことにホッとしつつ、シーツを洗濯カゴに入れてくると言って出て行った彼女を見送ると、但馬はまだふらつく体を起こして、部屋の書き物机の方へと移動した。


 机には、但馬が今日倒れるまで所持していたカバンが立てかけられていた。彼はカバンの中からゴソゴソと書類を引っ張りだすと、机の上に並べた。


 仕事を禁止されてはいても、やはり気になる日本人気質か、せめて電話で進捗を聞くくらいなら構わないのではなかろうか。先程は癇癪を起こしてみんなにみっともない姿を見せてしまったし、それを謝るついでだと、但馬が書類を広げてどこから電話しようかと頭をひねっていると、


「ダメッ!!」


 っと、新しいシーツを持って戻ってきたアナスタシアが、大きな声で但馬を制止した。彼女にしては珍しい行為だったから、但馬はびっくりして体が固まった。


 アナスタシアはシーツを放り投げると、ズカズカと但馬の方へと近寄ってきて、そしてギュッと抱きつき彼の体に覆いかぶさると、グイグイと全身を使ってベッドの方へと引きずっていこうとするのだった。


「ちょっとちょっと。アーニャちゃん、離してよ」

「ダメったらダメ!」

「別に仕事しようとしてたわけじゃないから。ちょっと電話して、みんなに謝った方が良いかなあ? って……」

「……本当?」


 まあ半分は本当だ。但馬は目を泳がせながら肯定した。


 アナスタシアは、じぃっと彼女特有の上目遣いで探るように但馬の顔を見つめていたが、やがて何かを諦めるかのような顔をしたかと思うと、今度は不安そうに彼の顔を見つめながら言った。


「先生は、そんなに仕事が好きなの?」

「え? ……いや、そうだね。そうかも」

「そうなら、邪魔はしないけど……したくないけど……」


 彼女は言いづらそうにプルプルと震えながら、


「でも、夜はちゃんと寝て? ご飯も毎日ちゃんと食べて?」

「あー……」


 やっぱりそうなるよなと、但馬は後頭部をポリポリと掻いた。


 別に眠りたくないわけじゃないのだ。人間、寝不足よりもちゃんと睡眠を取ったほうが頭も回るし、ご飯をしっかりと食べて健康を維持した方が、結局は仕事だって長く出来る。


 ただ、そうしたくてもあの夢が……あの日、もしかして自分が人間ではないのではと思ってしまった時から、脅迫的なまでに何度も見せられるあの夢が……眠りたくても但馬を眠らせてくれないのだ。


 この期に及んでしまったら、もう覚悟するしかないだろう。


 但馬はこの世界の住人どころか、記憶の中の日本人でもない。だが、それは認めたくない。自分が誰かも分からず、得体の知れない何かだなんて、考えたくもない。


 だから考えないように仕事に没頭していたのに、でも誤魔化しきれないから、それが夢に出てくるのだ……こんなの一体どうすりゃいいのだ。


 但馬は何も気の利いたセリフも返せず、頭をボリボリと掻いた。


 だがアナスタシアはそんな但馬の不安などお見通しだったようで、


「知ってた……」

「え?」

「先生が、ずっと何かに怯えるようにしてたこと。いつからかは分からないけど、夜眠れなそうにしてて、おかしかった。それに……」


 彼女は藪睨みするように、じっと但馬の目を覗き込みながら、どこか不安げな表情を隠さずに言った。


「先生は、もう故郷に帰りたくないの? 帰らなくっていいの? どうして、急に帰る方法を探すのをやめちゃったの?」

「それは……」

「もしかして、私を連れていきたくないから、内緒にしてるの?」

「いや、そんなことはない。そんなことは無いんだ……」


 どうして帰る方法を探さなくなったのかと言えば、それは探す必要が無くなったからだ。それがどこにあるのか、もうとっくに知ってるからだ。最近発見したニュージーランド、地軸が曲がってるせいでその南には恐らくオーストラリア大陸があって、更に西へ向かえばポリネシア、インドネシア、フィリピンを経由してその先に、大陸棚にへばり付くように存在する日本列島があるだろう。


 だが、その場所はもうとっくの昔に滅んでしまっていて、但馬が帰ることを切望した日本では無くなってしまった。今更そこを目指したところで、何もない島がそこにあることを、確認するだけなのだ。


 いや、そもそも但馬が帰りたかったのは、日本列島そのものではない。あの日あの場所あの時代、60億も人が居て、戦争も宗教間のいざこざもあったけど、概ね平和だったあの世界なのだ。


 そんなものは、もう何処にもない。


 ただ日本に向かうことなら出来る。船に乗って片道なら、今すぐにでも向かうことも出来るんじゃないか。


 でも……考えたくはないが、しかし……自分は亜人製造装置で生み出され、但馬波瑠の記憶を植え付けられただけの、ただの人形かも知れないのだ。


 なら、その行為に何の意味がある?


「帰れなくなっちゃったんだよ……」

「……え?」

「帰っても、もうその場所に、俺の故郷は無いってことが分かっちゃったんだ。見つけたんだよ、俺の故郷に繋がる痕跡を。そこにはもう何も無い」


 きっと国会議事堂もスカイツリーもディズニーランドも、とっくの昔に風化して、そこには無人の荒野が広がっているだけだろう。


「俺にはもう、帰る場所が無いんだ」


 金はうなるほどある。どこにだって行けるはずだ。なのに、帰る故郷が無くなったとわかると、どこにも行けなくなってしまった。仮にリディアから出てよそに移ったとして、リディアにはもう戻らないのか。その場所にも飽きたら今度はどうするんだろう。流浪の旅を延々と続けるつもりなのか。帰る場所がないということは、常に何かを切り捨てていくことと同じなのだ。


「だから俺はもう、ここで生きていくしか無いんだなって。そしたらもう、何やってても落ち着かなくってさ。それ以来、ずっと夢見も悪くて、無茶だと言われても、仕事を続けるしか無かったんだよ」


 だから、この国に固執してしまうのだ。この国のために仕事をしていれば充足できたし、みんな感謝もしてくれる。自分が必要とされてる、居ても良いんだなって実感も出来る。


「倒れるまでやっちゃったのは流石にまずかったけど、もう無茶はしないからさ。そういうわけだから、もう暫く放っておいてくれないか。きっと、いつかまた元気になれると思うから」


 いつか、この国に居ても良いんだなと心の底から思えるようになったら、きっと悪夢も見なくなるだろう。領地をしっかりと経営して、自分の帰る家にするのだ。それまではもう、ただ頑張るしか無いと但馬は思っていた。


 だが、アナスタシアはそんな彼の思いとは裏腹に、


「……やだ」

「え?」

「やだ。先生が、お仕事ばっかりしてるのは、やだ」


 プルプルと肩を震わせて、顔を紅潮させながらそう言った。


「家に帰るとずっとお仕事ばっかりしてる先生は、やだ。せっかく御飯作っても食べてくれないのも、やだ。私だって一生懸命頑張ってるのに……構ってくれなきゃ、やだ」

「ちょっと……アーニャちゃん?」

「アンナじゃなくて、アナスタシア!」


 珍しく怒気を孕んだ返事に、但馬は少し腰が引けた。アナスタシアは興奮して出てきた涙を拭ってから、唇を噛み締めつつ言った。


「わがままは言わないって思ってたけど、無理。だって先生がつらそうにしてるのは、見てて分かるもん。でも、言えなかった。言わなきゃって思って、言えなかった。もしも仕事の邪魔をしたら……また、遠ざけられちゃうんじゃないかって。先生が、私を置いて、どっかに行っちゃうんじゃないかって……そう思うと、怖くて……怖くて……だって、お父さんは私を捨てたもん! お父さんのこと、大好きだったのに……邪魔するなって、捨てたもん!」


 その言葉は但馬に突き刺さった。


 ずっと自分のことだけを考えていて、アナスタシアのことをちゃんと見ていなかった。どうして、そんな肝心なことを忘れていたのだろう……


 彼女は、仕事にかまけていた父親に、捨てられたのだ……


 母親が死んで、面倒を見てくれる人が居なくなった寂しがり屋の彼女を、父親は面倒を見きれずに修道院に預けてしまった。そこで彼女がどれだけ傷ついたか、生きる気力も無くし、つらい日々を過ごす彼女に、更に追い打ちをかけるかのように父親の死が告げられて……彼女が生きるために何をやって来たのか、忘れたのか。


「先生も、私のことが邪魔?」

「いや、そんなことは決して」

「言ってくれなきゃ分からないよ。一緒に暮らしてるのに、何が嫌なのか、何をしちゃいけないのか、先生が何に困ってるのか。つらい思いをしてるなら、言ってよ。私は先生のことが何も分からない。もっと沢山知りたいのに。でも、聞けなかった。聞いたら……捨てられちゃうかも知れないじゃない!」


 アナスタシアはもう、隠そうともせず、ポロポロと涙を流した。


「ねえ、知ってる? 先生に借りたお金は、もうすぐ全部返せちゃうんだよ。これも全部先生のお陰なのに……先生から色んな物をいっぱい貰ったよ。でも、もしもお金を返しちゃったら、もう先生と一緒にいちゃいけないの? ここから出て行かないといけないの? 私だってもう、帰る場所なんてどこにもないんだよ」

「いや、そんなことは……」


 無いと言いかけて、口先だけの気休めだとすぐに気づいて歯噛みした。但馬だって同じように思ってたじゃないか。なのに、彼女には帰る場所があると言えるのか? それは一体どこのことだ。自分がそれになれるとでも言うつもりだったのか、自分には帰る場所も無いくせに……


「でも、もうそれでもいいから。例えそれで遠ざけられたとしても、また修道院に戻されたとしても、それでいいから。だからもう無理はしないで? 倒れるまで仕事しないで? 先生まで、私のことを置いて行かないで」


 そう言うとアナスタシアは肩をブルブルと震わせてうつむいた。本当はずっと不安に思っていたのに、言えなくて耐えていたのだ。


 迂闊だった。彼女はまだ子供なのだ。まだまだ甘えたいし、わがままも言いたいし、寂しい時には誰かに一緒にいて欲しいだろう。この世界はかなり早く成人させられるし、みんな生きるためにしっかりしてるから勘違いしがちだが、17歳なんて手足が伸びきっていても、ただの子供だ。5歳も年下の女の子に、何を言わせてるのか。


「ごめん……反省します……」


 但馬はシュンと項垂れて、申し訳無さそうにポリポリと後頭部をかきむしった。そして己の不甲斐なさを恥じて謝罪した。ちゃんと、口に出して言わなきゃわからないだろう。つらい思いをしていたのは自分だけじゃなかったのだ。


 彼女はグズグズと鼻を鳴らすと、泣き顔を見られないように但馬の胸に顔を埋めた。じわりと涙のあとが広がって、パジャマが肌に張り付いて冷たかった。但馬は胸にすがりつくアナスタシアをギュッと抱きしめると、


「ごめん」


 ともう一度謝罪の言葉を口にした。


 昼間はあんなにむかっ腹を立てていたくせに、不思議ともう怒る気にもなれなかったし、心の底からみんなに悪いことをしたと反省していた。アナスタシアを泣かせてしまったことをものすごく後悔していた。


 なんであんなに頑なに隠そうとしていたんだろうか……それは自分の内に秘めている不安を隠そうとしたからだが、悪態を吐いて癇癪を起こすようなものでもないだろう。やはり寝不足でまともな判断力が欠けていた感は否めない。


 確かに、言うのは怖いのだ。もしかして、自分が人間ではなく、亜人なのかも知れないとカミングアウトすることも……自分が何者か分からないのもさることながら、かつての勇者も、自分も、もしかしたらオートマチックに何度も何度も製造された、ただの古代遺産の産物かも知れないと言うことを誰かに告げるのは……


 でもちゃんと話そう。少なくとも彼女だけには、いつかちゃんと話して、本当の家族になろう……自分だってこれからも、出来れば彼女と一緒に暮らしていきたいから。


 彼女だってそうなのだ。自分と同じ、行き場がないんだから。もしもダメなら、その時はその時だ。


 但馬はアナスタシアを胸に抱きながらそう決意すると、胸にしがみついて肩を震わす彼女の背中をポンポンと叩いた。

 

 

 

 部屋の外では出歯亀のお袋さんが、ニヤニヤとしながらこっそりと覗いていた扉の隙間をピタリと閉じた。そして一緒に覗いていたブリジットに、邪魔しちゃ悪いわとウインクすると、抜き足差し足しながらキッチンへと退却していった。


 ブリジットはその言葉に呼応して、二三歩行きかけたが、それ以上は足が進まず、くるりと背後の扉に振り返ると、


「やっぱり敵わないのかな」


 と独りごちた。


 但馬があんな風に気遣ったり、優しい顔を見せるのは、彼女だけのように思える。少なくとも、自分には見せたことはない。


 それは彼女に全幅の信頼を置いているからか、それともそれが恋だからか。


 分からないが……彼女は複雑で、なんとも言えない気持ちを抱えたまま、重い足を引きずるようにして、お袋さんに気取られまいとキッチンへ急いだ。


 多分、きっと、もう自分の出る幕はない。但馬とアナスタシアは二人で幸せになってくれれば、それが一番良いのだ。それが一番自然で美しいことなんだと、彼女はそう自分に言い聞かせていた。


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