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 丸薬を小瓶から取り出し、匂いを嗅いで四粒を同時に口へと放り込み、ビール瓶を拾い上げて一息に飲み下した。先ほどよりも血の味を強く感じる。女将の言うように食前に飲んだ二粒では効き目がなかったのだろうか。


「温泉にはいられてだの、お知り合いのかだでしだぁ?」


 まるで脈絡のない会話へ切り替わったことに戸惑いながらも、私が「いえ、違いました」と簡潔に答えると、女将は「そうですかぁ」と興味なさげな返事をした。


「お知り合いのかだ、いかがなすったんですか?」


 刹那、さっきの嘘が見破られたのかと思って狼狽したものの、たまたま中村とメールのやり取りをしていたために私がそう勘違いしただけで、女将はただ単純に話の流れで訊いたのだと気がついて安堵した。


「いえ、どうもしませんよ。僕の思い違いだったみたいで」


「どう、思い違いなすってたんですか?」


「どうって、なか、知り合いがここへ来てると思ったんですけど、違う山だったみたいで」


「ああ、山違いですかぁ」


 納得したのか、女将はそれ以上は何も訊いてはこず、掛け布団を広げると「じきに按摩が来ますがらぁ」と言って立ち上がり、「わだぐしは、これで」と出ていこうとするのを「あの、女将さん」と呼び止めた。


 女将が「はあ、なんでございましょう?」と言って立ち止まった背中へ、「さっき聞きそびれてしまったんですけど」と前置きをした私は、「どうして電気を点けちゃいけないんですか?」と気になっていた疑問をぶつけてみた。


「え? ああ、寄ってぎますがらねぇ」


「あっ、害虫とか危険な動物が、ですか?」


 こちらに背中を向けたままで女将はうふふと笑いを漏らし、「いーえー」と否定してから「いろんなバゲモンがねぇ、寄っできぢまうんですよぉ」と言い、「んだがら、くれぐれも電気は点げねぇよう、お願いいだしますぅ」という言葉を残して明かりの中から出ていってしまった。


「は? 今、バゲモンって言いませんでした? 女将さん、あの、今バゲモン」


 返事がないことに慌てた私はもう一度「女将さん?」と呼び掛けてみたものの言葉に迷い、何を思ったのか「あの、あと、代わりの提灯を」と付け足すと、「しだら、按摩に持だせますぅ。おやすみなさいませぇ」という女将の声がし、続けて部屋のドアが閉まる音を聴いて立っていても仕方がないとようやく布団に腰を下ろした。


 今、女将はバゲモンの話題をあからさまに避けていたように思う。あとの問い掛けには答えていたので聴こえていなかったわけではない。


 本日バゲモンという単語を耳にしたのはこれで三度目である。真々白真々白(まましろ)氏だけではなく、一二三ひふみ氏も口にしていたように思う。たしか、バゲモンは何かの比喩、いや、カモフラージュなのではないかと真々白氏は言っていた。一体何の話なのだ。口にできない禁忌きんきでもあるのだろうか。情報が断片的すぎる。


 話が聞けないのではいくら考えても答えは出まい。それに疲れているせいなのか、まだあまり飲んでいないにも関わらず、もうずいぶんと頭がぼんやりしてきたのを感じる。考えようとすると集中が切れ、まとまりかけていた思考が霧散する。


 仰向けに倒れようとして中村への返信メールを作成している途中なのを思い出してしまい、ビールを畳に置いてスマホへと腕を伸ばした私は、画面を見るなり二件のメッセージが届いていることに気がついた。


 突然、()()()で窓を叩くような音が聴こえ、私は反射的に肩をすくめて顔を上げ、左側に見える閉じられた障子へと頭を振った。明かりに寄ってきた虫が窓に当たっているのだろう。


 スマホの画面へと視線を戻すと、メッセージの新しいほうには『声がでない』、古いほうには『せまいとこ』とあった。私は中村の酩酊状態を疑う前に、誰かに助けを求めている状況で、このような抽象的な内容でしか説明してこない理由を考えてみた。


 何か制限をかけられているか、もしくは自分の置かれている状況がわからなくて説明できないか、あるいはその両方であると仮定してみる。メールが打てるなら最悪でも中村の上半身の麻痺は解けているということだろう。それでは、どうして奴は私に助けを求めるような状況におちいったのだ。


 耳が聴こえないではなく、『声がでない』とはどういう意味なのか。少なくとも、鼓膜が破壊されたあとも中村は喋っていた。もしかすると『声がだせない』の誤りかもしれない。


 仮に『声がだせない』だとして、『せまいとこ』というメッセージから推測すると、身動きの取れない場所に落ちただかはまってしまっただかで、ヤバイ体勢で身体が圧迫されていて声が出せないから助けに来てください、といった意味だろうか。


 では、十分ほど前に届いていた『何かいる』とはなんのことだ。


 相手が人であれば何かという表現は使うまい。種類までは特定できないが、何らかの危険な野生動物が近くにいる気配を感じる、といった辺りが妥当なところか。やはりこれは警察に任せるべき案件である。あの猟銃を持った巡査に打ってつけの仕事ではないか。


 私は途中まで作ったメールの文章を破棄し、『通報されたほうがいいですよ』と打って冷たいように思え、『危険な動物が近くにいては、僕では助けられませんから』ともう一文を足して送信した。


 スマホを布団の上に放ってビール瓶を掴み、どちらにせよ私の力では中村の巨体をどうこうすることは物理的に不可能である。奴を仰向あおむけにするのでさえ大変だったのだ。どこからか引っ張り上げたり引き摺り出したりなどの力業ちからわざは、私の身体機能と引き換えても無理に違いない。


 私はビールをあおって炭酸の喉越しに唸り声を上げ、次いで部屋に充満してしまっている汗臭い匂いに顔をしかめた。女将が布団を敷いているあいだにドアが開け放たれていたせいでこうなったのは明らかである。


 換気をしようと立ち上がって障子を開けた私は、先ほどの音の原因が窓に体当たりを繰り返す、手のひらほどもある大きな蛾であることに気がついた。滑ってガラス面に止まれないというよりも、自重のせいで一ヶ所に留まっていられないようで盛んにはねを動かしている。


 幼少のころ、実家の塀にもよくこのような巨大な蛾が止まっていたのを覚えている。動いているのを見たことがなかったため、ともすると飛べないタイプなのかとも思っていたのだが違った。


 網戸もないし、窓を開けたらこいつが入ってくるなと思いつつ窓枠に触れた私は、それがはめ殺しとなっていることに気がついて手を止めた。高層ビルの上層階などならともかく、客室の窓を開閉できないようにする意味がわからない。防犯だとしてもやりすぎではないだろうか。

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