第三十話、憧れの一歩手前で
その日の天気は曇りだった。空は雲に覆われ、視界はぱっとしていなくて、生ぬるい風が草原の上を吹いていて、俺はふらっとその辺を歩いてから、ちょうど荷車のもとに帰って来たところだった。
がしゃんと、ツチの足元に道具が落ちる。洗い物をしようとしていたのか、それらは食器の類だった。ツチはぼーっと足元のそれらを見下ろしていたが、やがてその場に腰を下ろして座り込む。
「……わぁぁああああああ!」
ツチが泣き出した。俺はタヌキの体の傍に駆け寄る。
「どうした?」
「わたし……わたし!」
「いつまで経っても人間の暮らしに慣れない、か」
そりゃタヌキだからな。って言っちゃダメなのかな。人間とは手も足も違うし、そりゃ、その体のままでこっちに馴染もうとしたらそうなる。
しかし、ツチは真剣に思い悩んでいるようだった。
荷車の外に机と椅子を出し、俺は魔石を握り、魔法で食器を洗っていく。二層になったザルと籠の中には、食器と、魔法で生み出した水と、生物性の石鹸とが入れられている。ごちゃごちゃと魔法の水を操作し、かき混ぜて食器を洗い、ザルを持ち上げて水を落とした後、ザルに水を注いで洗剤や汚れをすすぎ、あとは魔法の熱で全体を乾かしていく。乾いたら大体終わりだ。
俺は手を止めて、ツチの方へと向き直る。
「わたし……わたしは……みなさんは、モンスターと戦ったり、食事を作ったり、ちゃんと自分の役割を果たされてるのに、わたしだけ何にも上手く、出来なくて……」
別に何もしなくていいよ。そう言ったら、冷たいと受け取られるだろうか。まるで、ここには自分の居場所なんてないように思えるかもしれない。この子は何か役に立ちたいって、そういう気持ちで居るのに。
「別に、何もしなくていいよ」
隣の椅子に座るタヌキの顔が、心なしか濡れた目で俺を見上げている。
「ゆっくり、自分の出来ることを見つけていけばね。別に、捨てたりなんかしない」
俺はそっと、ツチの頭に手を伸ばす。ふわふわとした毛皮がそこにある。
「でも……私は……何も出来ない……何も出来ることを見つけられない……」
「まぁタヌキだし。俺も何か出来るとは思ってないけど」
「……」
「でも、ほら。言葉が喋れるから、意思疎通は出来るでしょ? それから……そう。なんでも食べるから、餌に困ったりしない」
「……そんなこと」
「人の暮らしに混ざりたいの? いつかは人間みたいに、人の町に混ざって歩きたいの?」
俺がそう聞くと、タヌキは下を向く。
「……分かりません」
「そう」
「でも……私の憧れる……賑やかで、温かい所には、人間たちが居て。でも、人間で居るには、人間の中の当たり前を、当たり前にこなさないといけないんです」
「タヌキに人間はむずかしいね」
「……」
「でも、なりたい像がはっきりしてるのなら、いつか君もなれるよ。少しずつ、人間の暮らしや技術を、君の中に取り入れていけばいい。君の思い通りに」
「……でも、私は何も、出来なくて」
「最初は……」
最初は誰だってそう。それだけ言って、その言葉だけで納得するだろうか。まだ一つも何も出来ていないこの子が。言葉を途中で止めた俺に、タヌキは不安そうに俺の顔を見上げた。きっと、今必要なのは言葉だけじゃない、何か言うだけじゃ無責任だ。
そうだな。拾って来てそのまま、だなんて、俺の方がきっと無責任だった。俺がこの子に、人間のやり方を教えなくちゃいけないんだ。ヒメトラが最初からあれだったから、ちょっと気が緩んでいた。俺も改めよう、今日から。
「じゃあ、最初に、何が出来るようになりたい? 出来るようになるまで、俺が一緒に見てあげる。最初は何がいい?」
タヌキは、おずおずと目の前の、机の上のそれらに目を戻す。
「食器を、洗うこと?」
「……はい」
「大丈夫、簡単だよ」
「……簡単じゃないです」
「大丈夫。少し手間が増えるかもしれないけど、簡単に出来るやり方もあるよ」
俺は“水”の魔石と、燃料用の魔石を脇に用意する。
「ツチは、魔法は使える?」
「……水を出すだけなら」
「じゃあ、まずは、籠の中に水を溜める」
俺は少し離れ、荷車の中から綺麗な綿を取ってくる。
「この綿を使って」
「これを、ですか?」
「そう。綿を使って、石鹸を泡立てて、泡まみれにする」
ツチは脇の石鹸を、小さな手で掴み、ごしごしと綿に擦り付けている。
「先に水に濡らしておくと泡立てやすいね。で、泡塗れになった綿で、今度はお皿とかコップの汚れを拭っていく。高さは足りる? 椅子の上に立とうか」
俺はタヌキの体を持ち上げ、椅子の上にタヌキを立たせた。ツチの目の前に大きな籠がある。
「お皿は持てる?」
「……持てます」
「右手でお皿を持って、左手で綿を、そう。で、お皿全体を拭いて、汚れが残ってたら、そこを重点的に」
まぁ今は洗い終わった後のお皿だが、ツチは言われた通りお皿の全体を綿で拭っていく。まだまだ手元は覚束ない、おままごとでもしているみたいだ。
「洗い終わったら、水の中にお皿を戻す」
ぽちゃんと、ツチの手放したお皿が水の中に落ちていく。
「これを、全部の食器分やる。これが洗浄の段階だね」
「……大変ですね」
「君はまだ、人間が下手だからね。人間歴の長い俺たちと比べると、どうしても手間が掛かるし、時間も掛かる。俺たちみたいにぱっとは出来ないよ。まだね」
「……」
「うらやましい?」
「……はい」
「君もきっとなれるよ。ゆっくりなっていこう、人間に」
俺が見ている中で、ツチは一枚ずつお皿を洗っていった。最初は手元もおぼつかなかったが、徐々にスムーズになっていく。籠に溜まった水の排出は、ツチが籠を持ち上げられなかったため、底部に栓を付けて下から排出できるようにした。再び栓をして、水を貯め、すすいで水を出してを繰り返していく。
「お皿の乾燥だけど、魔法を使ってお皿を傷つけず乾くように、の火加減は難しいから、乾かすなら天日干しでいいよ」
「てんぴぼし?」
「明るい日の下に放置して乾かすってこと。まぁ近くに誰か居たら乾燥はほかの人に任せてもいいかもね。雨の日とか、乾きにくい日もあるし」
俺たちは籠の中の水を抜き終わり、そこに濡れた籠と入った食器が残る。
「いったん、これで終わりかな。あと、綺麗になった食器を触る時とかは、ちゃんと手を洗ってから触るようにね。食器を洗う前も、あと食事の前とかも」
タヌキは大人しく話を聞いている。
「食器を片付ける時は、移動しない時はこのままでもいいけど、移動する時はあっちの木製の籠に一つずつ入れて片付ける。全部入れ終わったら、ずれないように隙間をあの布で埋める。今やってみる?」
タヌキはこくんと頷く。
「じゃあ、今からちょっと乾かすから待っててね」
籠の中の食器を再び乾かした後、タヌキは一枚ずつお皿を抱え、荷車の木製の籠の中へと入れていった。すべての食器を入れ終わり、隙間を布で詰めて動かないようにしたら終わり。
「よし。これで一つ出来たね」
ふぅと、俺は一息吐いた。椅子に座ると、ツチはそこに立ったままでいる。
「どうしたの? 座っていいよ。疲れたでしょ。一回お菓子でも食べようか」
タヌキはそこに立ったまま、やがて口を開く。
「……すみません、こんなお手間を、掛けさせてしまって」
「ま、拾ってきた責任は俺にあるからね。ちゃんと俺が面倒見ないと。俺もモンスターのとかあるから、余裕がない時もあるんだけど。でも、これからは、いろいろ一個ずつ一緒にやって行こうか」
タヌキは、ぼーっとそこに突っ立っていた。
「どうした?」
「先生は……先生、なんですね」
「そうだよ。先生だよ。ツチも、分からないことがあったら、なんでも先生に聞いていいからね。先生が、出来るようになるまで見てあげるから」
俺がそう言って笑いかけると、おそらくは、タヌキは安心したように表情を緩めた。




