恐怖
「あった。 こっちの方向か」
俺は樹の幹に打ち付けられた布切れを見つけ、その樹の方へと足を進める。
これ布切れは道標だ。 これを辿って行けば街道に一番近い位置で森を抜ける事ができるらしい。
らしいと曖昧なのは、この事が後ろについて来ている少女に聞いた話だからだ。
ぶら下がっていたソレを盛大に蹴り潰され、泡を吹いて倒れた狼男。 それを尻目に、少女に森の出口を知っているか聞いたところ、樹の幹に打ち付けられた布切れを辿れば簡単に出られるとの事。それを聞き、こうして森を抜けるべく歩いていると言うわけだ。
「……あの、こんなにゆっくり歩いていて大丈夫なのでしょうか?」
仕切りなしに背後を気にする少女から、不安そうな声が上がった。
どうやら、先程の狼男が追い掛けて来ないか気になるみたいだ。
「んー……まぁ、大丈夫だろう。 ありゃすぐには起きれないよ」
蹴り潰した確かな感触を思い出し、俺は肩越しに少女を見やって言う。
「でも、消滅していないって事はまだ生きてはいるんですよね?」
「消滅? 消滅なんてしないだろ」
消滅なんて言葉、今の会話の流れで出てくる単語か? まぁとりあえず、さっさと森を抜けるとしよう。
「不安なら急いで森を抜けよう。 抜ければ視界の悪い森よりかは見通しがいいだろうし、追って来たら追って来たですぐ気付けるだろ」
「そう……ですね。急いで抜けま──きゃっ」
「大丈夫か? ほら」
背後ばかり気にしていたからか木の根に足を取られ、少女は小さな悲鳴と共に転んだ。
それに気付いた俺は、少女に近寄って手を差し出す。
「ありがとうございます。 って、そういえば先程助けて貰ったお礼がまだでしたね」
「ん? あぁ、まぁ、あまり気にしないでいいぞ」
「そうもいきません! 命の恩人なんですから!」
そう息巻く少女に、俺は苦笑いを浮かべながら引っ張り上げてやる。お礼目的で助けた訳では無いのだからそこ迄気にする事などないんだけどな。しかし、目の前の少女にそう言っても引きそうには見えない。
「あー……ならさ、ご飯でも奢ってくれ」
森の中を歩いていたからかお腹が空き始めているし、お礼と言うなら食事を奢ってもらうぐらいが丁度良いだろう。
「わかりました! 腕によりをかけて作りますね!」
「え? 別に手料理じゃなくてもいいぞ? そこらへんで安い物買ってくれる程度で十分だ」
「? 私が住む村に食事処は無いですよ。宿屋も無い小さな村ですし」
……村? 村なんて表現する様な閑散とした場所なのか? しかも食事処が
無いって──えっと、あれ……言葉がでて来ない。なんだ、その、もっと手軽に食べ物とか買える様な場所が──
「そうと決まったら、早く森を抜けて村に帰りましょう!」
「あ、あぁ……そうだな」
靄がかかった様な記憶に釈然としないまま、俺は横を通り抜ける少女に合わせて歩き出す。
物凄く引っ掛かりを感じるが、深く考えるのはこの森から出てからでもいいだろう。この森には狼男なんてのがいるみたいで中々危険だしな。
そう考えた所で、俺はふと気になることができた。
「そういえば、あんなのが居る森でなにしてたんだ?」
「その……薬草を摘みに」
俺の問い掛けに、何故か少女は恐々とカゴの中を向けてくる。そこには、先程の広場で咲いていた物と同じ花々が入れられていた。
「摘みにって、一人でか? あんなの居るんじゃ危険じゃないか?」
「ちゃんと魔獣対策に臭い玉を持っては来ていたんです。まさか魔物に遭うなんて……」
先程の事を思い返して恐怖がぶり返したらしく、少女の言葉はしりすぼみして俯いてしまった。
臭い玉ってのは、あの時投げた奴か。あの時の様子じゃ、効果があるかは知らなかったみたいだし、命の危機だったと思えば怖がるのも無理は無い。
と、そんな風に客観的な考えを浮かべ、俺はふと首を傾げた。
俺は、怖くなかったのか?
狼男なんて化物は初めて見た。その未見、未知である対象に恐怖はしなかったのか? 答えは否だ。
鋭い牙に噛まれた時の痛み、鋭利な爪に切り裂かれた時の痛み、それら想像に難くない事柄に対する恐怖は少なからずはあったが、目の前の少女の様な死に対する恐怖は微塵も無かった。
何か、言いようのないズレを俺は感じた。




