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灰色の街のヴィルトゥオーゾ

十三番目のヴィルトゥオーザ

作者: 宮澤花

 その日も彼は、現れた『天使』たちを殲滅した。空中のフィールドからぼたぼたと死骸が地に落ちて、ある者は水路の鯉のエサになり、ある者は清掃機械に回収されていく。

 見慣れて見慣れた、いつもの光景。そこに彼の意志が介在することはない。彼は『天使』を狩るためにここにいて、『天使』を斃すためだけに存在する。それだけのモノである。


 変わることのない灰色の世界の中に、その日は異物が存在した。

 無様に墜ちた『天使』たちの残骸の中に、空色のワンピースの少女が立っている。


 彼は目を細めてまばたきした。知らない人影。

 今、十二の席はすべて埋まっている。新しいヴィルトゥオーゾが現れるはずはない。

 ヴィルトゥオーゾは十二名まで。それが世界の決まりごとだ。

 稀に天使との戦いに敗れて姿を消すものがいる。それで数が減ることはあっても、十二を超えて増えることは決してない。


 だが……だったら彼女は、誰なのだ。


「あ……こんにちは。オットーヴォさん、ですか?」

 少しためらいながら、彼女は彼に声をかけてくる。

「あのう、私、教授から頼まれて……」


「では君がガッティーナか」

 彼は驚く。

 その存在は、『教授』や他のヴィルトゥオーゾたちから聞かされていた。だがどこかで信じていなかった。ふわふわした作り話が大好きな二番か、自分の作った物語の中だけで生きている十一番あたりの与太話だと思っていた。


「まあ、そうなんですけど」

 少女はきまり悪そうに言う。

「セコンダさんにそのニックネームをつけられてから、みんな面白がってそれで呼ぶんですけど。名前はあるんで、できればそっちで呼んでもらいたいなあって思うんですよねえ」


 それから彼女は自分の名前を名乗った。


 ああ……いつ以来だろうか。オッターヴォは足元が揺らぐような気分を味わう。

 教授でもない、『ヴィルトゥオージ(どうるい)』でもない。もちろん『天使』たちとも違う。

 番号で、役割で呼ばれ、ただの記号として、システムとして存在するのではない、『名前』を持った『人間』に出会うのは。


 そもそも、この街にそんな存在がいたのだろうか。

 いったいいつから、彼はそれを見失っていた。この灰色の街で、『天使』と『ヴィルトゥオーゾ』の永遠の闘争をいつから見続けていた。

 水路の鯉と清掃機械しか存在しない街で、何を守っているつもりでいた。


 世界が揺らぐ。自分が揺らぐ。

 空色のワンピースを着たほっそりとした姿が、今まで見ていたすべてを揺るがしていく。


「オッターヴォ、さん?」

 黙り込んだ彼に、不安そうに少女が問う。

「どうかしましたか? あの、教授から聞いてませんでした?」


「いや、そうじゃない」

 彼はあわてて言った。何に対してあわてているのか自分でもわからないままに。

「教授からは聞いていた。君に会うかもしれないと。出会ったら、相手をしてやってほしいと言っていた」


「皆さんそう言うんですよねえ」

 彼女はため息をついた。

「なんなんだろう、その子ども扱い。そりゃ、この街に来たばかりの田舎者ですけど、私ってそんなに頼りなく見えますかねえ。セコンダさんなんて、同い年くらいに見えるんですけど明らかに妹扱いされてるし……」


「あれは……見た目通りの年齢だと思わないほうがいい」

 妖精じみた外見の二番は、ヴィルトゥオージの中でも古参である。年齢がいくつなのかは、オッターヴォも知らない。わかっているのは、油断ならない女だということだけである。


「そうなんですか? 普通の女の子に見えるけどなあ」

「君はだまされている」

「誰に? セコンダさんにですか」

「あれは我々の中でも屈指の怪物だ」

 だからこそ、二番という高い位階を保ち続けているのだ。


 少女は軽やかに笑った。

「皆さん、他の人は全部怪物だって言うんですよー。オッターヴォさんも同じですね」


 それはただの事実だ。そう言いかけて、オッターヴォは言葉を飲み込む。

 何と言えば、どう説明すれば、理解してもらえるのだろう。天使でも、教授でも、ヴィルトゥオージ(どうるい)でもない存在に。

 存在することを忘れ果てていた、『普通の人間』という異常種に。


 水路で鯉が高く跳ねる。オレンジと白の鮮やかな模様が網膜に残った。


「この街っていいですよね。どこに行っても水があって、鯉がいっぱい泳いでいて。とってもきれい」

 少女はそう言って、ワンピースの裾をひるがえして水路に向かう。

「私、水が流れている景色って好きなんです」


 その背中にオッターヴォは手を伸ばそうとする。そちらに行ってはいけない。行ってほしくない。

 そこには屍体が、無数の天使の骸が沈んでいる。

 けれど彼の指は彼女に届かない。空色の背中は翼でもついているように軽やかに、彼の手を逃れていく。


「ほら、たくさんいますよ。金色のや、黒いのもいる。あ、真っ白なのも真っ赤なのも」

 水路のそばにしゃがみこんで、子供のように声を上げる後ろ姿をただ遠くから眺める。

 もう、屍体は鯉が全て食べてしまったのだろうか。それとも彼女の世界には、『天使』の死骸など存在しないのだろうか。

 

 自分の見ている世界と、彼女の見ている世界。

 それはどれほど隔たって、どれほど違っているのだろう。

 この灰色の空さえ、彼女にはワンピースと同じような明るい空色に見えているのではないか。

 そう思うとひどく不安になる。自分の存在がナノ単位まで分解されて、そのまま崩れて消えていきそうな気持ちになる。


 そんな気持ちは、いつ以来だろう。

 遠い昔、『ヴィルトゥオーゾ』になるずっと前。いつかどこか、忘れてしまった記憶の彼方で感じていたようなおぼつかなさが彼を包んでいる。


「……ガッティーナ」

 すがるように呼んだ。彼女が振り向いてくれなければ、自分はこのまま灰色の街に飲み込まれ、その一部になってしまうのではないかという恐怖に駆られている。

 天使を狩るだけの装置になってから、感じたことのなかった恐怖に苛まれている。


 少女は振り返って、ちょっとすねたように頬をふくらませた。

「もう。オッターヴォさんもそう呼ぶんですね。名前、ちゃんとあるのになあ」


 違う違う、そうではない、そうではないのだ。

 名前も記憶も失って、ただのシステムとして存在する彼らには、その名を口にすることが恐ろしいのだ。それを口にしてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。何かが蘇ってしまいそうで。


「あ……忘れてた。これ、渡さなくちゃいけないんだった」

 彼女は軽く手を打ち合わせ、肩にかけたトートバックの中から封筒を取り出す。表には見慣れた『教授』の筆跡。無味乾燥なその封筒になぜかホッとする。

 これを受け取れば、彼女の用事は終わる。そうすれば別れることが出来る。そして彼は装置に戻ることが出来る。


 感じているのは安堵なのか、恐怖なのか。自覚できぬままに伸ばした指先が、封筒を持った彼女のやわらかなそれと触れ合った。


 火に触れたように彼は指を引っ込め、後ずさりする。

「オッターヴォさん?」

 少女が不思議そうに首をかしげる。


「……ああ。なんでもない。大丈夫だ」

 そう言って、しっかりと封筒を受け取った。彼女に触れないよう細心の注意を払ったが、指先が少し慄えた。



 彼女は『他者』だ。天使とも、教授とも、同類たちとも違う、圧倒的な他者だ。

 灰色の街を動かすためのシステムではない。彼らのような装置ではない。


 彼女は生きている存在、名前を持った存在、自分の記憶と自分の人生を持った厚みのある存在。

 自分たちとは根本的に違いすぎて、どう触れ合ったらよいのかわからない。


 それでも予感がある。関わったら、触れ合ったら、今のままの自分ではいられなくなる。

 衝動がある。それでも触れ合いたいという渇望と、ここから逃げ出したいという恐慌と。



『十三番目のヴィルトゥオーゾ』。

 いつか二番が口にしていた、たわごとのような話を思い出す。

 ヴィルトゥオーゾは十二席。減ることはあっても増えることはない。それが決まりごとであり、それ以外の真実はない。


 だが、いつか十三番目が現れるのだと二番は言った。

 その時に世界は書き換わり、彼らが知覚している現実は崩れ去るのだと。


 それはたわごとだ。きっと二番の夢想でしかない。わかっているのに、それでも思ってしまう。

 彼女がそれかもしれないと。

 この灰色の世界を打ち壊し、自分自身を滅ぼす存在かもしれないと。


 それがたまらなく恐ろしいのに、願わずにいられない。

 システムであることを、天使を壊す『八番目』であることをやめ、ただの****として彼女の『名前』を呼ぶことを。


 他のヴィルトゥオーゾたちも同じなのだろうか。震え、おののき、怯えながら、錆びついた顔に笑顔を浮かべ彼女に相対するのだろうか。



「ガッティーナ」

「はいはい。それでいいですよ。何ですか?」

 仕方ないなあと言いたげに、彼女は彼に笑いかける。


「……いつか」

「はい?」

 その後は言葉に出来ないままに、彼は少女を置き去りにその場を後にした。



 いつか、彼女の本当の名前を呼びたい。

 けれどそれが叶うのは、きっと彼が『オッターヴォ』であることを止めた時。

 この灰色の街とともに跡形もなく崩れ落ちる時まで、きっとはかない夢のままであるのだろう。



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