ステップ19
ずんっと音を伴うような重い振動が場に広がった。
『風裁水縛』
その振動はその女性が中心だった。
桜色の髪を緩く風にたなびかせ、彼女は空中に立っていた。
その姿は幻想的で現実味がなかった。
そこにいた魔物を痕跡なく滅した女性はゆっくりと降りてきて、……結界にぶち当たっておちた。
今の、なに?
「ミスロゼルカ!!」
ミスビアンカが慌てて結界を解き、落下してきた女性の元へと金の髪をなびかせながら駆けて行った。知っている相手なんだ。
「ミスビーねえ様、痛いですぅ。アレは敵ですかぁ?」
打ったらしい顔面を片手で抑えつつ、もう片手でサカナを指し示す。きれいな髪が濡れ汚れた石畳に広がっている。
「さかな?」
「ハイ。この辺りでは見かけないお魚です。食用にはむかなさげですぅ」
残念そうな口調で呟きつつ、顔を抑えていた手をはなす。
さらりとゆれる髪はもつれなく、薄く透き通る桜色。薄汚れた雫が周囲に散って、髪の輝きは変わらない。深い色のまつげに縁取られた明るい若葉色の瞳は無垢な色。幸いにして傷は見えない。打たずに済んだのかな?
「ミスロゼルカ、これで殲滅できました? ミスビーねえ様。やっぱりあの黒いのもやっちゃわないとダメですか?」
ふとミスロゼルカは動きを止める。
「お、ミスビアンカねえ様。手が腐食してますぅ!! どうしましょうぅ? 創師様、修復してくださるでしょうか?」
わたわたと振り回される手。そこに見えたのは触手の粘液と思わしき汚れで、たぶん、すぐ拭えるもの。
「落ち着きなさい。ミスロゼルカ。洗浄すればいいんです」
「……せんじょう。真水浄水の流水二十秒以上ですねぇ。ミスロゼルカ、そんなに重症ですかぁ?」
とりあえず、拭ってみればいいよね?
「はい。汚れ取れたよ?」
ハンカチで汚れは簡単に拭えた。
若葉色の瞳が僕を映す。
あ、勝手に触っちゃって気持ち悪いとか思われた?
「ミスロゼルカ、こんなに優しくしていただいたの初めてですぅ」
ふわりふわりと桜色の髪が揺れる。
よかった。いやだって思われたんじゃなかったんだ。
「待ちなさい。ミスロゼルカ、ローゼ!」
呼びかけられてミスロゼルカはミスビアンカを見下ろす。
つややかな金髪を揺らし、姉は妹を見上げる。
「はい。ミスビーねえ様。ローゼって呼び名素敵ですね。愛称にしてもよいですかぁ?」
「いいわよ。ローゼ。って、それはおいておいて、あの黒いさかなは敵じゃないわ」
「はい。わかりましたわぁ」
ミスビアンカに答え、ミスロゼルカはなぜか僕を見てにっこりしてくれる。
「ミスビーねえ様、ローゼ、運命に出会ったと思うんですぅ」
え。
何で僕を見てそんなこと言ってるの?
運命って何?
「それは運命じゃなくて、刷り込みって言うのよ。世間知らず」
気がつくと見知らぬベッドだった。
クラクラする。
視界は柔らかな若草色。
「ここ、どこ?」
「あー。起きたー?」
のんびりと隣からかけられた声にそっちを向くと横にもベッドがあって、そこにいたよろず屋が体を起こして寛いでいた。背に枕をいくつか詰めて楽な体勢っぽい。
「よろず屋の部屋?」
「いや。そうだけど、違うかな?」
肯定と否定が混じってよくわからない。
「ここは目的地の客室。ゆきちゃんは戦闘終了後意識を失ったらしいよ?」
せんとう?
「ローゼが心配していたかな」
ローゼ?
「あの、えっと、それ、誰ですか?」
パスっと自らの膝に頭を落とすよろず屋。
肩を小さく揺らす。何となく呆れられたことがわかる。僕はまた何かを忘れたんだろうか?
「まぁ、イイよ。ゆきちゃんらしいし」
震える声で『らしい』と言われる。
「ゆきちゃんは疲れている?」
尋ねられて僕は首を傾げる。
「ああ、大丈夫そうだね。俺はもう少し寝るけど、お腹が空いてるんならベルを鳴らせば誰かが来てくれるから食事を頼むといいよ。じゃあ、おやすみ」
起こしていた体を潜らせ、寝入ったらしいよろず屋。
少し不思議な気がする。よろず屋はいつも何があっても活動をやめないという印象が強いから。
「起きたのでしたらこちらへ。お父様の休息を邪魔することは認可できません」
声は低い位置から発せられた。
茶髪の十歳くらいの少女だった。
シンプルなエプロンドレスに三角巾。若草色の瞳。どこかで見たようなはじめてのような不思議な感覚。
戸惑っていると棘の含まれた声とまなざしを向けられる。
「お父様は今回のことでお疲れなのです。他の部屋の準備もできましたし、さぁ、さぁさぁ」
ベッドから起こされ追い立てられるように部屋から出される。
よろず屋を父と呼ぶ少女は僕を別室へと追い立てる。
廊下は明るいブラウンで天井からは明かりが降り注ぐ。
見上げれば水晶がはめ込まれていてそれが煌々と光っていた。
眩しさに床を見れば若草色の絨毯。
なんだか高級そうな場所だった。
案内された部屋では赤毛の女性、確かえっと司祭の人が、茶髪の少女と同じくらいの金髪の少女と激しめの口論をしていた。
少し人が多くて、動悸が激しくなる。
コワい。
ふと小さな少女が目に留まる。
黒紫の髪で簡素な服を着た少女。
胸の奥がほっこりとなる。
「アディ」
僕の声に気がついたアディがぱぁっと明るく笑って駆けてくる。
「大きくなったね」
抱きしめて僕はそう思ったことを口にした。
「アディ」
「ゆーき」
あの日、別れた時より、少し背が伸びて感じる少女を撫でる。
知らない人たちばかりの場所で、不安だということもあり、懐かしい存在に安心する。
「ユーキ、起きたのね!」
赤毛の司祭がキッと睨んでくる。
ついこわくてアディを強く抱きしめてしまう。
知っているはずの彼女の名前が出てこない。
何か言おうにも言葉が出ない。
体が竦んで震えが止まらない。
どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして?
どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして?
どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして?
ぐるぐると同じ言葉が巡る。
何もできない。
僕は思考が空回るのを止めることができない。
「ゆーき」
アディの声に視線を下げる。意識を呼んでくれたアディに向けなくちゃ。
「だいすき」
アディの言葉に僕は微かに落ち着いていく自分を感じる。
「大好きだよ。アディ」
かわいい、小さなアディ。
ゆっくりと意識をそこだけに向けることで心が落ち着いていくのを感じる。
「知らない人がたくさんいる場所ってこわいよね」
視界の端にひっそりといたほっそりした男がひらりと手を振った。
意識が散る。
知らない人。知らない人。心臓が少し鼓動を速める。
軋んだような不思議な声。たぶん、知らない声。
「ぼくもコワいよ。この状況が、ネ」
きろりと動く緑の目。ぱさりと艶のない髪と肌。
骨ばった細い指が動く。視線はその指先に集中する。この人は、何?
「ハジメマシテ。ぼくはラーク・ライト。この湖水の里の創師長」
軋む声が空虚さを周囲に振りまく。どこかぎこちなく聞こえるのは僕が翻訳可能な言語以外の言葉が主用言語だということなんだと思う。
「ここは安全。しばしの休息を取るといい。対価は導師長が支払い済みだ」
「リゼロァ?」
「エリコ・タフサ・ロァ。血の希望」
そう言ってにたりと笑う。
「だから。ゆるりと過すといい」
おそらく当人は爽やかに笑っているつもりなんだと思うんだけど、腕の中でアディが怯える。
だから僕はアディを撫で宥める。ヒトとの交流が苦手な仲間の匂いがする。
「だれ。それ?」
なんだろう?
沈黙が痛い?
「君らはヨロズヤと呼んでいると思うよ?」
ラークさんが教えてくれる。
ああ。ラークさんは親切な人みたいだ。
「ありがとうございます」
だって、わざわざ教えてくれた。僕にとっていい人だ。
「どーイタシマシテー」
ぎこちない空気の中での食事。
その後、ラークさんが使える寝室としてあてがってくれたのは四人部屋がふたつ。女性部屋と男性部屋に別れた。
のぞみちゃんに泣かれ、円君に呆れられ、ミルドレッドにため息を吐かれてもミスブランカ、ミスブランカ、ミスロゼルカ三姉妹の給仕してくれた夕食はとてもおいしかったのだけど。
サカナと名乗った派手な男がのんびりとあくびをする。
そして、ハッと気がついたように顔を輝かせ、僕の手を取った。
「ユーキ。お揃いだ!」
そう言って掌を合わせる。
サカナの手の方が大きく、指もほっそりと長い。それでも確かに同じ五本の指。
その事実に嬉しそうに笑う華やかな姿に緊張がほどける。
しゃらりと揺れる白珊瑚の飾りにひらめくオレンジの衣装。
オレンジの上に赤のグラデの花が咲く。
あの巨体を思い起こすことができない線の細さ。
そして幼い物言いがあくまでもサカナの魅力を損なわない。
「ユーキ。大好きだ!」
向けられる純粋な感情に僕は笑みを返す。
そのむこうでよろず屋から一緒に来たと言う円君がため息をついた。




