42.もう一度
『きれいなお嬢ちゃんだけどどこの子だ?』
『ば、ばかお前!あの紋章が見えないのか!?』
そんな声が外野から聞こえ、ジェラルドは恐る恐る近くに止まっているお嬢様が乗ってきたと思われる馬車を上目遣いで伺い見た。
悠然と翼を広げ今にも飛び立ちそうな雄々しい鷲とその背景に剣と本が複雑な模様と共に描かれているエンブレム。
『ライカネル公爵家か!?』
『ああ、あのお年頃なら一番下のお嬢様だろうな』
その声が聞こえたのかジェラルドたちを取り囲んでいた輪がゆっくりと広がり、関わるべからずといわんばかりに散っていった。遠くから見ているものはまだいるが。
「もう終わりなの?」
残念そうな声がどうしたら良いかわからず顔を上げられない2人の女の耳に届く。
「「え?」」
意味がわからず反射的に顔を上げる2人が目にしたのは真っ直ぐにこちらを見る無邪気な瞳。
「人間綱引きはもう終わりなの?」
「「…………………………」」
人間綱引き?
「そちらの痛がる男性を思いっきり引っ張っていたでしょう?」
は!ジェラルド!そうだ自分たちはジェラルドを取り合いしていて……彼を見るとその手首は赤くなり、爪によって傷つけられ血が流れていた。
愛する男を傷つけてしまったことに一瞬青褪めたが彼女たちは気づく。エリーゼは怒っているのだ。彼を傷つけた自分たちを。公爵家は公明正大……平民だろうと傷つければ……ゾッとする彼女たちは慌てて言い訳を始める。
「あ、あの……私は彼を傷つけるつもりはなくて……。彼が、彼がさっさと私かこの女かを選ばないのがいけなかったのです!」
「わ、私もです!傷つけるつもりなんかありませんでした!……彼があの顔を使って思わせぶりな態度をとって私たちを弄んだのがいけないのです!」
いやいやいやいや、何を言っちゃっているのか。
そんな事実はないし、無茶苦茶な言い分だ。
だが平民のジェラルドには公爵家のご令嬢に声を掛けることなど許されない。彼女は子供だろうが天上人だ。
「へ~」
納得したのかしていないのかよくわからない言葉が少女の口から飛び出すと2人の女は顔を輝かせた。
それを目にしたジェラルドは項垂れた。自分の言葉は聞いてさえもらえないし、所詮貴族は貴族の味方。平民のことなど同じ人間だなんて思っていないのだから。
「で?もう終わりなの?と私は聞いているのだけれど」
「「…………は?」」
思わず出てしまった声に2人の女は慌てて口を噤む。
「楽しそうだから混ざったのに、あなたたちやめてしまうんだもの」
その言葉にジェラルドは愕然とした。あれが楽しそう?痛かったのに?手が抜けでもしたら……二度とペンを握れないかもと絶望の淵にいたのに?
「ねぇ、もう一度やりましょう?それで最後まで手を離さなかった人がその人を獲得できるということで」
目を輝かせる2人の女性と対照的に青褪めるジェラルド。
先程の痛みをもう一度?
想像しただけで冷や汗が出てくる。
「さあ、準備はいい?お兄さんはここに座って?あなたたち手はお膝の上からよ」
言われるがままその場に体操座りをする。
本当にやる気なのか?2人の女性を見ると戸惑いながらもぐっと膝の上で拳を握り、その目には炎が宿っている。やる気満々のようだ。
………………さようなら自分の腕よ。
というよりもデザイナー人生。
腕云々の無事は置いといてこれからは彼女たちの性奴隷として生きていかなければならないのだ。
……え?
このお嬢さんには何をしてあげればよいのだろうか?
遊び相手という年齢でもないし、夜の相手でもないし、使用人は――腐る程いるだろうに。
頭の中が?で埋め尽くされる。
「それでは僭越ながらレディ…………ファイッ!」
どこからか男性の掛け声がしたかと思うとバッと2つの腕が伸びてきたのを視界に捉える。エリーゼは後ろにいるのでよくわからない。
ジェラルドの目には彼女たちがまるで血に飢えた肉食獣のように飛びかかってくるように見えた。些細な抵抗ぐらいとぐっと左手首を右手で握りぎゅっと目を閉じる。
「ねぇ」
その美しくもひんやりとした冷たい声に思わず目を開くジェラルド。目の前には固まる店長と客。
この迫力のある声が……子供から発されたというのか。
後ろを振り向こうとしてやめた。そこにはあまり見ないほうが良いものがある気がして――。
「あなたたち私よりも自分たちの方がお兄さんにふさわしいと思っているの?」
「「え?」」
彼女たちの顔が強張るのが見えた。
「な……っ!そ、そんな言い方ずるいですわ!」
「公爵家のご令嬢ともあろう方が私達を脅すのですか!?」
「違う、脅しじゃないわ」
「「「?」」」
え、違うの?3人の心が一致した。
「単純にお兄さんの顔には私の顔の方が似合うということよ」
「そんな!私の方が……」
自分の顔に自信のある客がエリーゼの顔を見て言葉を出しかけて止まる。その美しさは自分の顔など霞んでしまう程で……。
「……ひ…人は顔だけで決まるものじゃありませんわ」
「そ、そうですわ!エリーゼ様ご覧ください!私たちには大人の色気、魅力というものがございます!やはり男というものはこれがなければ落とせないのですよ!」
そう言って店長はムギュッと胸元を寄せながらエリーゼのまな板をちらりと見る。
「いやいや私子供ですから。別に性的な意味で自分のものにしないですから。そもそも婚前交渉ははしたなくてよ」
その言葉にほっとするジェラルドと怪訝な顔をする2人の女性。
「「ではなんの為に彼を?」」
「あなたたちに言う必要があるかしら?」
ふわりと微笑みながら言われた言葉にビクリと体を震わせる2人。エリーゼが纏う雰囲気は間違いなく上に立つものの風格。彼女がやることに口を出すなど許されない。
「し、失礼致しました!ですが、私たちは彼のことか好きなのです!エリーゼ様は彼のことをどうとも思っておられませんでしょう?でしたらお譲りください!」
「でも彼はあなたたちに好意など持っていないようだけれど」
「「そんなことありません!」」
「えー、だったらなぜ引っ張り合いっ子なんてしているの?彼が選べば良いじゃない」
「彼は2人とも同じように好きなのです!」
「はははは、めちゃくちゃ嫌がってるようにしか見えないんですけどー」
「お子様のエリーゼ様にはわからないかもしれませんが、大人は押して引いてと駆け引きを楽しむものなのですよ?」
「はははは、気持ちで押して身体は引くって?」
「「違います!」」
「はははは、お姉さんたちこわーい」
嗤うエリーゼに無性に腹が立ってくる。子供が恋愛について口出しなんてするもんじゃない。これが公爵家の娘でなければ相手にさえしないのに。
子供?そうだ相手は所詮子供なのだ。
「……エリーゼ様、ライカネル公爵家のご令嬢ともあろう方が人のものを盗るなど浅ましい真似をするものではありませんよ?」
「致し方ありませんわ、まだお子様ですもの。人の物がよく見えるお年頃ですわよね。ふふふっ」
急に余裕のある態度、大人が子供を諭す様子を見せ始める彼女たち。エリーゼの目が僅かに細められる。
「こんなに可愛い姫君ですもの。きっと大事に大事に我儘一杯甘やかされてきたのでしょう?ですがお父様は偉大なるライカネル家の公爵様ですもの。エリーゼ様がこんなことをしていると知ったら大層悲しまれますよ?は!もしかしたらお怒りになるかもしれませんわあ」
「エリーゼ様人の物を盗るというのは浅ましく、いけないことなのですよ?そんなことをするなら心苦しいですがお父上に申し上げなければなりませんわ」
してやったりの顔をする彼女たちを見てジェラルドは愕然とした。
なんと幼稚な脅しだ。
お父ちゃんに言いつけてやるぞ、なんて。
これが帝国の貴族のやる事なのか。
だが確かに子供には通じる手なのかもしれない。




