表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
四、 月下の告白
43/47

 6

 三浦にも感じたことだが、岩倉の言葉の端々に深い知性を感じるのだ。それに、新選組に属するこれまでの知性派とは一線を画している。改めて感じる己と彼らとの違いに瞠目する。

(あの副長でさえ、この男には及ばないのでは……)

 土方の知略を見知っている斎藤だが、ふと気付いてしまう。

(……ああ、そうか。副長の意識は、常に新選組に向けられている)

 対する彼らの意識は、朝廷や個別の藩の枠内を越えて、海外列強国と対向する為に動いている。勿論、絡み合う利権の存在を忘れてはいないだろうが。

 短い御陵衛士時代に幾つかの西洋の知識を学び、伊東の警護として要人たちとの会合の席に侍り、交わされる論議に耳を傾けていたせいか、僅かなりとも変化の芽が育っていたのだろう。

 広がった見識は、自ずと内面の意識に奥行きを持たせた。志向の柔軟さが培われただけではなく、その事実に気付くなど、これまでの斎藤にはなかったことだ。

 特に岩倉という男の存在は、斎藤がこれまで関わってきた者たちとは明らかに違っていた。生きることへの強かさを感じたのだ。

 覇気で言えば誰よりも強く華やかさがあった芹沢だが、逆に人一倍の危うさと諦観ていかんを持っていた。

 穏やかな人柄の山南には、新選組という組織において致命的な、潔癖過ぎた精神の細さと脆さがあった。

 舞台役者のように洒脱な伊東は、どこか人の甘さが出てしまう育ちの良さと、人を陥れるには生真面目な性質が、策士と名乗るには未熟過ぎた。


 ──だが、岩倉はどうだ?


(……黒い噂などさして気にしないどころか、逆にその噂を最大限に利用しようとするだろう。いや、その噂自体、自分で広めていそうだ)

 彼の目は未来に向けられている。その身にどれだけの闇を抱えていたとしても、目的の為ならその闇すら利用してしまうだろう岩倉という人物を、斎藤は改めて見つめた。

 嫉妬と憧憬が入り混じった感情が溢れ出る。

(……嫉妬、か)

 斎藤の口元で、微苦笑が滲む。

 目を逸らしてきた自身の劣等感に、諸手を上げて降参するしかなかった。

(そう、どこかで諦めていた。己という個は、このまま何も変われないのだと……)

 自然と下がる視線に気付き、今度こそ苦笑した。

(何だか馬鹿らしくなったな)

 現状を無理矢理納得させていた胸のつかえが、するりと滑り落ちた。ゆるゆると新しい感覚が全身を満たしてゆく。

 己を否定するのでなく、肯定できる喜び。

 変わろうと思えば、これからでも、また何度でも変われることができるのだ。

(──生きている限り)

 こんなやさしいことが難しかったなど、何やらおかしかった。ましてや死を乞うかのように、人外の力を頼ろうなどと、己がどれほど病んでいたことが理解できる。それも月光に照らされた油小路を鬱々と歩いていた時ほど、妄信的な思考に固まっていたことなどない。

 斎藤は苦笑を噛み殺した。

(何かに執着するものを見つけたいとは思っていたが、……生死に執着するなど、俺という個は、意外と単純にできているな)

 呆れながらも、抵抗なく受け入れることができた。


「ああ、つまらぬ」


 とろけるほどに麗しい声が飛んだ。

 三人の男たちの視線が集まる。

「ひとり、欠ける」


 ──何が欠ける?


 訝しげに顔を曇らせる男ふたりに対して、言葉の真意に気付いた斎藤は、改めて魔性の姿を見つめた。

 こうして静かな気持ちで対峙できることに、若干の寂しさが募る。

「結局、おまえは何者だったのか……」

 こちらを残念そうに見て微笑む姿が揺らぎ、色が透けてゆく。

「妾は妖。ヒトが持つ闇を糧にする者ぞ」

 にいっと笑みを浮かべた魔性が、宙で右手を払う。


  ……ザァ…………ッ


 冷気をたっぷり孕んだ強い風が吹くと同時に、魔性の背後にそびえ立つ椿の古木が波打ち始め、一斉に花を咲かせた。

 吹き抜けた風の置き土産のように、いつまでもしなる枝から、花がぽとりぽとりと降り落ちる。

 寒月夜に浮かび上がる深紅の椿。その化身たる妖艶な美女。

 淫靡でありながら艶やかな美しさに、斎藤は息を飲む。もう二度と己の目に映ることのない姿を、脳裏に焼き付けた。

(この女は、人が抱える闇が産み出した結晶のような存在だ。極端に言えば、俺自身の闇が具現化したもの……)

 そして、その姿が見えなくなるということは、迷いが断ち切られたということだ。

 蒼い闇空を背景に、幽玄に浮かび上がる椿の木を見上げた。

 ──潔く、首を落とす花。

 いつか土方が椿をそう評した時は、殺伐とした暗い感情が湧いたものだが、今は違う。

 身を律するかのような凛とした気高さを持つ花の姿を、純粋に愛でることができる。


 くすくすくすくす……


 あの女の笑い声かと思ったが、それは微風に揺れて葉が擦れる音だった。

 もう、見えない。もう、聞こえない。

 だが、確かにそこにいた存在に向かって、一言告げる。

「俺は戻る」

 斎藤は踵を返した。

 背を向ける一瞬、まるで憑き物が落ちたかのような、すっきりとした表情を見せた斎藤に、魔性と共に残された男ふたりは面食らう。

「待て、どこへ行く。そなた、そこの妖を斬りに来たのではないのか?」

 岩倉の苛立った声に立ち止まった斎藤は、首だけで顧みる。

「確かにそのつもりだったが、姿なき者をどうやって切れる?」

 あの日、落ち椿の石段で一太刀浴びせることができた斎藤だったが、もう一度同じことをしたいとは思わなかった。

「姿がないだと……?」

 戸惑う岩倉は、巡らした視線の先で嫣然と微笑を湛える魔性の姿を捉えた。そして、その傍で蒼白に顔色を変えた吏鶯に気付く。

「吏鶯?」

 怪訝げに顔をひそめ、声を掛ける。

「……貴方は、椿姫の姿が見えなくなったのですか?」

 驚愕に震える声が紡いだ言葉に、岩倉は弾けたように斎藤を振り返ったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ