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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
参、 御陵衛士
32/47

 5

 天上の半月が薄い雲に隠れた時刻、洗練された衣装に身を包んだ公家の男が、困ったように首を傾げていた。

 特別造作が整っている訳でもないのに、やけに華のある存在感を持った男だった。

「そろそろ色良い返事を貰っても良い時期だと思うのだが、考えてはくれたかい?」

「その件は、もう何年も前からお断りしていたはずです」

「つれないね」

 わざとらしい溜め息を豪奢な扇で隠した公家に、吏鶯は無表情に答えた。

「だが、時は待ってくれない。これまでのように、悠長に返事を待っていられなくなったこちらの事情はわかってもらえるだろう?」

 優雅に扇を閉じ、ぽんぽんと手のひらを打つ公家の眼差しが鋭くなる。

「何故?」

 負けじと吏鶯は薄く笑った。無理矢理にだが。

「何故こんなにも私に執着なさるのですか? 後釜は貴方にとって御しやすい年齢でしょうに。反抗的な私よりよっぽど楽でしょう」

 すると公家は、面白そうに目を細めてきた。

「ほら、そうやって対抗してくるところかな」

「答えになっていません」

「いや、答えのひとつだよ。今、宮中でこの私と張る者なんて皆無な中、君はとても優秀だよ。操り人形も楽しそうだけど、気骨のある君と協力し合えたら、より楽しめそうじゃないか」

 ふふふっと雅に笑う公家に、吏鶯は睨む。

「元々私はこの世に存在しなかった者です。今の僧侶という身分も気に入っています。今更表舞台に引っ張り出されたくありませんし、俗世の争い事は好みません」

「嘘ばっかり」

 ゆったりと目を伏せた公家は、ひとつ溜め息を零した。

「君は私にとても良く似ているよ。その眼差しに宿る意志の強さ。彼女にも通じる聡明さが、何よりも好ましい。……ただ、」

 険を帯びた眼差しが吏鶯を射る。

「あの男にも似ていると言うことが、少々気に入らないがね」

 慈愛にしては暗い執着と、心底からの憎悪に彩られた公家の眼差しに、吏鶯はいつものように背筋が寒くなった。

「……まぁ、あの男の血統があるからこそ、すめらぎにも成り得るのだから。それがふたつ目の答えだ」

 まったく良しとは思っていない顔で頷く公家に、吏鶯は唾を嚥下する。

「貴方の復讐は終わったのでは?」

「復讐?」

 意外な事を聞かれとばかりに、公家は柳眉りゅうびを上げた。

「この上なくこの国の行く末を憂えているのに、心外だ。復讐だなんて、そんなちいさな感情、ある訳ないじゃないか」

 幸福そうに微笑む公家に、吏鶯は背を向けて逃げ出したい衝動を懸命に耐えた。

「彼女が夢見た世界を作ってやれるのは、私だけだよ。……邪魔する者は排除するまでだ」

(狂っている)

 妄執とも呼べる公家の言葉に、無意識に握り締めた数珠じゅずが、ごりっと音を立てた。

 妖である椿姫に対する畏怖と、この男に対する畏怖とはまったく違う種類ものだ。否、もしかしたらこの男に対する畏怖のほうが、生者ゆえの生々しさがより身近なものとして、度合いが強いのかも知れない。

「君に与える猶予はもうないよ」

 歌うように紡ぐ公家は、口元を緩ませた。

 華やいだ雰囲気は、下手をすれば軽薄に見えてしまうのに、それが一切感じさせない。ゆるりとした微笑みを浮かべる公家から溢れ出る、獲物に的を絞った美しい肉食獣のごとく危険な圧迫感が、吏鶯の肌を痛いほどに苛んでくるのだ。

「徳川幕府を潰す手筈は整ったからね。これで君と新しい国づくりができることが待ち遠しいよ」

 そう言い残すと、優雅な所作しょさで立ち上がり、部屋を出て行った。


 ふいに、艶のある憂いの溜め息が零れた。

「相変わらず、あの男の目に妾の姿が映らぬか」

 終始、吏鶯の身体にしなだれ掛かっていた椿姫は、つまらなそうに呟いた。

「あれほど強い気と深い闇を持った男だというのに、惜しいことよ」

 息を詰めて公家を見送っていた吏鶯は、ようやく緊張がほぐれたのか、力なく微笑んだ。

「誰でも見えていた幼い頃の貴女でさえ、眼中になかっただけありますね」

「無論、己の関心事でしか見ようとしない輩は多い。あの男の場合、固執した想いが目を曇らせておるだけじゃ。いや、自尊心が強過ぎるのか……」

「固執した想い、自尊心が強い、ですか」

 それは言い得て妙だと、吏鶯は苦笑する。

「心のとばりも強固で、滅多にあの男の心を覗くこともできぬ」

「貴女が手こずるとは珍しい」

 驚く吏鶯は、深く感心したように溜め息をついた。

「あの男こそ、とんでもない化物ですね」

「妾が負けておるとでも?」

 椿姫の不満げな声に、吏鶯はかぶりを振る。

「愚痴を零すことを許してください。私はあの男が苦手なのですから」

「慰めて欲しい?」

「ええ、甘やかしてください」

 くすくすと笑う椿姫の肩に額を押し付けて、願う。

「お願いします」

「ならば仕方がない」

 項垂れた吏鶯の頭を抱き締めた椿姫は、妖だというのに慈悲深く、神々しい微笑みを浮かべたのだった。



 その数日後、

 大政奉還が布告された。

 十五代将軍徳川慶喜が十月十四日、政権を朝廷に返上したのだ。

 源頼朝に奪われて依頼、武家に所属していた統治権が六百七十五年振りに戻り、朝廷の権限が回復する。幕府にとっても起死回生の秘策でもあった。

 政権を放棄することで、徳川家には全国四百万石の領地と数万の兵が無傷で残るのだ。

 布告された時期もまた際どい。

 五日前には、薩摩長州土佐の倒幕挙兵なる計画が発覚したばかりで、しかも大政奉還の前日の夜には、大久保と岩倉が画策した倒幕の密勅が薩長両藩に下されていたというのだ。

 武力倒幕強行派にとっては、出鼻を挫かれた形となった。

 だが、戦争を経ず新しい政権が樹立した場合、大政奉還の決断を下した徳川慶喜を新政権の中枢に据えなければならなくなる。それでは意味がないのだ。

 強大な徳川藩の力を削ぐ為、武力倒幕の姿勢を崩さなかった強行派のひとつである長州藩は、軍を京都に差し向ける。

 新時代を迎えるには、血生臭い思惑が蔓延していた。

 無血では終わらせない。

 終わらせない、と──。

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