プロローグ3、一人前の餞(はなむけ)
「旅に出ることにします」
そこは先生一人の職員室。部屋の左右には棚が並び、雑多なバインダーや書物がそれぞれ詰められている。部屋の手前には応接用のガラスのテーブルと柔らかいソファ、それから、部屋の奥には先生が執務しているデスクがある。部屋の中は薄暗く、奥の白い窓の向こうから外の光が照らしているのみだ。
かたんと、奥で、先生が持っていた筆を置いた。
「それは……私のもとを、離れるという意味ですか?」
奥で、先生は、静かな声で問いかけてくる。
「今の俺では、先生の野望を叶えてあげるには、力不足です」
「それは私も承知している所ですよ」
「なので、もっと世界を見て回ろうかと。世界には、もっと俺の知らないものがたくさん落ちているはずです。俺はもっと強くなりたいです」
「それは、私の下では得られないものなのですか?」
「どうでしょうね」
はぁ、と、先生は溜め息を吐いた。先生はガチャと、席を立ってこちらへと歩いてくる。ゆっくりと、先生の歩みに合わせてその白い衣の裾が揺れている。先生は、入り口近くに立つ俺の前まで来て、俺の顔を見下ろした。
「あなたはついぞ、“自分を勇者の学校に戻してください”とは、頼みに来ませんでしたね」
「戻れるんですか?」
「どうでしょうね。けれど、あなたはそれをしなかった。あなたは多少私に頼みごとをしましたが、その中にそれは無かった。思うに、あなたの中にはもう、勇者に戻るという選択肢はないのでしょうね」
「どうなんですかね。ただで入れるわけでもないですし」
「この際、噓や誤魔化しはやめましょう。私はあなたに聞きますよ。あなたは、私の下に付いて、私の指示に従うことが嫌になったのですか?」
答えるべきは“はい”、“いいえ”。
「いいえ」
「なら、どうして出ていくのですか?」
どうして、か。ふむ。
「先生の言う、“武器の神性”が敵だ、それを倒すために強くなれと言われても、俺にはよく分かりませんでした」
「そして、意味も分からず私の言葉に従い続けるほど、あなたには考える頭がないわけではなかった」
別に、先生の言うことに従って動くのは嫌じゃなかったのだ、ただ。
「しかし、その真実に到達するには、たくさんの人間と戦って、勝っていかなければならないようです。その頂点に立つ“七星”の所まで、俺自身で行けるとは思えません」
「勇者と魔王軍の対立の間、対人間同士の諍いのごちゃごちゃに真っ向から頭を突っ込んでいけるほど、あなたは勇気ある人間ではありませんでしたね」
対人……対人。人間同士の諍いに頭を突っ込むのは、どうにも向いていない。特に、未熟な俺のままでは。
「問題があることは認識しましたよ。けれど、俺は俺でその対策の手段を用意して、どうにか出来そうだったらそれに向かいましょう」
「あなたには、次々と手に入れていくその“神性”が、手に馴染みませんでしたか」
“神性”を得れば、自分が強くなった気がした。出来ることが増えて、世界が広がって。けれど……やっぱり、身に余る力だった。それは、今の俺には危険な方へとどんどん俺を連れて行く。
「あなたの下を離れる強い理由がある訳じゃないですよ。ただ、あなたの下に残る強い理由が無かっただけです」
「確かに、あなたは私の下を離れてもなお、あなたは自由に世界を歩いていけるでしょうね」
神様の、柔らかくて大きい手が、俺の顔へと伸ばされた。
「ままなりませんね。人を動かすというのは。どうして子供たちは、私の下を離れていくんでしょうかね」
窓の向こうで木々が揺れている。わずかに葉の擦れる音が漏れて聞こえてくる。
「引き留めないんですか?」
先生は、俺のその問いには答えなかった。ただ沈黙が返る。
「向いてないんじゃないですか? 先生が、世界の危機を払う勇者を導く女神だなんて」
「……そうですか。では、私は、何になら向いていると?」
「幼い子供たちの、お守り? 先生の授業は楽しかったですよ。居心地も良かったです」
「あなたがその幼さを保っている間は、ですか?」
先生の手が、俺の頭へ優しく触れる。そっと、その手は俺の頭を撫で下ろしている。
「正直者のあなたは、わたしに色々なことを教えてくれますね」
「先生ほどじゃないですよ」
「わたしは隠してばかりです。大事なことも、何もかも……」
先生の手が俺の頭を離れた。俺から離れ、先生は脇に歩いて行って、戸棚の一つに背中を預け、寄り掛かる。
「考えすぎなのはきっと、私の方なのでしょうね。暇があれば備えを考え、崩す必要のないところまで、突いてしまう。“武器の神性”は、もしかしたらいい神様なのかもしれません。本当は、探して叩く必要なんて、ないのかも……」
「そう考えるのを、間違っているとは思いませんよ。ただ、今の俺たちには、どうする力も無かっただけで」
「私は……私は、凡人側だったのでしょうか」
「先生はきっと、小さいものの味方です。その手で救えるものは、きっと多くない。俺がそこに増えてもです」
「出来もしないことを考えるなと?」
「そうは思いませんよ。……ただ」
「……そうか。私が、あなたをそこまで導いてあげるだけの力がないんですね。私はその景色を知らないし、慣れてもいない。だから、あなたは私の下を離れていく……私が、あなたにしてあげられることがないから……」
先生の、穏やかな息の音が聞こえる。先生の胸が、その呼吸に合わせてなだらかに上下している。
「……分かりました。いいでしょう」
「引き留めは、しないんですね」
「分かりませんか? 私には、あなたを押さえつけているだけの力がないんです」
「子供を撫でられる優しい手ですよね」
「そうですね。私の下に集まるのは、世を知らない無垢な子供たちばかりです。世界を知れば、先生が、仕える価値のない矮小な存在だと気付くのでしょう」
「適材適所ですよ。平和なところに、幼い子供たちが集まります」
「自分の足で歩けるようになれば、危険な場所にも歩いて行ってしまうのですね。あなたのように。そして、私は一緒には付いて行ってあげられない」
「適材適所ですよ」
先生は戸棚に背を預けながら、もう一度、俺の方を、あるいは名残惜しそうに見つめた。
「一つ聞いていいですか?」
「答えましょう」
「どうして、先生は“武器の神性”を倒してしまおうと思ったんですか? 本当に心から、世界の平和を願って、ですか?」
先生はぼーっと、熱に浮かされたかのように俺の顔を見ている。
「先生は、神様ですよ」
「そうですね」
「有名になれば……もっと信仰を集めれば、私はもっと大きな神になれるんです」
「大きくなって、どうするんですか? 武器の女神みたいに、各地に教会を作ってたくさんの人から崇められたい?」
先生の目は、俺からわずかに逸れた。
「……そんなことは、思っていません。私にはきっと、山奥の小さな祠で、大事に祀られているくらいが丁度いいです」
「でも、大きな神になりたいんですよね」
「消えたくないだけです」
先生は、ぽつりと小さく呟いた。
「人が去って、誰からも忘れ去られて……弱ければ、小さな風に吹かれただけで、私という存在は、かき消されて消えてしまう。そうなりたくないから、私は、強く、強靭な存在に……」
先生の言葉は、徐々に小さく、か細いものになっていく。
「俺は忘れませんよ」
「……」
「弱っていた俺を拾って、弱い俺に先生はものを教え育ててくれた。俺が今も歩いているのは、先生が俺を連れて歩いてくれたから。俺はそのことを忘れたりしませんよ」
先生はぼーっと俺の顔を眺めていたが、やがて、ふっとその表情が緩んだ。と、先生は胸元に手を突っ込んで、その中をごそごそとあさる。出てきた手には、紐に括りつけられた、古びた鍵が握られている。
「これはもう、あなたに返しましょう。私にはどうも荷が重かったようです。私には、その辺の子供たちと戯れている程度の神が、お似合いのようですね」
「なんですか? そのカギ」
俺は先生からそれを受け取る。肌に直接身に着けていたのか、小さな鍵には、先生の体温が残り、少し湿っている。
「“幻想の鍵”。それはあなたから預かっていたものです。使い方はいかようにも。管理者の権限も、あなたに返しましょう」
「使い方? どうやって使うんですか? これ。何の鍵ですか?」
俺のその質問に、先生は小首を傾げる。
「……? そうでしたね、今のあなたは記憶を……あれ、あなたの記憶は、どうやって戻すんでしたっけ?」
「先生?」
「先生」
「なんですか? もう行っていいですよ」
「変なものを拾ったら、先生の所に持って帰って来ますね」
先生は、くすりとその表情を緩ませる。
「……あまり厄介なものは、拾ってこないでくださいね」




