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按摩

 女将の声がするほうを向いていた私は、もしや表情まで読み取られているのではないかと不安になり、どんな顔をしていればいいのか急にわからなくなってしまい、少しでも良い印象を与えようと無理やり口角を吊り上げて目を見開いた。


「おビールならお持ぢいだしましだがらぁ、もう出歩であるがなぐっでもだいじょぶですよぉ」


「あ、ほんとですか。はは、それは助かりました」


「んで、お食事のほうはいかがでしだか? おくぢに合いましだぁ?」


 主菜もなければ全体的な味付けも薄くてまったく口に合わなかった、などと正直な感想を言うわけにもいくまい。


「ええ、まあ。でも、お昼を食べたのが遅かったせいか、あまり食欲がなくてですね。それで、申し訳ないんですけど、けっこう残してしまいまして」


「あらぁ、そうだったんですかぁ? べづに構いませんよぉ。しだら、お食事お下げしに参りますねぇ」


 そう女将の言う声が聴こえたかと思うと、続けて浴衣の右袖を引っ張られる感覚があり、私はその場で身体をバレエダンサーのように半回転させてよろめいた。


「ちょ、女将さん。そんな引っ張ったらあぶな」


「へ? 暗くて見えねぇがら一人ひどりで歩げねんでねぇですか?」


「それは、そうなんですけど。だからって」


 話している途中でまたもや袖を引っ張られ、バランスを崩して前のめりとなった私は、上手く踏ん張ることができずに女将の背中と思われる部分へ顔から思いきり突っ込んでしまった。


「ちょおっどぉ、おきゃぐさん。暗いがらっで、そういうこどしだら駄ぁ目ですよぉ」


「いや、そういうわけじゃなくて」


「こんな山んながだがら芸妓げいこはいねぇけんど、按摩あんまならいるんでお呼びいだしますか?」


 何かを期待するわけではないが、マッサージをしてもらうという考えは悪くない。半日は言いすぎだとしても何時間も山の中を歩きまわったのだ。温泉に浸かりはしたものの、本当の意味でゆっくりできなかったせいもあって、まだ身体の芯に疲れが残っているのを感じる。


 袖を引っ張られながらそろそろと歩きつつ、「そうですね。じゃあ、お願いできますか?」と私が答えると、女将は「かしごまりましだぁ」と言ってうふふと下卑げびた笑いを漏らした。よからぬことを邪推したに違いない。


「とごろでぇ、のどのお加減はいかがですか?」


「喉? ええと、少しいがらっぽい気はしますけど、この湿気のおかげで乾燥もしてないんで、まあ、問題はないです」


 どうして喉の調子など訊ねるのだろう。客にいたわりの言葉を掛けるなら身体の特定の部位に限ったことではなく、体調そのものを訊くのが普通ではないか。相手が歌手であればわからなくもないが、私は違うし女将にそんな説明をした覚えもない。


「おぐすりはお飲みになられましだぁ?」


 私はそこで女将が勘違いをしていることに気がついた。彼女が訊こうとしたのは喉ではなく、炎症を起こしていると思われる口内の調子のほうで、先ほどの痛み止めが効いているかどうかを確認したかったのだろう。


「ああ、痛み止めの丸薬だったら、ほら、さっきいただいたビールで飲んだじゃないですか」


「足りでらっしゃらないんでねぇですか? お声の調子がよろしぐないようですけんども」


 言われてみれば確かに声を出しにくいような気もする。


「そうですか? 疲れてるからかもしれませんね」


「んだら、もうすごし飲まれだほうがよろしんでねぇですか?」


 女将がどういうつもりで言ったのかは知らないが、疲れに痛み止めが効くとは思えない。


「でも、あの薬って口内の炎症用で喉には効かないんじゃ」


「漢方だがらなぁんにだって効ぎますよぉ。飲めば飲んだだげつがれもすぐに飛んでっちまいますわぁ」


 漢方といえども万能薬ではないのだから、過剰に摂取していいことなどあるものか。喉の違和感は別にしても唾を飲み込むとまだ血の味がする。とりあえず、もう数粒ほど丸薬を飲んでおいたほうがいいかもしれない。


「お部屋の前に着ぎましたよ。鍵はお持ぢですか?」


 ノブの位置どころかドアさえ見えない私は女将に鍵を渡して開けてもらい、彼女のあとに続いて冷房がしっかりと効いている部屋へと入った。廊下の蒸し暑さと比べるとまるで冷蔵庫の中かのように冷えている。


「あの、女将さん。さっき、というか、食事を運んでいただいたあと、この部屋に入りました?」


「え? ええ、お食事のほうはいかがかど思いましでねぇ。んだけんども、いらっしゃらながったんでぇ、まぁだあどでくっぺど思っでぇ」


 では女将は私がいないとわかっていながらも鍵を開けて部屋に入ったことになる。寝ているとでも思ったのかもしれないが、そんなちょっとした理由で入られたのでは鍵を掛ける意味がない。


 スリッパを履いたままで戸口付近に突っ立っていると、マッチを擦る音がして部屋にほのかな明かりがともり、畳へ膝をついている女将の後ろ姿が影となって浮かび上がった。


「あっ! あんとぎですか? かわやさ行っでだの?」


 私は部屋の中央へと進みながら「ええ」と答え、「それで、その、ご主人って戻って来られました?」と女将の背中へ訊ねてみた。


「いーえー、まぁだ戻っで来でないですねぇ」


 女将は振り向きもせずにそう答え、早くもテーブル上に並んだ食器を片付けはじめている。なぜ噓を吐くのだろう。それとも、今しがた調理場の奥の部屋で話していた相手は赤鬼ではなかったということか。


「そうですか。どちらに行かれたかご存知ですか?」


「まあ、おそらぐ、おまづりの準備に手間取ってんでないですかねぇ」


 確証はないがあの口調と声音こわねは赤鬼のものとしか思えない。たとえ作業を見られてはいけない決まりなのだとしても、赤鬼がいることを隠す理由とは何だ。


さぎに食器、洗い場さ持っでっちまうんでぇ、お布団は戻っで来でがらお敷きいだしますねぇ」


 長手盆を持った女将が立ち上がり、私の隣を通りすぎざま「お客さん、山さ入っでがら、なんが飲まれましだ?」と唐突な質問をしてきた。

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