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妖精の森(2)


 ピピピ……と鳥の声がして目を開ける。

 私は先輩に抱え込まれた幸福な体勢で、たいへん良い目覚めを得た。

 あ、起きた瞬間から先輩がいる……なんていい朝なんだろう……。


 寝顔をじっと覗き込む。まつ毛も白いんだな。すっと通った鼻梁も、閉じられた瞼も限界まで美しい。なにこれ眼福すぎる。白い虎とか、そういうジャンルの美しさ……え、これたぶん数千年くらい余裕でずっと飽きずに見ていられる。


 昨日は少し悲観的な気持ちになってしまっていたが、お日様が昇るとまた現在の状況の幸福さに震えてしまう。

 感動していると、先輩がうっすらと目を開けた。


「ジュゼ……」

「お、おはようございます!」


 ぎゃああ! 先輩が……寝起きの声で……私の名前呼んだ! 心臓がぎゅんぎゅん震える。


「ん? ここ、どこだ」

「妖精の森です!」

「……あぁ、思い出したわ」


 ねぼけまなこの先輩が、くあ、と虎みたいなあくびをする。


 一晩明けたわけだが、状況は依然変わらずだった。

 私と先輩は一縷の望みをかけて一度だけ進んでみようとしたが、やっぱり同じ場所に戻された。


「さて、どうすっかな……これ以上歩きまわってても仕方ねえから考えるか」


 先輩は結局、燃え尽きた焚き火の前に腰を下ろす。私もその隣に座った。あー、先輩と一緒なのが幸せすぎて脳がぼんやりしてくる。


「……お前ずいぶん上機嫌だな。怖くねえのか」


 油断すると頬が緩んでしまう私に、先輩が怪訝そうな顔を向ける。


「え? だって先輩といれば怖くないし。学院に戻ると、また先輩としばらく会えないかもだし……ちょっと嬉しかったりもして……もうちょっとここで迷っていたいくらいです」


 えへへと笑って言うと、先輩が眉根を寄せて私の顔を覗き込む。すっと指を差してきた。


「………………なぁ、それじゃねえか?」

「ん?」

「お前の感情に、妖精が共鳴して、それを叶えている」

「え……」


 それだ。


 それしかない。


「ごっ、ごめんなさいぃ! 絶対そうです! わ、私が先輩を好きすぎるばかりに……!!!」


「なら、感情のコントロールをすればすぐ出られるんじゃねえのか」


「え? 先輩のことを好きな気持ちを抑えろと? 無理無理無理」


 そんなの、できそうにない。


「てめーがここから出たくなるのを待つしかねえのかよ……」

「そ、そんなの何年も経ってしまいますよ!」

「本気で言ってんのか……?」

「うーん、断言しますが、このまま待っていてもその時は来ません」

「はぁ……」


 私は思考を巡らせて、再び口を開く。


「先輩、ちょっと私を嫌ってみてください」

「あぁ!?」

「私のことなんて、好きじゃないとか……ほんとうは大嫌いだとか、言ってみてもらえれば……少し……外デート気分で浮かれ狂った私の頭がテンションダウンします」


 先輩は、実に嫌そうな顔をした。


「ほかに方法ねえのかよ……」

「これしかないです! 嘘だとわかっていてもかなりの衝撃がありますから……そしてそれくらいの衝撃を与えないと……私から溢れる浮かれ愛がとどまらないんです……」


 だって私はこのごにおよんでまだ、先輩と森を彷徨っていたいと思ってしまっているのだ。


「あぁ? しゃあねえなぁ……」

「ちょっとリアルな感じに頼みます! あ、でもリアルすぎると即死するのでほんのり優しさも忘れず……」

「しれっと面倒くせえ注文追加してんじゃねえ」


 先輩は頭をガリガリ掻いて、はぁ、と息を吐く。


「ジュゼム…………」

「はい」

「あー……今まで黙ってたけど」


 先輩の言葉を待っている瞬間、妙な感覚がした。

 まるで、ずっと持っていた、開けてはいけない箱をこっそり開けようとしているみたいだった。


「俺は、ほんとうはお前のこと、べつに好きじゃねえ」


 下を向いてボソボソとこぼした先輩が、顔を上げてギョッとした表情をする。


「……っ、ジュゼ?!」


 気がつくと私はぽろぽろ泣いていた。


 それは、私が無理やり言わせた言葉でしかなく、普通の空間で聞いたならばそこまで大きな問題にはならなかったはずだった。

 けれど、妖精の気配が充満するこの空間においては、妙な臨場感と真実味を帯びて私の胸に響いた。


 ── 俺は、ほんとうはお前のこと、べつに好きじゃねえ


 いや、今のは嘘だ。嘘のはず。

 でも、もしかしたら、そっちが本音かもしれない。

 先輩が私といるのは同情心でしかない。

 私は前からそれをずっと疑っていた。

 いや、同情心でここまで一緒にいる必要なんてないはずだ。だからさっきのは嘘。嘘だから信じなくていい。

 でも、先輩が私を好きだというよりは、そのほうが、よほどしっくりきてしまう。

 先輩も、私と同じように傷ついて心を閉ざして生きていたからだ。彼の根はとても優しいから、きっと放っておけなかった。同情でしかない。嘘だ。そんなはずない。今のは言わせただけ。いや、ほんとうのことを言わせたのかもしれない。


 それは、実際には先輩の言葉ではなく、私が心の奥底でずっと思っていたことだ。だから心がどんどんそちらに傾いていく。先輩は、私のことなんて好きじゃない。


 ああ、やっぱりそうだったんだ。

 私はきっと今、やっと真実を聞けたのだ。

 ああ、しんどい。

 辛い。辛すぎる。倒れそう。


「……っ、ジュゼ!?」


 私は先輩に背を向けて走り出した。彼の前にいられなくて、ただそこから逃げたのだ。


 方向もろくに見ずにどんどん先へと走っていく。

 涙で前はよく見えないし、自分の息の音がうるさい。

 しばらく走って異変に気づく。

 今まで何度行っても同じ場所に引き戻されていたのに、見覚えのない風景の場所へと来ていた。


 目の前にはものすごく巨大な樹木があった。

 これが妖精樹だと一目でわかる。

 気配がもう普通じゃないから。

 私は吸い寄せられるようにそちらへと歩き出す。

 ガサガサと強い風が吹いて、木の葉が舞う。


 ぎゅっと目を閉じて開けると、あたりは薄暗くなっていて、細長い枝が私に向かって伸びてきた。


 枝は両方の手首にぐるりと巻きつく。腰にも少し太い枝が巻きつく。


「え? あ、あ……」


 体に巻きついた枝にふわりと持ち上げられて、私はしゅるしゅると妖精樹の高い位置にあるうろへと収納された。



  ***



 どれくらい時間が経ったのだろう。

 妖精樹のうろは、身を丸めていると胎内みたいに感じられた。

 生まれる前のようなまどろみの中、どこかから声が聞こえていた。


 目を開けると、実家のテラスだった。

 そこで歳の離れた兄が父に誉められて、珍しく笑顔を向けられていたから、羨ましくなった時の記憶だ。この頃の私はまだ、父に少しでも愛されたがっていた。

 私はあのとき、自分も何かできると、何かさせてほしいと訴えたはずだ。


 ──お前は兄弟の中で一番出来が悪いからな、どこかに嫁がせていずれ役に立ってもらう


 父は真顔でそう言った。

 そうして、書斎も、父の姿も歪んで溶けた。


 学院の寮で、ルームメイトが荷物をまとめている姿が見えた。彼女は私からするととても優秀なのに、学院を辞めようとしている。何を言っていいのかわからず黙っている私に彼女が口を開く。


 ──才能がないのに続けても仕方なくない?


 その風景も、歪んで溶ける。


 今度は学院の教室が現れる。

 劣等生の私に対するクラスメイトたちの目は、いつもどこか嘲笑と安堵を含んでいる。


 ──落ち込むことないよ。まだ下にジュゼムみたいのもいるからさ。あれと比べたらぜんぜん優秀


 これは、仲良くしていた女子たちが、陰で言っているのを聞いてしまったときの記憶。


 とっくに死にたかった。

 でも、先輩が生きろっていうから、生きてた。

 先輩がいなかったら生きていられない。

 ああ、私、重すぎるな。重すぎる自分も嫌だった。

 先輩の気持ちとかそんなのは関係がなくて、彼に面倒しかかけられず、枷にしかなりようがない自分自身が嫌だった。


 それはもしかしたら私が心の奥底に抱いていたほんとうの願望だったのかもしれない。

 私は、先輩から捨てられることで、全部から逃げ出したかった。


 だから、悲しいのに、どこか安堵するような気持ちがある。


 だって、先輩に捨てられれば、もう、この世界で闘わなくていい。ありもしない希望とかも抱かずにすむ。この先、先輩といられなくなる恐怖にだって怯えずにすむ。


 ──ミチ……ミチミチ……


 どこかから、私の記憶にない音がしていた。


 ──メキ、メキメキ……メキョ


 真っ暗だった視界が開けて、眩しさに目を瞑る。樹のうろを蓋のように塞いでいた厚い皮がはがされたのだ。


「ジュゼム」


 目を開けると先輩が目の前にいた。私のいるうろに入ってくる。

 そこからジャキン、ボキッと音がして体の拘束がなくなり、ぐいっと空中にひっぱり出される。


「ひぇ!? せ、せんぱ……ぎ、ぎゃーーー!」


 かなり高い位置あるうろから先輩に引っ張り出された私は、そのまま先輩に抱かれて落ちていった。


 お、思ったよりずっと高い。

 こわいこわいこわい。

 必死で先輩にしがみつく。


 先輩がエーテルグリップを取り出して呪文を唱えると、剣の柄からパラシュートが出てきて開いた。ゆっくりと滑空していく。

 地面につくとパラシュートはふっと消えた。

 先輩は私を睨みつけて強い剣幕で言う。


「てめえぇ……! わかってんだろうが、さっきのアレは大嘘だからな!?」


 こくこくと頷く。

 紅い瞳は熱を放っているかのように感じられた。

 エーテルグリップをベルトに収めた先輩が、私の手を取る。


「ジュゼム、帰んぞ」

 そうして付け加える。

「一緒にな」

 胸の奥からまた熱いものがこみあげてくる。

「………………はい」



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