第四十四話、野生の兎
視線の先に、目をぱちくりと瞬かせている女の子が居る。
その子は、群島の一つの島、砂浜の上、銛のような武器を手に持って現れた。これから海で漁でもする気だったのだろうか、色気のない水中用の装備を身にまとい、彼女の白い足は海に濡れている。
荷車は止まり、一行の目線もそこの女の子に集まっている。だが向こうの子の目は、どうやら俺に当たっているようだった。
「こんなところで……迷子?」
俺がそう声を掛けると、ストンと、少女の手から力が抜けて、銛の底が地面に付いた。
「……アイリスの……勇者さん……?」
「ん?」
彼女の声に、俺の中の記憶が蘇る。雨の中で交わした言葉、見送った彼女の背中。人づてに聞いた彼女の無事。そして、彼女から送られてきた枝豆のブローチは、何度も俺の体を守り、そして今はツバキの腰元に付いている。
「ウサギ……ちゃん?」
「最近は町の外をふらつきながらテロを起こしてるんですよー」
「そ……人が死ぬやつ?」
「まさか。人を殺すとさすがに私たちの立場が悪くなるので。私たちはただ、安全な地域に私たちも入れて欲しいだけですよ」
荷車を島の木々の中に止め、ほかの子たちは砂浜の方へと散っていった。ミドリだけはそこの荷車の中に残り、木々に紛れて日陰で風を浴びている。
俺は、いつかの街で少女に手を貸した。それを発端にまぁなんやかんやあったのだが、とにかくこの子はその時の女の子である。
俺たちは木々の日陰の中に座り、視界には、向こうの砂浜で遊ぶ子供たちが見えている。
「しかし、人に化けるモンスターが二人、植物の亜人が一人。天使の血が一人。あなたのお連れさんには、ずいぶん色物ばかりが揃ってますね」
ツバキの血もばれるのか。
「みんな、一人で居たんだ。ただ一緒になって歩いてるだけだよ」
「あなたは、本当に常識とか、そういうのがないんですね」
隣を見れば、膝を抱えて座った少女が、膝に頭を乗せ、頭を傾けてこちらを見ている。少女の声に、俺を咎めるような声音はなかった。
「あの時の続きの話をしていい? 君は何者で、君は何してるの?」
俺が聞くと、少女の目線は向こうの海に移った。揺れる木々の日陰の下で、二人、並んで海を見つめている。
「あなたはそれを知って、どうするんですか?」
「あの時よりは、腕も力も強くなった。出来ることも増えた。知れば、何か力になれることはあるかもしれない」
「今の私が、あなたの目には困っているように見えます?」
「君は今も迷子なんだろ?」
「……面白いことを言いますね」
ふぅ、と、少女はそこに座ったまま息を吐き出した。
「何も知らないまま助けてくれるって、そういう相手が居るのも、楽ではあるんです」
「心の支えだけじゃ、完全に助けられたとは言えないだろ」
「あなたは私の何になりたいんですか?」
「たとえば……そうだね。たとえば、村の柵の外に出ていこうとする赤子が居たとして、君は何も言わずに拾い上げるだろう? それと同じ」
「私は何も知らない赤子ですか? 私はあなたより強いですよ」
「強いかなんてどうでもいいよ。君は困っている子供だろう」
ちらと、膝の上に落ちた少女の頭が、俺の顔を見て窺った。
「私があげたブローチは、今はほかの女が付けてるんですね」
少女の目線が、向こうの浜を歩く銀髪の子の元へ行く。
「君がくれたあの魔道具は、俺の命を何度も守ってくれた。でも、今は俺には必要なくなったから、面倒を見てる弟子に渡したんだ。今は大事な弟子の体を守ってくれてる」
「ふーん? 私とどっちが大事ですか?」
「むずかしいことわかんない」
「急にどうされたんですか?」
はぁと、少女は再びため息を吐いた。向こうで、海にはしゃぐ子供たちの声がしていて、揺れては帰る波の音を、囲まれた潮の匂いを感じる。ここは道を外れた孤島の上だ。今は道も波に沈んで、潮が引くまではまた動くことが出来ない。
「龍脈のない、いわゆる深度“ゼロ”の人界の街の中には、一定以上の魔力を帯びた、魔物や、魔物化の進んだ人間や、龍脈の浸食を受けた人間は、入れないことになっているんです。あそこには、一切の龍脈に触れずに生きてきた人間が集まっていて、そして、“俺たちこそが最も純粋な人間”だと、そう言って、“私たち”を排除するんです」
少女の目が、遠くの海から、こちらを向いた。
「“私たち”の敵は、国とか、政治家とか、法律とか、そういったものです。あなたが強くなった? そうかもしれません。しかし、今のあなたの力では、私を助けられません。……いえ。あるいは、あなたの連れるあの子たちのように、私だけなら、あなたはきっと助けてくれる。けど、そうじゃないんです。私が助けて欲しいのは“私たち”で。だから、今のあなたじゃ、きっと私を助けられない。そうですよね? 小さな勇者さん」
今も昔も、俺は大した力のない、首を突っ込むだけの勇者だった。彼女の言う通り、彼女の口を開いて、彼女の話を聞いたって、俺は彼女の何かになってあげられるわけじゃなかった。今も、昔も。
「“恐れ”だよ」
「……」
「君たちの敵は、誰かや何かじゃなくて、人の心のうちに潜む“恐れ”だよ。それが、君の言う“敵”の心の中にそれぞれあるんだ。法律や仕切りは、その表れで、それだけ取り払ったって、“恐れ”は消えてはなくならない。まぁ、細かく区切れば、君たちがそれぞれ受けるものは、小さくなるかもしれない」
「……そうですか」
「君はこんなにも、可愛いのにね」
俺はすぐ隣に座る、少女の頬に手を伸ばす。少女の肌に触れられた。冷たい、柔らかい肌だった。彼女は確かにそこに居て、じっと俺の顔を見つめている。彼女に触れたからと言って、俺の手がどうにかなるわけじゃない、彼女が俺を害するわけじゃない。
「あるいは、触れられる距離に居れば、みんな気づくのかな」
「……気安いですよ」
ぺし、と、俺の手は軽い力で払われる。
「海は好き? 一緒に泳いで遊ばない?」
「そのうち仲間が来て、合流する手はずになっているんです。私はそれまで食料を集めています。遊ぶ暇はありません。今あなたと話してあげているのは、座って休憩するついでです」
「じゃあ次は、食料をとるついでに、俺と一緒に遊んでもらおうか」
「暇なんですか?」
「見ての通りだよ」
少女は車を超える大きさの魚をとって来て、俺は砂の上で震えていた。
「仲間に顔を見られたくありません。あなたは先に進んでください」
やがて、潮が引いて再び道が現れた。荷車の側に、塩に濡れた子供たちも戻ってきている。
「見られたらまずい? 危ない人たちなの?」
「いえ。ただ、個人的に私があなたを見られたくないからです」
「個人的に? なんで?」
「あなたは私の勇者なので」
しんと、静まり返って、そこで波の音が鳴っている。
「……小さな、勇者だけど」
「あなたの手を取らないのは、私の意思です。まぁなんでもいいのでもう行ってください」
「足りてないものはない? 何か、欲しいものとか」
「大丈夫ですよ。あなたの示した正義と勇気が、私の心の中にある。私はもう受け取りました。だから、大丈夫です」
「心だけじゃお腹は膨れないよ」
「もう行っていいですよ。さよならー」
前にも同じような問答をした気がする。今度は、俺からこの場を去っていく。今、俺が彼女の元に行ったとして、俺から何か出来るだろうか? ……いや、きっと、彼女の言うように、彼女と同じ場所から、彼女を助けてあげることは出来ないのだ。俺がすることはきっと他にある。
俺はその場に彼女を残して、荷車を引き弟子を連れて、次の島へ。海の中、消えては現れるか細い道が、足元を続いていく。




